Sugarcoat-シュガーコート- #60

第7話 No one is perfect. -10-


 金曜日の夕方ともなると、仕事帰りのサラリーマンやOL たちの表情には疲れと安堵が混載している。六時を過ぎ、駅の出入りが(にわ)かに激しくなった。
 叶多はサイコロが無造作に重ねられたオブジェの台座に腰かけ、ユナたちが来るのを待った。戒斗と祐真はなるべく目立たないようにと広場の端のほうにいる。
 戒斗は伊達メガネをして頭を撫でつけ、お堅いサラリーマン然とし、一方で祐真は公共電波に顔を乗せることがないせいか、隠すこともなくそのままだ。
 スーツ姿は確かにいまの風景に紛れているものの、ふたりを知っている叶多でさえ非凡さを感じる。日が落ちたことがかろうじて人目を引きそうな雰囲気を緩和した。

「和久井さん、今度のこと……やっぱり戒斗から聞いたんですよね」
 叶多は送迎を(にな)ってくれた和久井におずおずと問いかけた。
 傍に立った和久井は叶多を見下ろして、ふっと可笑しそうに息を吐いた。
「叶多さんは私の期待を裏切らない」
「……どういう意味ですか」
「誉めてるんです。訂正すれば、戒斗は云いませんよ。私はいろんなところから情報を受け取ります。調べようと思えば、たどり着けない場所はありません。それが役目です。云ったでしょう。まあ今回のことで内部障害が判明しましたが」
「内部障害ですか?」
 叶多は不可解な面持ちで首をかしげた。最近、叶多に対して皇室風の穏やかさで応じるようになった和久井はその定番の笑みを向ける。
「大丈夫です。いつかは乗り越えなくてはならない。厄介ですが心配はいりません」
 叶多は事情がわからないままうなずいた。和久井が云うのならきっとそうに違いない。
「ああ、ユナさんたちがみえましたよ」
 和久井はユナたちに向けて挨拶がわりに笑みを浮かべながら軽くうなずいた。
「ずっと思ってたんですけど、和久井さん、ずるい。ユナたちには最初から柔らかくて、あたしへの最初の態度とは全然違う」
 近づいてくるユナたちに小さく手を振りながら叶多が不満を告白すると、和久井は吹きだした。


 そろったところで戒斗と祐真は台座に座り、指慣らしにギターを軽く(はじ)きだした。叶多たちは少し離れてふたりを見守る。
「ドキドキしちゃう」
 ユナの声は悲鳴じみている。叶多も武者震いしそうなくらい胸が騒ぐ。
 練習もきれいなメロディラインになっていて、通りすがりに足を止める人が増えた。
「何弾くんだって?」
「ユーマのラヴソング“PLACE”とFATEの“Purple Shout”」
「バレバレだな」
「だから、終わったらあのミザロヂーって店まで猛ダッシュ。ご馳走してくれるんだって」
「それはいいけど、おまえ、途中で転ぶなよ」
 云うと同時に陽の手が叶多に伸びてくる。
「渡来くん、ストップ!」
「何が?」
「手」
「は?」
「え……っと、だから……痛いから引っ張らないでほしいの!」

 叶多は両手を顔の前で広げて陽を制しながら、戒斗に目を向けた。それに気づいたように戒斗の視線が上がって叶多に向く。
 陽もまた叶多の視線を追って戒斗を見やると冷ややかな眼差しに合い、抜かりなく事情を察した。
 陽はふふんと鼻を鳴らすと叶多の右耳を摘み、口を近づけて、
「第二弾も成功らしい」
と囁いた。
「渡来くんっ、やめてって云ったのに!」
 叶多は躰を引きながら、人目を気にして控えめに叫んだ。ちらりと見た戒斗の口が歪み、無言で云い渡す。
 覚えてろよ。
 陽に視線を戻すと、してやったりと云わんばかりに叶多に向けて口の端を上げた。
「何云われたんだ? 触らすな、とか、近づくな、とか?」
 そこではじめて叶多は策略に気づいた。
「……渡来くん……もしかしてわざとやってたの?」
「おれが黙って引き下がるわけないだろ。戒の牙をもぎ取ってやる」
「余計なこと止めて! 絶対、あたしに返ってくるんだよ?」
「何が返ってくる?」
「え……? そ、それは……」
 戒斗が叶多に罰を与えるとしたら一つの方法しか考えられない。答えられるはずもなく、叶多は目を逸らした。
「……もういい」
「見当つくけどな」
 陽は鼻で笑ってぼそっとつぶやいた。
 叶多は本当に見当ついたんだろうかと疑う一方で顔を上気させた。街灯の灯りは日中ほど表情を曝すことはなく、叶多にとって救いだ。云い訳をしたらますますつけ込まれそうで、叶多は努めて陽の言葉に反応しないことにした。

