Sugarcoat-シュガーコート- #57

第7話 No one is perfect. -7-


 翌日の朝は戒斗に起こされるまで叶多は昏睡(こんすい)していた。
 すでに十時を過ぎていて、大丈夫か、と戒斗から訊ねられてもなんのことかすぐにはわからなかった。思い至ったところで、眠る直前に戒斗に後ろから引き寄せられた記憶はあるけれど、そのまえの過程がよく思いだせない。
 ただ、大丈夫かと訊ねた戒斗自身が叶多で遊んだ――戒斗に云わせれば『全身きれいにした』ことは確か。気遣う言葉とは反対にニヤついて見下ろす眼差しが裏づけている。
 その視線からできるだけ逃れる努力をしながら、叶多は戒斗が持ってきたバスタオルを躰に巻きつけた。立ちあがると躰が重く感じた。戒斗が少しよろけた叶多の腕をつかんで支える。
「病人みたいにしてると、出るまえにもう一回……」
「だめっ」
 戒斗の笑い声に追い立てられて、叶多は転びそうになりながらバスルームに駆けこんだ。

 昨日は何回……三回目に入ったことは間違いなくて。そこから訳がわからなくなって……もういい。
 叶多は回想に(ふけ)りそうになり、急いで頭の中の再生を中断した。
 引き止める理由があると自然とセーヴがきくけれど、それがなければいったん触られるとそこから抜けだせずに、脳内麻薬(エンドルフィン)が大活躍して本当に何も考えられなくなる。
 えっちってやりすぎるとどうなるんだろう。や、それより、そもそもどれくらいイ、イクとやりすぎという部類に入るんだろうか。戒斗ってお月のもの以外のときはずっとだし……いや、それも断らないとやりかねないし……というか、いつも……あたしだけだし……。待って。じゃあ、これが本物のえっちになったらどうなるんだろう、あたし? 戒斗は自信満々だし……脳みそ、腐れちゃったらどうしよう。……。
 だから、もういい! いまは勉強のこと考えないとホントに腐れちゃう。
 プルプルと頭を振って叶多は手早くシャワーをすませた。

 洗面台で髪を乾かしていると、ドライヤーの音のせいか、戒斗が入ってきたことにまったく気づかず、鏡越しにいきなり背後に現われた戒斗を、叶多は息を呑んで見つめた。
 ドアの開く気配さえなかった。そういえば、昨日の夜もこんなふうに忍者みたいに気づかされずに襲われたのだ。いや、昨日に限らず、昼間襲われるときはいつもこんな感じだ。
「……戒斗って足音しないときがある」
「修行の一つだ。場合によって戦術になる。こうやって不意打ちで襲うとき……」
 鏡の中の戒斗がにやりと笑って、叶多の左肩にかかった髪を右側に寄せながら、そうした右手を前に回して叶多の顎を捕えた。
 何をするつもりなのか叶多が答えを出せないうちに、顔を下ろしてきた戒斗は左の首筋を咬んだ。
「やめ……っ」
 悟った叶多が短い悲鳴をあげ、抗議しようとした矢先、今度は吸いつかれた。
「ぃ……たっ」
 千切れるような痛みは一瞬で、戒斗は痛みを消すように舐めた。
「戒斗、酷い。(あと)、消えるまでけっこうかかるんだから。まえは夏休みだったからよかったけど――」
「気にする奴は限られてる」
「え?」
「叶多が気にすることじゃないってことだ」
 叶多の顎をつかんだままの戒斗の右手が顔を斜めに上向けると、ぺたっと吸いつくようなキスをされた。
「じゃ、行ってくる」
 ぼーっとしたまま叶多が、いってらっしゃい、とつぶやくと、戒斗はからかうように小さく笑って出ていった。
 一分後にふっと我に返った叶多は、やっぱり脳みそが腐りかけてる、と馬鹿げた不安を抱いた。


