Sugarcoat-シュガーコート- #59
第7話 No one is perfect. -9-
金曜日、昼の一時を過ぎた頃にアパートに帰りついた。玄関に入って背後でドアの閉まる音がしたと同時に、叶多から肩の力が抜けた。
三日間の試験は入試のような気分だった。進路が左右されるだけに似たようなものに違いない。
午前中の試験が終わってから、ユナたちと青南駅前のファーストフード店に寄った。一時間余り、打ち上げじみた昼食を取って緊張が解けたつもりが、家に入るとさらにほっとした。いますぐ眠りたいところでも、そうしたら明日まで起きられなくなりそうだ。
夕方遅くには戒斗と祐真が約束してくれた路上ライヴが待っている。
靴を脱いで上がるとベッドルームからくぐもった声が聞えてきた。
一緒に暮らすようになってから、有吏の仕事についてはベッドルームに引っこむ癖がついたと戒斗は云った。叶多がいなくてもそうするまで習慣になっているらしい。陽の推測を借りれば、ベッドルーム自体が棺桶化しているのかもしれない。
叶多はこっそり笑ってダイニングに入った。甘酸っぱいいい匂いがして部屋を見渡すと、テーブルの上に見慣れない鍋を見つけた。バッグを椅子に置いて蓋を開けてみると、ビーフシチューが入っていて鍋はまだ温かい。
「それ、タツオから『お疲れさま』だってさ。冷蔵庫には生ハムのサラダが入ってる」
いきなり背後から声をかけられて、叶多は鍋の蓋を落としそうになった。
「戒斗……ただいま」
驚いたあまり、叶多は気が抜けた声で云いながら振り向いた。戒斗はすぐ近くにいて問うようにかすかに首をかしげた。
「どうだった?」
「理数が足引っぱってて……ぎりぎりかもしれないけどたぶん、大丈夫」
「理詰めの数学のほうが覚えること少なくて簡単な気がするけどな」
「あたしの場合、脳みそに数学嫌いの細胞があってシャットアウトしてるんだと思う」
叶多は至って真面目なのにもかかわらず、戒斗は小さく吹きだした。
「とにかく結果が楽しみだ」
「うん」
「ホッとしたって泣かないのか?」
「これくらいで……」
戒斗の認識を改めようと否定しかけたのに声が揺らぐのは防ぎきれず、それどころか促されたことで最高値まで気が緩んだ叶多の瞳は潤んでしまった。
戒斗は笑いながら躰をかがめて顔を傾け、キスで叶多のくちびるの震えを止めた。叶多が口を開くと戒斗の両手が顔を支える。キスは頑張ったご褒美にと、まるで蜂蜜を舐めさせられているくらいに甘い。そのうち、叶多の頬を離れた戒斗の右手がブラウスの中に入りこんで素肌に触れた。
んっ。
戒斗の意思が指先から叶多に浸透してきて、躰が戸惑いに震えた。
引き返すのが難しくなるまえに戒斗の胸に手を当てて突っぱね、叶多はやっとのことでくちびるを離した。それでも戒斗がちょっと力を込めれば触れそうなくらいの距離しか離れていない。
「戒斗、だめ!」
「時間はある」
「起きられない」
「すぐイカせてやる」
「同じだよ!」
試験中は手加減すると約束した戒斗の手加減の意味とは、回数を減らすことではなく時間短縮ということにあった。急速に攫われるほうがらくな気はしたけれど、力を奪われることには変わりない。
拒めないながらも、せっかく頭に入れたその日の知識が全部飛びそうな怖さを抱いていたと知ったら、戒斗は笑うだろうか。
目の前で凄みを宿した瞳が細くなる。無言のうちに振り回したのは誰だと責める。
試験勉強中、かすかに不機嫌さが見え隠れしていた戒斗を思いだした。その理由はわからないままでも、やっぱり迷惑かけたことは事実だ。
「えっと……あ、あとで」
戒斗は怪しむように首をひねる。
「す、好きにしていいから!」
心配かけたという後ろめたさから、叶多は思わず口走った。
戒斗のニヤついた顔を見るなり後悔したことは云うまでもなく、叶多はそのときになるまで考えないことにした。
夕方になって真理奈と祐真を交え、タツオが持ってきてくれたご飯を一緒に食べた。
片づけを終わり、叶多が着替えを終えてベッドルームから出てくると、ダイニングで寛いでいる真理奈が少し顔をしかめた。
「へんですか?」
薄手の白いタートルネックの上に、ストンとしたオレンジ色に近い茶系のキャミソール型のワンピースというのはバランスが悪いんだろうか。叶多は自分の姿を見下ろした。
