Sugarcoat-シュガーコート- #58
第7話 No one is perfect. -8-
見事な包丁捌きで玉ねぎとにんじんとピーマンがみじん切りになると、大きな中華鍋の下でガス火が点いた。熱が通る間に輪切りしたウィンナーソーセージがまな板の上で転がる。鍋に油を垂らし、くるりと回して油を行き渡らせると、ざるに入ったみじん切りの野菜が一気に投入された。気持ちいいくらいに水を弾く音が立つ。
ウィンナーソーセージと一緒に塩コショウとバターが加えられ、換気扇が間に合っていないのか、食をそそる香りが部屋全体にたちこめた。
「うわぁ、美味しそうな匂い」
「勉強どころじゃねぇな」
ユナが感嘆の声を上げ、永が賛同して鉛筆を置いた。
「だめだよ。せっかく時間割いて来てもらってるんだから、そのぶんちゃんと勉強しなくちゃ」
「すげぇやる気だな」
叶多がユナたちをたしなめると、陽が身を乗りだして皮肉っぽく云った。
「そ。頑張るって決めたから」
「おまえってわかんない奴だな」
叶多の張りきりぶりを見て、陽は両手を伸ばして剥きだしの耳を引っ張る。
「痛いって――」
「叶多お嬢さん、鶏がらかコンソメの素ありませんか」
「あ、いまタツオさんがいるとこのいちばん上の引き出しにどっちも入ってます」
「承知しやした」
云われ慣れていない『お嬢さん』と叶多を呼んだのはタツオだ。
スーツの上着を脱いで、叶多が貸したグリーンのシンプルなエプロンを身に着けた姿は“ちんちくりん”で、そのぶん、おっかなさが抜けた。
昨日はじめてタツオと対面したユナたちは、五分刈りした頭と迫力充分な鋭い目つきに引き気味だった。いまの返事のようにちょっとおかしな言葉遣いに首をかしげることはあるものの、その滑稽な姿が雰囲気を和らげて、今日は緊張が解けているようだ。
昨日、つまり月曜日の朝になって学校へ行く直前、叶多は戒斗から勉強会の間、平日は夕食の賄いを頼んだと聞かされた。八時までやるからには当然お腹は空くわけで、叶多が作るにしてもユナたちが食べ物を持参するにしても毎日となると負担だろうと気を利かせてくれたのだ。
その賄い人がタツオと知って驚いたけれど、和久井家に入った頃からずっとその役目を担っていただけに、料理することについては朝飯前らしい。
それで叶多が助かるのはともかくのこと、和久井にまた愚行が知られたかと思うと少し落ちこんだ。今更、だろうけれど。
タツオはキッチンで戸惑うことなく料理の腕を披露している。今日はチャーハンで、タツオが持ってきた巨大中華鍋に八人分という大量のご飯を入れ、具を絡めながら混ぜ返す様は力のある男にしかできない技だ。
八人という、いきなり大所帯の構成は叶多たち勉強会四人組と作っている本人のタツオ、もちろん戒斗、土曜日以来、毎日やって来る祐真、そして真理奈だ。後者の三人とも、いまは叶多の背後の和室で寛いでいる。
真理奈についてもあまりのゴージャスぶりに最初は圧倒されたユナたちだったけれど、その気さくさに引きずられてすぐに打ち解けた。
「渡来くん、耳、引っ張るのやめてくれない? 痛いんだよ」
叶多は云いながら陽の手を解いた。
「犬の耳って触ると気持ちいいんだよね」
ユナが可笑しそうに口を挟んだ。
「ユナまで犬って云わないでよ」
「戒斗さんに咬みついたの、確か犬だって云ってたよね」
「ユナ!」
叶多は悲鳴じみた声でユナを制した。
叶多の仕返しは、結局は墓穴を掘ってしまった。
勉強会二日目の日曜日、戒斗も含めて休憩時間を取っていたとき、祐真がやって来た。おやつを囲んで全員和室に集まってわいわいと賑わうなか、祐真は戒斗の首筋に歯形を見つけ、おもしろがった口調で指摘した。
本人たちのみぞ知る事実を取り残して、いつ咬まれたのか、ということについて誰もが何を想像したのかは歴然としている。
犬に咬まれた、とありえない云い訳をした戒斗自身、ざまぁみろ、というような目を叶多に向けて楽しんでいた。
茹でダコみたいになった叶多は、とことん辛子の効いた酢味噌に包まって自ら戒斗に食べられ、報復したい気分になったのだった。
「なんでもかんでもやる気満々みてぇだし、ま、それはいいけどよ、試験まえだ。せいぜい脳みそが空っぽになんねぇ程度にしとくことだな」