 そうこうしているうちに立ち止まった人が人を呼んで、オブジェの周りはちょっとした人だかりができた。
 そのうちの一人、二十代半ばくらいのサラリーマンがふたりに歩み寄っていく。会話は聞き取れないけれど、彼は祐真と話しながら何度もうなずいている。それが戒斗にも繰り返され、やがて彼は遠巻きの円の中に戻っていった。
「じゃ、やるぞ」
 戒斗は叶多たちを振り向いた。うなずくのを見届けて戒斗が祐真に声をかけるとふたりは立ちあがった。
 片手を水平になるまで上げ、力を抜いて振り子のように躰の前まで下ろしながら人だかりに向けて会釈をした。さっきのサラリーマンが指笛を鳴らして歓迎を示すと、次いで周りからも拍手が起きた。
 再び台座に腰かけてギターを持ち、戒斗と祐真は手の甲でタッチした。
 祐真のカウントから透きとおった音が流れだし、繊細な旋律が奏でられる。二つのメロディラインが絶妙に連なり、そこに乗る祐真の声は震えがくるほど胸の奥にじんと響いた。
 通る電車の音さえ効果音になっている。冬の準備へと、夜を一つ迎えるたびに空が澄んでいくこの季節、空気はどこまでも音を送りだす。メロディはフルに流れ、やがてフェードアウトした。
 ただのミュージシャンでは終わらない、ソングアーティストと銘打つだけの祐真の実力。ここに立ち会った誰もがその証人として手を揚げてくれるだろう。しんと静まった一瞬後、どれくらいの人がいるのだろうかと思うほどふたりは喝采(かっさい)を博した。

 ふたりは立ちあがり、戒斗が上着を脱いで叶多に近づいた。
「持ってて」
 差しだされた上着を持つと、戒斗の手が上がり、叶多の目もとに触れた。
「やっぱり感動しても泣くのか?」
 戒斗は可笑しそうにつぶやくと、返事も待たずにまた戻った。
 二曲目は立ったまま弾くようで、ふたりともギターのストラップを肩にかけた。なんの合図、もしくは儀式なのか、またふたりは手の甲を合わせた。
 今度は戒斗がリードし、“PLACE”とは打って変わっていきなり激しい音で始まった。祐真の歌い方もさっきとは違うどころか、ハードすぎるほどだ。そこに副旋律を歌う戒斗の声が重なり、そしてふたりを囲むビートに乗った手拍子(クラップ)が加勢する。空気を揺るがすすべての振動が音として一体化し、駅前の広場はライヴホールさながらに高揚した。
 そしてラスト小節(バー)、一際大きく音を放ちながらギターを弾く手をふたり同時に振りきった。
 最初にしたピエロのような挨拶をする間も称賛の拍手喝采(クラッピング)は鳴りやまない。
「すっげぇ……」
 永は無意識でつぶやいた。夏に見たライヴと比べて、素の声に生ギター二本という地味さながらも、それを感じさせないほどダイナミックだった。