「そんなことないけど、せっかくならちょっと大人っぽく。そうしたらサラリーマンの横にいても違和感ないでしょ」
なぜサラリーマンが出てくるかというと、祐真が提案した変装の結果による。仕事帰りが多い時間帯ではスーツ姿なら正体がばれることもなく、音楽好きのサラリーマンという認識で終わるだろうと目論んでいる。
いま、戒斗も着替え中だ。
真理奈は立ちあがって叶多の二つに結んだ髪をほどくと、長い髪を一つにまとめてわざと緩く結び、左の胸の前まで持ってきた。
「うーん、いい感じ。どう、祐真?」
「大人っぽくなった」
スーツを着た祐真がダイニングの椅子に踏んぞり反り、煙草を吹かしながら笑んだ。いつもは無造作にした髪を、今日は撫でつけて整えている。
叶多がうれしそうにすると真理奈も満足そうにうなずく。
「もうちょっと肉付きがよくなってもいいと思うけど。そしたら胸も大きくなるかも」
真理奈がポンポンと軽く叶多の胸を叩くと、すぐさま叶多は身を引いた。
「ま、真理奈さん、祐真さんの前で――」
「んもう、可愛いんだから」
真理奈は出しぬけに、恥ずかしさで慌てふためいた叶多を自分のふくよかな胸に引き寄せた。
叶多は戸惑いつつも、真理奈の胸が弾力充分なことをあらためて知り、自分の胸をますますぺったんこに感じた。
「真理奈さん、もうその辺でやめといたほうがいい。戒斗が――」
「真理」
祐真の忠告しかけたところで戒斗の肝を据えたような低い声が叶多の背後から響いた。
「あらぁ、怒ってる」
真理奈は叶多を離して戒斗をちゃかした。
「叶多、いったいなんでそんなに簡単に他人に触らせるんだ?!」
つかつかと近寄ってきた戒斗は堪りかねたように不機嫌さを諸出ししていて、その矛先はなぜか叶多に飛んできた。
叶多は困惑して首をかしげた。
祐真が大げさなくらいに声をあげて笑いだす。
時間を戻せるなら間違いなく削除したいシーンなのかもしれない。我に返った戒斗はバツが悪そうに口もとを片手で覆った。
はじめて見る表情で、重ねてはじめて目にするサラリーマン風のスーツ姿は違う人のようで、叶多は不思議そうに戒斗を見上げた。髪は後ろに流して固めているみたいだ。
「触らせる……って?」
「叶多ちゃん、かなり陽くんに触られてるじゃない? こんなふうに」
真理奈が叶多の耳を引っぱる。
「真理、いいかげんにしろ。タイムアップだ」
即座に戒斗が制した。
真理奈は、はいはい、と可笑しそうに答えて叶多から手を離す。
「戒斗、でも……あれくらい普通のことだよね? 友だちだし……」
「とはいえ、他所の男には触られてほしくないってのが本音なのさ」
「祐真」
戒斗は真理奈に続いてこの場をとことん楽しんでいる祐真をさえぎった。
「だって……戒斗と真理奈さんだっておんなじ――」
「真理は男だ」
戒斗は淡々と叶多をさえぎって云い放った。
叶多の頭の中ですぐには主語と補語がイコールにならなかった。イコールに近づくにつれ、叶多の表情がびっくりしたまま動かなくなった。
「…………。え……?」
「こいつの本名は椎奈真理。外見的には女だけど戸籍は男だし、男を捨ててるわけでもない」
「え?!」
「高校の頃は、中身はともかく、外見は少なくとも男のままだった。普通に比べたら声がちょっと高めなのと全体的に色素薄いせいで、真理って呼ばれるようになったんだ」
真理奈を見やると、ふふ、と叶多の反応を見ておもしろがっている。
「そういうこと。私って男にも女にも惚れやすいの。だから、どっちにも対応できるように胸は女だけどアソコは男。つまり両刀遣いなわけ。正直、叶多ちゃんにも惚れそうだわ。ついつい触りたくなっちゃうのよね。苛め甲斐がありそうだし」
発言の最中も無言で脅されようがおかまいなしで、真理奈は挑発ともとれるような眼差しを戒斗に向けた。
「真理、ゲームセットだ。楽しんだだろ?」
戒斗は少し顎を突きだして警告した。
「まあね。いままでにない戒斗を見せてもらったし……叶多ちゃん、私のこと嫌いになった? 気持ち悪い?」
「そんなことないです! ……倒れそうなくらい驚いてますけど……」
叶多がためらいなく答えると真理奈はうれしそうにうなずいた。
「叶多ちゃんも合格。女の子から女性だと思われるのは私にとって最大の賞賛なのよ。合格したのは私のほうかしら。胸は作り物だけど」