 千里と則友にあらためてお()びの電話を入れてから、洗濯したり掃除したりと動いているうちに、やっと躰から重さが抜けた。
 予定どおり、一時にドアチャイムが鳴って、ドアを開けたとたんにユナのわくわくした顔が見えた。勉強するのが楽しみなわけはなく、目的は叶多でも見当がつく。
「入って。今日、戒斗は仕事で出かけてるから」
「えーっ!」
 ユナは戒斗がいないと知ってあからさまにがっかりした。半分は叶多を責めるような声だ。
「なんだ。いないのかよ」
 驚いたことに陽までが期待外れのようだ。
「勉強しに来たんでしょ?」
「八掟の云うとおりだ。試験までまだ二十日あるわけだし、そのうち会えるだろ」
「何独り余裕ぶってんだよ。云っとくけど、おれが、おまえらに付き合ってやってるんだからな」
 陽は訳知り顔でニヤついた永に云い返した。
「いいから入って。玄関先だとうるさいって云われちゃうよ。和室のテーブルは小さいからこっちでいいよね」
「うん、いいよ」

 叶多がダイニングのテーブルに案内すると、ユナは上の空で返事をしながらバッグを椅子に置いて部屋の探検を始めた。こじんまりとした部屋でそうそう見るところもないはずが、やっぱり自分もここへ来てまず最初にしたことと云えばユナと同じことだ。
 それはまだ一カ月ちょっとまえのことなのに、いまは当然の住処(すみか)になっている。
「何ニヤけてんだ?」
「ここが“愛の巣”なのねぇ」
 目敏(めざと)く叶多の感慨に気づいた陽と、ベッドルームのドアは開けなかったものの、その前に立ったユナが同時に声をかけた。
「ち、違う!」
 陽とユナにまとめて返事した叶多の答えは、自分でも間違っているとわかっている。
「違うことねぇよな。やることやってんだろ?」
 千里とまったく同じ言葉で永が突っこむと、一斉に三人の目が叶多に集中した。否定するにはおかしく、肯定するには窮地(きゅうち)に立たされそうな状況だ。
「だ、だから……今日は……そう! 今日は勉強しに来たんだよね!」
 叶多が焦った頭の中をフル回転させると、ユナはふふっと意味深に笑い、そうよね、と同調した。
 陽はフンと鼻を鳴らし、永はニタニタして流し側の席に着いた。必然的に叶多とユナは和室に背を向ける側に座った。

「まず計画だ。範囲が早く発表されただけに習ってないとこもあるけど、それは授業中にしっかりつかめよ。業者が作った訳のわからないテストじゃなくて、中間テストで試されるってことはある意味、温情措置だ。先生の癖をつかめば、テストに出る問題は抜粋できる」
 陽がスケジュールを書いたコピー用紙を広げて説明した。
「癖って、渡来くん、そんなこと考えてテスト勉強やってるの?」
「あたりまえだ。全部覚えようったって無理だろ。無駄なことはやらない主義」
「例えばなんだよ?」
「歴史バカの金元で云えば、黒板に書くとき重要なとこは色チョーク使うけど、白いとこにもよくラインを引くだろ。そこは必ず押さえろ。あいつが拘っているところだ」
「なるほど! 金元、たまになんでこんなとこをって熱くなるところあるんだよね。要するにその先生の好みをつかむわけだ」
「そういうことだ」
 感心したユナと違って、叶多は顔をしかめた。
「なんだよ」
「もっと早く教えてくれればいいのにって思っただけ」
「おまえみたいに、なんでも人からやってもらおうって奴にそう簡単に教えてたまるか」
「酷い。これでもちゃんとやろうとしてるんだから」
「つもり、は所詮、つもり、だ」
 目の前に座った陽は人差し指で叶多の鼻先を一突きした。
「痛い――」
「ああ、もうそこまで! 始めようよ」
「よっしゃ。集中だ」
 ユナと永がさえぎるように云い、叶多はため息を吐いて引き下がった。
 たまに雑談へと走ることがあるものの、それは適度な息抜きにもなっていて、陽が軌道修正役を無難にこなした。