「はっきり見抜かれるまえに帰りますよ」
 叶多たちの背後から和久井が促した。同時にやってきた戒斗たちから和久井はギターを預かった。
「では、のちほど」
 戒斗はうなずいて応え、叶多から上着を受け取ると、行くぞ、と背中を支えるように押した。祐真やユナたちもあとに続く。
 あまりの盛りあがりにどうなることかと思ったけれど、永と同じように生演奏に圧倒された傍聴者たちは逆に道を開けてくれ、スムーズに抜けだせた。
 あのサラリーマンと通りすがりにふたりはハイタッチして挨拶を交わした。
 それからミザロヂーで食事をする間、叶多たちのテーブルは昂奮(こうふん)冷めやらず、騒ぎすぎた感もあるが、常連客のみの店だけに寛容にも、客もスタッフも見逃してくれた。
 九時近くになって“ありがとう”を繰り返すユナたちと別れ、また祐真を連れて三人でアパートに戻った。



「祐真さん、ビールどうぞ」
 和室に座った祐真にビールを手渡すと、ありがとうと云うかわりに祐真は煙草を持った手を軽く上げた。
 戒斗は帰るなり携帯電話の着信を受けて、ベッドルームにこもっている。
「叶多ちゃん、頑張った結果が出そうでよかった」
「大騒ぎして情けないですけど……はい」
 叶多が首をかしげると、祐真はかすかに声を出して笑った。
「戒斗の昔話、してやろうか」
 叶多は祐真の申し出に飛びついて大きくうなずいた。

「このまえの話の続きになるけど。戒斗と会ってすぐの頃さ、こいつ何様だって思うくらい人間離れしてて、感情の読めない奴だった。笑うけどどこか冷めてて、突発事態があっても動じないで淡々と処理する。やってることが全部、計算上の“処理”に見えた。けど、冷めてるわけでも処理してるわけでもない。完璧に見えるのは、戒斗はその時々に力を尽くしてるから。わかるかな? おれがギターからベースに転向しろって云ったこと、聞いた?」
「はい。FATEのクリエーターは祐真さんだってことも」
「叶多ちゃんからすれば似たような楽器に見えるかもしれないけど、役割が全然違う。そのうえで独学あがりの弾き方だ。プロとして通用すると自分が納得できるまで戒斗も苦労してる。そういうとこを誰かに話したり見せたりするような奴じゃないけど。ギターやってると、指が弦に完全に慣れるまで痛みはもちろん、指先の皮が剥けたりするんだ。戒斗はやると決めたら全力だし、皮が裂けてもふさがるまで待てないって、接着剤で傷口をふさぐっていう応急手当しながら練習を欠かさなかった。その結果がいまの戒だ。おれは戒斗以上のベーシストはいないと思ってる」

 聞かされた逸話(いつわ)に陽が云ったことを思いだした。
 日頃から頑張ってる。プレッシャー。
 それは戒斗にも当てはまる。
 最初からなんでもできる人なんていない。こんなあたりまえのことを考えもしないで、のん気に叶多は侮辱を吐いたのだ。

「……あたし……簡単に、なんでもできてって云って……あたしが云ったことは戒斗をすごくバカにしてることになるんだ……」
「そう気づいてくれただけで話した甲斐があった。戒斗はそう思われるようにってやってるから発言自体を気にすることはない。戒斗には裏稼業があるらしいし、そこで地位がある以上、なんでもないことのように振る舞わざるを得ないところがあるんだろ。そういう習癖がついてしまってるんだろうな。けど叶多ちゃんがいい緩和剤になってる。戒斗にとっても、その周りにとっても」
「あたしが?」
「まず、戒斗が人前で怒鳴ることなんてなかっただろ?」
 祐真は可笑しそうに叶多を見つめた。
「戒斗はもともと本音をあんまり見せることがないから」
「これから楽しみだな」
「頑張ります」
 叶多が即応すると、祐真は小さく吹きだした。
「それから真理奈さんのこと。叶多ちゃんが云ったとおり、真理奈さんは綺麗だけど、たぶん抱えているものはおれや叶多ちゃんよりつらい。戒斗は利用したって後ろめたく思ってるけど、真理奈さんはむしろラッキーだって云ってる。疑似にしろ、そういう立場にあったわけだから。叶多ちゃんになら、真理奈さんもいつかそういうこと話してくれると思うよ」
「はい」
 祐真は微笑んで煙草を深く吸いこみ、煙を吐きだした。同時にピリッと張り詰めたような雰囲気を纏った。