考えもしなかっただけにまだ叶多の頭はうまくまとまらないなか、胸という言葉に記憶が反応した。
「あ……真理奈さん……男……む、胸、触られた……」
単語を並べてぼそっと叶多がつぶやくと、隣で聞き漏らさなかった戒斗が真理奈を睨めつける。
真理奈は動じることなくくすりと笑う。
「あら、さっさと退散したほうがよさそう。叶多ちゃん、宣言しておくと、高校の頃にすでにフラれちゃってるけど私は戒斗にずっと、いまでも惚れてるのよ。でも、戒斗も油断しないことね。陽くんにも頼くんにも、もちろん私にも」
堂々と叶多にも戒斗にもライバル宣言をした真理奈はふふっと笑って、じゃあまたね、といつものように祐真に声をかけて仕事へと出ていった。
不機嫌な戒斗が黙りこんだなか、祐真が小さく笑うと、半ば唖然としていた叶多は少しだけ頭が正常に戻った。
「戒斗と真理奈さんて……まえに付き合ってたんだろうって思ってた……戒斗はなんだか話したくなさそうだったから……」
戒斗は気を治めるかのように息を吐きだした。
「……あながち間違いだとは云いきれない。けど、本来の意味でそういう倒錯した趣味はない」
「そのまえに趣味的にいうなら、叶多ちゃんと真理奈さんじゃ段違いだ」
祐真がおもしろそうに口を挟み、戒斗は顔をしかめた。
「云いきれないって……?」
「あまり話したくなかったのは事実だ。いいことじゃないから」
「それでも男友だちっていうのは話してもいいことだよ?」
「真理には借りがある」
「借り?」
「バーテンダーやっててトラブったっていう話をしただろ。ああいう勘違い男は一人だけじゃない。ありもしない『手を出しただろ』っていう嫌疑をかけられて面倒なことを繰り返すよりは特定の女をつくるほうがラクだ。かと云って、そこら辺の女に頼んだところでまた勘違いされても困る。そう考えてるときに家出したおれを探しだして真理がやって来た。それから真理は毎日と云っていいくらい通ってきた。高校卒業してから外見はすでに女になってたし、そのうち周りが誤解したんだ。バンドやりだして、追っかけにも同じ効力あったから、わざと否定はしなかった。真理がおれに対してどういう気持ち持ってるか、持ち続けているかっていうのも知ってておれはそれを利用した」
戒斗は肩をすくめた。そこに自己嫌悪が見える。
戒斗が云うからには叶多にライバル宣言した真理奈の気持ちは本物なわけで、そう考えると戒斗は真理奈に対していちばん残酷なことをしたのだ。
あたしが真理奈の立場だったら、あんなふうに戒斗や“あたし”の前で笑えるんだろうか。
そう思った。
顔を曇らせた叶多を見下ろして、何を思ったのか戒斗はかすかに口を歪めた。
「そのかわりに真理のゲームに付き合ってる。真理は気のすむまで女扱いさせたあとに男だってバラしたときの反応を楽しんでるんだ」
祐真がおどけて手を上げた。
「おれも犠牲者アンド合格者の一人」
「それがトラブルになったこともある。快く迎えてくれる奴ばっかりじゃない。真理が云うところの不合格者はたくさんいる。相手が恋愛対象じゃない限り、黙っときゃいいのにって思ったこともある。けど、そうやって自分の居場所を確かめるのがあいつのやり方だし、選んだ生き方だ」
戒斗が普段、容赦なく真理奈を貶すことはあっても、それは信頼のうえに成り立っていることだと知った。それくらい、いま云った言葉一つ一つに真理奈のことを戒斗なりに大事にしている気持ちが見えた。
けっして独り占めできない戒斗の気持ち。
真理奈を大切に思う領域が戒斗の中にあって、そこは叶多の入れない場所であり、真理奈をうらやましいと思った。
叶多に対するものとは違う種類であることも、戒斗の中に占める叶多の比重のほうがより大きいこともわかっている。
やっぱり欲張りでだんだんと贅沢になっている。
しばらくは真理奈への複雑な感情に惑わされそうな気がした。
「それはそれとして、だ」
戒斗の声の調子ががらりと変わった。叱責するような口調だ。
叶多は問うように見上げた。
「二度とあいつらに触らせるな」
こんなふうに苛立ちのままに命令する戒斗もまたはじめてだ。理不尽極まりない。
「……そんなの、あたしが気をつけても……!」
戒斗は目を細め、叶多にそれ以上云わせなかった。
祐真が爆笑の域に突入して笑いだした。