 順調に勉強会は進んで時間も忘れた頃、予定外でドアチャイムが鳴った。時計を見ると四時を過ぎている。
「戒斗さん?!」
 ユナは期待に満ちた目を叶多に向けた。
「ううん。戒斗は鍵持ってる」
「あ、そうだよね」
「予定外のときはなるべく出るなって云われてるんだけど覗いてみるだけなら……」
「わお、過保護」
「頼りないからだよ。いまはユナたちがいるし大丈夫」
 叶多は玄関先に行ってドアの覗き窓から来訪者を確認した。まず口もとで煙草を摘む手が見えた。
「祐真さん!」
「やあ」
 玄関を開けると、やさしい笑みが答えた。
「どうぞ! 戒斗はまだ帰ってないんです」
「戒斗にはいま電話した。帰る途中だって」
「そうなんですか。とにかく入ってください。友だちが来てますけど」
「聞いたよ。勉強の邪魔するなって云われてる」
 祐真はおもしろそうにしながら叶多に促されて玄関に入った。
 ダイニングに戻ると、ユナたちの視線が叶多から背後の祐真へと動き、誰だ? とそろって問うような顔つきになった。
「祐真さん、あたしの友だちで、ユナ、時田くん、渡来くん。それで、こっちが祐真さ――」
 紹介しているうちにユナの目が点になる。
「ああーっ、ユ、ユーマ!」
「嘘だろ」
「悪いけど、本物」
 呆然とした永のつぶやきに、祐真が可笑しそうに答えた。
「悪くないです!」
 ユナがすかさずフォローした。
「ありがとう」
 笑った祐真の表情は、アルバムのジャケットにはけっして映らない笑顔だ。
 祐真を和室に案内して、灰皿と缶ジュースを渡した。
「適当にやってるからおれのことは気にしないで。人間観察はさせてもらうかもしれないけど」
 その瞳は茶目っ気たっぷりで、釣られて叶多は笑いながらうなずいた。
 叶多がテーブルに戻ると待ちかねたようにユナが無言の質問を向け、叶多はFATEの馴れ()めから手短に話した。
「……ということ。戒斗ももうすぐ帰ってくるんだって」
 ユナが小さく悲鳴じみた声をあげた。
「八掟とダチでよかったってはじめて思ったぜ」
「……時田くん。はじめて、って……」
「そこは冗談だ。そのまんま取んなよ」
 叶多が気にする性格と知ってそういうことを云う永は性質(たち)が悪い。かといって、永を責めるまでの勇気はない。渋々とまた勉強に戻った。

 ともすれば祐真の存在すら忘れそうに手厳しい陽の指導下でやっていると、三十分しないうちにドアノブの鍵が回る音が聴こえた。
 叶多が迎えにでるとちょうど、戒斗は玄関に入ってきた。
「おかえり。祐真さん、来てるよ」
「ああ」
「うまくいった?」
「乗りすぎだ」
 戒斗はかすかに首を傾けて小さく笑った。
「おまえは?」
「うん。ちゃんと進んでるよ」
 叶多が脇に避けて戒斗を先に促すとその手が伸びてきた。おろした髪の下に滑りこんで、叶多の首筋に触れる。すぐに手は離れて戒斗はダイニングに向かった。
「戒斗さん、こんにちは!」
「すいません、お邪魔してます」
「こんにちは。遠慮なく」
 ユナと永に応え、戒斗は陽に視線を向けた。
「どうも」
「どうも」
 たった一言の挨拶に同じように応えると戒斗は口をかすかに歪める。
「叶多、こっちのことはいいから頑張れよ」
「うん」
 戒斗は冷蔵庫から缶ジュースを持って祐真のところへ行った。
「なんか贅沢な空間」
 ユナがうっとりした声でつぶやいた。
「時田くんが怒るよ」
「永は永なんだから、それでいいんだよ。ね、永」
 叶多には意味不明の弁解でも、ふたりの暗号なのか永には通じたようで、一歩間違えばだらしなく見えるくらいにニヤッとした。

「おまえ、あいつに云ったのか?」
 陽が身を乗りだして訊ねた。
「うん」
「ふーん。あいつ、捨てなかったのか」
「犬じゃない」
「まあいい。第二弾だ」
 陽までもが意味不明なことをつぶやいて叶多の左耳をつかんだ。
「だから、うさぎじゃないよ」
「叶多ちゃん」
 不意に祐真に呼ばれて後ろを向いた。
 その時、耳をつかんでいた陽の右手が離れると、それが叶多の髪をはらう格好になって左の首筋が剥きだしになる。陽は一瞬を見逃さなかった。
「はい?」
「試験まで頑張れたら、また戒斗とセッションやってやろうか」
「ホントですか?」
 叶多がうれしそうに訊き返すと祐真はうなずいた。
「五年前のあの場所で路上ライヴだ。いいだろ、戒斗?」
「大騒ぎ、覚悟してんのか?」
「ちょっと変装すりゃ、わかんねぇよ。まさかってのを逆手に取る。二曲オンリーだ」
 戒斗は肩をすくめた。
 確かな答えを待っていた叶多に祐真が親指を立てて見せた。
「オーケーだってさ。もちろん、友だちも一緒に」
「はいっ、行きます!」
 祐真が誘うとユナが待ってましたとばかりに二つ返事をした。
「なんか頑張れそう」
「八掟、やっぱ、おまえは最高のダチだ」
 ユナに引き続き、調子よく云った永に、叶多は苦笑いするしかない。
「八掟」
「何? 渡来くんも行くよね?」
「キスマーク」
 いきなり顔に伸びてきた陽の手をつかんで叶多は引き止めた。
「すげぇ反射」
 二度目の指摘ともなると、焦ったものの慌てるまではない。ただ、自分にしてはこれまでにない反射的な動作だったと叶多も思う。顔が赤くなるのはどうしようもなく、口を歪めて云った陽を困惑して見た。
 陽は叶多を通り越し、その先を見やって完璧な無表情で見返されると皮肉っぽく笑った。
 陽が手を引くと、叶多は髪の上から手で首筋を押さえた。陽は気にするふうでもなく叶多の鼻を弾く。
「続き、やるぞ。今日はあと三十分だ」
 どうなるかと見守っていたユナがため息を吐いてうなずいた。