「戒斗と叶多ちゃんて従兄妹になるんだよな」
「はい。“また”がいっぱい付きますけど。祐真さんと、えっと、昂月(あづき)さんもそうですよね」
 あらためてなんだろうと思いつつ叶多が問いかけてみると、祐真は相づちも打たずにふっと笑うとそっぽを向いた。たったそれだけのしぐさ一つで、祐真は一瞬にして息の詰まるような空間を作りだした。
「叶多ちゃんに訊いてみたいことがある」
「はい」
「いま、叶多ちゃんと戒斗が実は兄妹だって云われたとしたらどうする?」
「はい?」
 突然訊ねられたことがぴんと来ないまま、叶多は返事でもない質問でもない間の抜けた声を出した。
「戒斗と別れられる?」
「……別れる?」
「大丈夫。叶多ちゃんの場合は仮定の話だ」
 叶多を安心させようとした祐真は恐いくらいに表情を無くしている。真剣に問われていることがわかった。

 それが仮定でなかったら。
 叶多も戒斗もいまの気持ちを全部捨てなければならない。一緒にいられるというわがままを知ったいま、どうやって捨てられるんだろう。そこで、はい、さよなら、なんて簡単に終われるはずはない。

「戒斗にどうしてほしい?」
 祐真は質問を変えて促した。
「……自分のことだけ考えていいなら……それでも一緒にいることを選んでほしい。……戒斗のことを考えるなら……『してほしい』よりも離れてあげる。だって、あたしより戒斗に似合う人いっぱいいるってわかってるから。それでなくても障害物があるのに、兄妹なんて云われたら一緒にいる理由を全部取りあげられちゃう気がする。でも……別れるまえに、あたしは……うさぎみたいにさみしくて悲しくて死んじゃうかもしれない」
 叶多が考え考えしながら云うと祐真はただうなずいた。
 祐真が黙っている間に叶多はなぜこんな仮定の話をするんだろうと考え廻った。そして祐真の言葉に行き当たると、そこからヒントを得た。
「祐真さん、あたしの場合は、って……もしかして昂月さんと……?」
「叶多ちゃん、全然頭悪くないな」
 そう云って祐真は笑ったけれど、叶多からは笑い返せないほど泣きたい気持ちが見えた。
「ここからは内緒の話だ。誰も知らない。もちろん、戒斗も。いい? 聞いてくれるかな?」
「あたし、聞いていいんですか?」
 叶多が逆に問い返すと祐真はかすかに笑った。
「叶多ちゃんには一目置いてるから」
 もったいないような言葉に叶多がうなずくと、祐真は新たに煙草を咥えて一呼吸した。

「簡単に云うと、おれは昂月が好きで、昂月はおれが好き。その認識に間違いなんてない。けど、従妹じゃなくてほんとに妹だった。今時、そうめずらしくない父親違いっていうやつ。それがわかったのは二年前。いまだに離れられない。何度かそうしようとしたけど、叶多ちゃんが云った、それでも一緒にっていう昂月の気持ちがわかる。もしかしたら、おれのほうがその気持ちが強いかもしれない。けど、もう一つ。叶多ちゃんが云ったこと。おれよりも昂月に似合う奴がいる。おれは消えたほうがいい。そうわかっている。そんな簡単なことが行動に移せないおれより、試験まで(くじ)けないで頑張ってた叶多ちゃんのほうが人間できてる」
「祐真さん……消えるって?」
「ああ、大げさな意味じゃない。昂月の中からってこと。もうしばらく戒斗にも心配かける。おれ、いま荒れ狂ってるから。けど、抜けだしてみせる。叶多ちゃんを見てて思ったんだ。昂月に昂月であってほしい。それくらい……愛してるから」