「時田くんっ」
「耳が赤くなってるぞ」
また陽が意地の悪い目つきで叶多の耳をつかんだ。
「もういい。ちゃんとやんないと、ご飯お預けだからね」
叶多は陽の手を叩いて投げやりにつぶやき、耳が解放されるとさっさと問題集に向かった。
「はいはい。とりあえず、ご飯まで気合入れよう!」
ユナはクスッと笑いながら叶多に同調した。
*
「戒斗、いいの?」
「なんだ?」
戒斗はいつもと変わりなく平然と問い返した。
長年の付き合いゆえに真理奈からすれば、戒斗が答えたくなさそうなのは明白だ。ましてや訊き返すまでもなく、戒斗はその意味を察せないほど鈍感ではない。
けれど、めったに感情を動かさない戒斗だけに、ここで止めるにはもったいない機会だ。
「友だち、にしては仲が良すぎない? おまけにイイ男になる素質、充分に備わってるし。私、いまのうちに唾つけちゃおうかしら」
真理奈のおもしろがった口調に戒斗の顔に一瞬だけれど、不快さがよぎった。
「真理奈さん、戒斗がこれくらいのことで動じるわけないよ。なぁ?」
祐真の云い方は戒斗をかばっているようで、その実、真理奈と同様におもしろがっている。
「祐真、出入り禁止されたくないんだろ? 真理、おまえもだ。云っとくが、叶多が警戒していないぶん、あいつよりおまえのほうが危ない立場にいるってこと、覚えとけよ。いくら借りがあるからといって、下手なことをするようだったらそこまで、だ。それ以上におまえのゲームに付き合う気はない」
戒斗は一欠片の感情も見せずに淡々と云い放った。
「あら、恐い」
祐真が吹きだすと同時に煙草の煙も散った。
ガス欠することなく勉強会はずっと続いて、明後日の水曜日から三日間のテストが始まる。試験前夜は自分のペースでやることにして、予定を一日繰りあげたので勉強会は今日で終わりだ。
景気づけにと季節先取りでタツオは寄せ鍋の立食パーティを段取りした。
勉強を早めに切りあげて手伝おうとしたものの、かえって邪魔になるほどタツオは手際よく、叶多の出番はまるでない。
「こんだけの量、簡単にこなしちゃうってタツオさん、すごい」
せめてと叶多とユナが手伝って、ダイニングテーブルの上のお盆に並べた野菜はこれでもかというくらいてんこ盛りだ。
「これくらい少ないうちです。一家ではこの倍の人数いますから」
ユナはガス代の前に立って、タツオが昆布からダシを取って調味したスープをスプーンにすくって味見をしている。
「スープもいい感じ」
ユナが満足そうに舌鼓をした。
「あたし、タツオさんに弟子入りしようかな」
「叶多お嬢さん、買いかぶりすぎっすよ」
叶多の真面目な口ぶりに、タツオは照れくさそうに答えた。
言葉遣いはいまみたいにたまにずれることがあっても、タツオは立場的に叶多と距離を置いている。それでもこの二週間余りで、ふたりの間に気分的な隔たりはすっかりなくなった。
「そろそろ、いいだろ? 腹減った狼が何匹もソワソワしてる」
「有吏の坊ちゃん、始めてください。あっしもすぐ終わりますから」
すぐ傍に来た戒斗はタツオの云い方に小さく笑った。その意味に気づいたタツオは包丁を持った手で頭を掻いた。傍から見ると、さながら凶器を振りかざす殺人鬼だ。
「あ、すんません。いや、じゃねぇ、すみません。気をつけてるんですがつい……」
「タツオさん、包丁、危ないよ」
見た目と愛嬌のあるしぐさがアンバランスで、笑いながら叶多が指差すとタツオは慌てて手を下ろした。
叶多とタツオを見比べながら戒斗はふっと笑った。
「叶多、タツオはどうだ?」
「どうだ、って?」
「長く付き合えそうかってことだ」
「全然大丈夫」
戒斗の意図をまったく理解できないままも、叶多は即答した。
「だそうだ、タツオ。おまえは?」
「充分すぎます」
戒斗に振られたタツオは照れくささと恐縮さを交えて応えた。
「戒斗、なんの話?」
「いずれ、の話だ」
叶多は不満げな表情でまともに答えない戒斗を見上げた。その肩に赤い爪の目立つ手が載った。
「早く食べましょうよ。仕事に行かなくちゃいけないし」