   *

「戒斗、おまえもたいへんだな」
「何が?」
 叶多たちを眺めながら煙草を吹かし、祐真がつぶやいた。
「高校生同士、仲いいグループ交際にしか見えないからさ」
「何が云いたい?」
「さっきのおまえ。渡来って奴となんかあるんだろ? つまり、大人でいるのもラクじゃないなってことさ」
 戒斗は声には出さずに口先だけで笑った。
「航も同じことをおれに云ったけど『たいへん』じゃない。楽しんでる」
「ははっ。そういうことにしといてやるよ。ガキの頃はさ、やりてぇことやれないって思ってた。決定権は常に大人にあったし。けど、いざこうなってみるとガキの頃のほうが見境なしで遥かに自由だった」
「おれにはわからない感覚だ」
「……ああ、そっか。おまえは特異環境らしいし、ガキって頃がないんだったな」
「どっちかっていうと、いま見境なしにやってる気がしてる」
「確かに」
 祐真は叶多を見やって相づちを打つと、吹きだすように笑った。
「祐真、おまえ、何しに来たんだ?」
 戒斗は顔をしかめて訊ねた。
「用がないと来ちゃいけないのか?」
「余計なことを云うようなら迷いなく追いだす」
「それっておれが云ってることを図星だって認めてるようなもんだろ」
「祐真」
 戒斗が咎めると祐真はふっと笑い、煙草を持った手を上げて制するしぐさをした。
「ああ、悪い。冗談はここまでだ。……ここならきっかけがつかめそうな気がしてる」
「きっかけ?」
「ああ」
 祐真はそれ以上、口にしなかった。
「期待してる」
 戒斗がわざとプレッシャーをかけると祐真はうなずいて笑った。

   *

 五時過ぎにユナたちが帰ると、祐真も同調して一緒に帰っていった。
 ダイニングに引き返しながら叶多が深く息を吐くと、戒斗が笑みを漏らす。
「疲れたか?」
「うん。でも大丈夫。なんだかだんだんその気になってきた」
「ガス欠しない程度に噴かせよ」
「ライヴ、ホントにやる?」
「約束は守る」
「それじゃあ、頑張る! 今日のごはん、簡単に親子丼でいい?」
「ああ。平日は勉強会どうするんだ?」
「学校帰りにウチに寄ることになってる」
「ふーん」
「何?」
「いや」
 叶多はちょっとだけ首をかしげると、テーブルの上を片付け始めた。
「祐真さんが云ってた、あの場所ってふたりが出会ったって場所?」
「そうだ」
「楽しみ」
 戒斗が片付けを手伝って和室から灰皿と缶を流しまで持ってくると、叶多は笑顔で見上げた。
 戒斗は身をかがめ、叶多のくちびるをふさいだ。顎を伝って(しるし)まで下りると、そっとかんだ。
 叶多ははっと気づく。
「戒斗、そこ、見られちゃったんだから!」
「別に減るもんじゃない」
「そういうことじゃないよ!」
「いいんだ」
「だめ。今度したら……」
「したら?」
 戒斗は首筋にくちびるをつけたまま、くぐもった声でおもしろがって問い返す。
 叶多は仕返しを考えた。キスマークに舌を這わせる戒斗の首が目の前にある。
 かぷっ。
 犬みたいに叶多は咬みついた。

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