 祐真は淡々と告白した。笑みすら浮かべて。それはかえって、祐真の中にどれだけの想いが詰まっているかを浮き彫りにしている。愛してる、と他人に云いきれるほど。
 叶多の瞳から堪えきれなかった涙が落ちた。
「ごめんなさい。あたしが泣くことじゃないのに……泣くのは簡単ですよね……」
 あたしは些細(ささい)なことでいつも泣くだけ泣いてみんなに甘えてる。どんなにうらやましく見えても、誰だって簡単に片づけられない何かを抱えてる。
 叶多が震えた声で謝ると、祐真は首を振って否定した。
「違うよ。泣くことって難しいんだ。おれもさ、戒斗が後ろめたいと思ってるのと似たようなことをやってる。いろんなことで懺悔(ざんげ)する場が必要だった。ありがとう、聞いてくれて。おれと叶多ちゃんの秘密だ」
「はい」

 叶多が涙を拭いているとき、ベッドルームのドアが開いた。和室に来た戒斗は叶多を見て顔をしかめた。
「何泣かせてんだ?」
「究極のラヴソングを歌っただけだ」
 戒斗の批難を受けても、祐真は肩をすくめてすかした。
「戒斗、祐真さんの云うとおりだよ。路上ライヴのときと同じだから。ビール飲む?」
 叶多のフォローで納得したのか、戒斗もまた肩をそびやかして、ああ、とうなずいた。 ビールを手渡したあと、風呂に入れば、と云う戒斗の勧めは叶多にとって好都合だった。気軽に振る舞える気分ではない。

 叶多はバスタブに浸かると、祐真の告白を反芻(はんすう)した。

 どんなに好きでも、互いに同じ気持ちがあっても、一緒でいることを許されない。
 その理由は違っても、あたしと戒斗にもあり得ない話ではない。戒斗はあたしにそう忠告した。
 その瞬間が来たら、あたしと戒斗は何を選ぶんだろう。

 愛してるから。
 だからこそ、どうしたい、より、どうするべきなのか、を選ぼうとする祐真。
 それは果たして正しいことなのだろうか。
 堂々巡りのまま、いくら考えても答えは出ない。

「叶多」
 いきなり戒斗が風呂場の戸を開けた。口もとまで湯に浸っていた叶多は溺れそうになってもがいた。
「戒斗っ、な、何?」
「あんまり長いから眠ってるのかと思ったんだ」
「だ、大丈夫。ちょっと考え事してた」
 戒斗のおもしろがった眼差しが叶多から胸もとに落ちた。
「おまえの母さんがそう云ってたな。風呂場は叶多の棺桶(かんおけ)らしい」
 温まったのとは別に赤くなった叶多をからかって戒斗は出ていった。
 吸血鬼は戒斗なのに。あ……でも血を吸われたら吸血鬼になっちゃうんだっけ。
 そう考えて、やっと叶多に笑みが戻った。


 叶多は浴室を出ると、戒斗と祐真にまた合流した。
「戒斗、ライヴで祐真さんとやってたタッチってなんの合図? どうして手の甲なの?」
 横にいる戒斗を見上げて叶多は訊ねた。
「あれは調子を見てる。力の入り具合がわかりやすい。力入れすぎると音が硬くなるから、そういうときは声をかけてリラックスさせるんだ」
「それと別に。映画でよくある女性への手の甲のキス。あれは尊敬とか敬愛の意味があるらしい。つまり、お互いの音を尊重していこうって感じかな」
 戒斗に続いて祐真が説明すると、ライヴでのふたりの姿を思い浮かべた。
 ただのコンタクトの手段なのに、いちいち様になっているのは不公平だ。
「なんだか、うらやましい」
 叶多は云ってしまってから慌てて口をふさいだ。
「また云っちゃった」
 口をふさいだまま叶多がもごもごと云うと祐真が吹きだした。
「なんだ?」
「おれと叶多ちゃんとの秘密だ。な?」
 祐真に振られて叶多がうなずくと、戒斗は眉間にしわを寄せた。
「あ、戒斗。あの男の人、サラリーマンの。知ってる人だった?」
「ああ、あれは路上ライヴやってた頃の客」
「あの人、感激って感じだった」
「あの場所でまた聴けることがうれしいって云ってたな。当時は大学生だったけど、いまはあのとおり会社勤めで、いろいろ煮詰ってることがあるらしい」
「……みんな、たいへんなのは同じなんだ」
 しんみりとつぶやいた叶多を戒斗が覗きこむ。
「どうした?」
「ううん。あの人、きっと戒斗たちに励まされてるよね」
「そうできたら云うことないけどな」
 それをきっかけにして路上ライヴのエピソードを聴いているうちに、叶多の意識はだんだんと曖昧になっていった。
「叶多」
「……うん」
 生返事したあと、戒斗に引き寄せられて横になったことをおぼろげに察しながら、叶多は意識を閉じた。