マニキュアの色と同じ赤いドレスを着た真理奈は、仕事モードに入ったように艶っぽい声で戒斗の耳もとに囁いた。
「いますぐ仕事に行っても全然かまわないけどな」
「まあ、酷い」
真理奈が大げさに嘆いた。
「真理奈さん、食べましょう! あと、お野菜入れるだけだし、すぐに食べられますから」
「んもぅっ、さすが叶多ちゃん、やさしいんだから」
明らかに仕事モードの感激ぶりで真理奈は叶多に向き直ると、陽と同じように耳を摘んだ。
「真理」
「はいはい、わかってるわよ」
戒斗の渋い声に真理奈は手を離して軽くホールドアップした。
「さあ食べましょうよ。男性陣、こっちいらっしゃい」
真理奈は女主人であるかのごとく、和室で談笑しながら待機している祐真、陽、永、そして事情を知って陣中見舞いに来た頼を誘った。
本当に食べきれるのかというくらいに山積みだった野菜もだんだんと侵食されていく。鍋の立食もなかなか乙だ。テーブルに座って食べるよりは行き来しやすいぶん、話も弾んで賑やかになっている。
陽が独りになった隙をついて叶多の傍にやってきた。
「おまえ、大丈夫なんだろうな」
陽は片手に深皿を持ち、つみれを突いていたお箸を叶多に突きつけた。
「わかんないよ。出てくる問題次第じゃない?」
叶多はにっこり笑って陽のお箸を退けた。
「泣きそうにしてたくせにどこからそこまでの余裕が出てくるんだ?」
「余裕じゃないよ。ただやれることを頑張ってるだけ」
「ふん。それは認めてやる。とにかく、落ち着いてやれば絶対にいける。わからないと思ったら次の問題だ」
「後回しにすればいいんだよね」
「パニクるなよ」
意地悪ではない真面目な陽の口調に叶多は驚いた。
「渡来くん、心配してくれてありがと。頑張るよ」
「おまえみたいな奴いないし、そのいるべき奴がこれから四年間いないと張り合いないだろ」
「……それって誉め言葉なの?」
陽の言葉はどこか素直に喜べない。叶多はわずかにしかめ面で訊き返した。
「そう取るなら、おれはおまえに“超プラス思考単純おバカ”ってキャッチフレーズつける」
叶多は今度こそ思いっきり顔をしかめてみせた。陽の意地悪にますます拍車がかかったと思うのは気のせいだろうか。
「ふん。半分くらいは誉め言葉として譲ってもいい。まあ、それはいいとして」
叶多には『それはいいとして』で片づけられるような云いぐさではなかったけれど、陽に時間を割いてもらった弱みでここはぐっと堪えた。
「何?」
「なんかおまえの周り、おかしな人間が多すぎないか?」
「そう?」
「料理のうまい物騒なフランケンシュタインの怪物、へんにナマっぽい絡新婦、やたらと歌のうまい一匹狼男、“甘えた”に変貌中の頭の良すぎるスサノオ、極めつけは牙剥きだしのドラキュラ伯爵だ」
叶多は部屋を見回しながらどれが誰かを当てはめていく。
「戒斗はドラキュラなの?」
可笑しそうに訊ねると、陽の手が叶多の首に伸びてきた。陽の手が目的地に到達する寸前、背後から違う手が叶多の首をかばった。
陽はゆっくりと手を引き返し、視線を叶多の頭上に上げた。
「こうやって神出鬼没で現れるし、吸血痕をつけるのが好きらしい。おまけに電話だといっては引きこもる。実は明るいところが苦手で暗闇を好む。あそこに棺桶でもあるんじゃないか?」
叶多に向けて話しつつも視線は戒斗にあり、陽は揶揄しながらベッドルームを指差した。
「なんの話だ?」
「戒斗がドラキュラだって話」
叶多が吹きだしそうになりながら後ろを見上げて答えると、戒斗は叶多の首から手を下ろし口を歪めた。
「渡来、なかなか鋭いところをついてる。おれは暗闇を生きる人間かもしれない」
「ほら見ろ。あのヘンに物静かな和久井って奴はドラキュラ城の門番なんだ」
叶多は笑いだした。ドラキュラを退治するヴァン・ヘルシング教授もどきで、わざと真面目に云った陽の表現は云い得て妙だ。
戒斗がにやりと笑うと、陽も同じように応じた。
「八掟、そのうち干乾びてんじゃないか」
「逆だろ」
なぜか叶多の頭の中にとあるシーンがよぎり、ほんとに脳みそがそうなっちゃうかも、と不安になりながら赤面した叶多を差し置いて戒斗は云い含んだ。
陽は眉をひそめ、戒斗の目からその真意を探った。思い当たると嘲弄した笑みが浮かぶ。
「すげぇ自信だな」
かすかに笑みを浮かべた戒斗と陽の間の、和んだかに見えた空気がまた尖った。
『なぜか』ではなく、戒斗にしろ陽にしろそのシーンに思い至ったわけだが、気づかない叶多はこっそりため息を吐いた。
ふたりの間に立つと居心地が悪い。
叶多はふたりを見比べた。『あいつ』から名を呼び合うまで漕ぎつけたところで、そこからは叶多がどう取り繕っても役に立たない。戒斗は、いくら陽がライバル心剥きだしとはいえ、頼に対するような寛容さがちょっと欠けている気がする。それが、まったくの他人であることと恋愛対象外の弟という差を理由に挙げられればそれまでだけれど。
「叶多、こっち来て」
頼が呼んだのをこれ幸いにして、叶多はツンツンした空気を逃れた。
「何?」
「食べさせて」
餌を待ちかねたツバメのヒナのように近づいてきた頼の口を、叶多は目の前でふさいだ。
陽が云うようにこの変貌ぶりには戸惑うだけで、叶多はまだついていけていない。
「頼、ふざけすぎ。笑われてるよ」
そのとおり、ユナたちは失笑寸前だ。頼を扱いかね、叶多はここでもため息を吐いた。
*
一方で陽は、それを眺めている戒斗の表情が冷めたのを見て取った。
「戒、独占欲も戦闘心も剥きだしだな。おれとどっちがガキなんだ?」
「おまえとおれとは苛め方が違う、とだけ云っておく」
戒斗が即座に云い返すと、互いに鼻先で笑う。
「戒、一つ確かめたい。覚悟あるのかどうか」
「なんのことだ?」
「気づかれちゃまずいだろって話」
「渡来に心配してもらうとは光栄だな」
「心配してる理由は別のところにある」
「おれにないことは確かだ」
戒斗がすかさずおもしろがった口調で応じると、陽も首をかすかに傾けて笑い、また真顔に戻った。
「試験まえでそれどころじゃない連中が多いし、いまは治まってるけどバレるのも時間の問題かもな。八掟は気づいてないけど」
「時期尚早だと云われれば認めるしかない。けど、公言を拒んでるつもりはない。そのときはそのとき。受けて立つまでだ」
「ふーん。それは問題ないとして、早すぎんだよな」
「何が?」
「流れるのが。一貫校といっても上に行くほど中途組も増えてくるし、七クラスもあれば知らない奴だっている。八掟が目立った奴ならともかく青南は点在集団だし……そもそも公然と一緒に出歩いてるわけでもないのにどうして流れるんだ?」
「叶多はおまえと時田のせいで目立ってるって云ってた気がするけどな」
戒斗は薄らと笑みを浮かべて指摘した。
「周りがおれと八掟をどう見てるかってことも聞いてるのか」
「知ってる」
陽は、少なくとも表面上は淡々とした戒斗をあらためて見やった。
何かを計算してかみ合わせている様子が窺える。
戒斗については動ける範囲で調べてみたが、誰に訊いても才人という言葉で終わる。陽はそれだけでは足りない“何か”があるとわかっているのにたどり着けていない。
「なら、尚更ヘンだって思うのも当然だとわかるだろ?」
「どこまで知れてる?」
「“戒”の名前は出てないとこまでだ」
戒斗は思案するように表情を険しく変えた。
「わかった。気にかけておく」
「そうすべきだ」
陽は永たちのところへ行った。
*
戒斗が知らされた状況について考えながら陽の背中を見送っていると、入れ替わって叶多が近づいてくる。
「渡来くんと何話してた?」
「誰かが十字架とニンニクを用意してるって話」
叶多はちょっと考えて、可笑しそうに目をくるりと回した。
「戒斗はキリスト教信者には程遠いから十字架なんて効力ないし、ニンニクはあたしがお料理しちゃう。問題ないよね」
「簡単だな」
「そ。簡単!」
無邪気さが最大の武器になっているとも知らずに、叶多は首をかしげて云いきった。
標的は失いたくないものに向かう。
それが引き離すための手っ取り早い常套手段だ。
「叶多、知ってるか」
「何を?」
「吸血鬼に血を吸われるとそれだけでイケるらしい」
戒斗は声を潜めてからかった。
「……。みんないるのに!」
叶多は困惑に紅潮して熱くなった耳をふさいだ。
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