「疲れてんだな」
 戒斗の太腿に頭を載せて眠っている叶多を見やりながら、祐真は煙草を吹かして煙を避けるように目を細めた。
 戒斗は肌寒さから保護しようと叶多の躰の上に手を載せ、ああ、と短い返事をした。
「叶多ちゃんてさ、このまま子供の頃の気持ち持って大人になってくんだろうな。素直すぎる。ある意味、怖いな」
「それが強さだ。叶多は気づいてないけど」
「可愛くて堪らないって感じだ」
 祐真がからかうと、戒斗は小さく首をひねった。
「それじゃ、足りないかもしれない」
「はっ。かもしれない、は不要だろ」
 無視するかと思いきや、答えた戒斗に驚きつつ、祐真は呆れたように笑ってさらにからかった。
「祐真、おまえはどうするんだ?」
「考えてる。おれ自身にけりがついたら話す」
「待ってる」
「わかってる。戒斗、おまえはヘンなプレッシャーをかけるよな。心配してるのか残酷なのかわからないときがある」
「どっちかはわかってるはずだ」
 祐真は笑った。
 それからしばらくして祐真は帰った。



 これまで二週間余りの疲れが一度に来たのか、ベッドルームに運ぶ間も叶多は目を覚まさずに熟睡している。
「安心しすぎだな」
 戒斗は間近でつぶやき、叶多のくちびるをぺろりと舐めてから顔を離すと、叶多の躰の下から腕を抜いた。
「戒斗……離れてかないで……」
 叶多が思いがけなくつぶやいた。
「叶多」
 頬に触れて呼びかけても答えはなく、寝言だったらしい。
 叶多の額に手を当て、撫でるように髪をかき上げてから、戒斗は浴室に行った。

 ほどなくして戻っても叶多は仰向けの姿勢のままで、戒斗がベッドの中に入ったところで叶多は身動き一つしない。
 好きにしていいって云ったはずだ。
 パジャマの襟もとを(はだ)けると薄いピンクに色づいた先を口に含んだ。
 ん。
 叶多は小さく呻き、戒斗がしばらく戯れると口の中で躰の反応が表れた。それでも起きるまでの気配はなく、起こすかどうか迷った。
 これがおれじゃなかったらどうするんだ?
 戒斗は顔を上げ、隙だらけの叶多を見下ろして目を細める。

 違う。
 おれじゃない、はずはない。
「離せないだろ」
 こうなったいま。
 放してと云われても、離れろと云われても。
 放してと云われるなら縛りつけ、離れろと云われるなら閉じこもり、白木(ホワイトアッシュ)(くい)を迎え撃つまでだ。

 叶多が触れさせた耳をかじる。
 かすかに身動(みじろ)ぎした叶多を引き寄せて戒斗も目を閉じた。


――離れてかないで。

 今日は許してやる。

* The story will be continued in ‘Candy floss’. *

BACKNEXTDOOR


* 文中、接着剤で傷をふさぐことについて
  某有名瞬間接着剤を使ってアカギレをふさぐ人が身内にいます。
  実際、ギタリストもそういう使い方をしている人がいます。
  が、それが医学的にどうなのかということについて保証はしません^^;