Sugarcoat-シュガーコート- #55
第7話 No one is perfect. -5-
そのまま帰る気にはなれなくて、叶多はとりあえず実家に向かった。
当然、両親にも報告しなくてはいけない。ドアの前に立つとためらったけれど、いったん云ってしまえば踏んぎりもつくかもしれない、とそう思い直した。
「ただいま」
八掟の家には週に一度は顔を出すようにしている。暮らす場所が違っても、実家に入るときの口癖はいまだに抜けていない。
戒斗から聞いたところによると、両親にしても、こんにちは、とかいうちょっと他人行儀な挨拶よりも、その口癖のほうがうれしいらしい。
親離れ、子離れができるのは、とうぶん互いにさきのことのようだ。
「あら、おかえり。ちょうどおばあちゃんとこからお饅頭をもらってきたのよ。叶多が好きな熊本名物のいきなり団子もあるわよ。上がりなさい」
リビングから顔を出した千里は、叶多の返事も待たずに引っこんだ。
頼の靴はなく、まだ帰っていないようだ。
いまのうちだ。いったんは告白して態度が変わったかに見えるけれど、陽みたいにまたもとに戻らないとも限らない。
リビングへ入って千里の勧めるままダイニングテーブルに着いたものの、叶多は話すきっかけをつかめずにただ時間が過ぎた。
「どうしたの、今日は」
「え?」
「あんまり喋らないから」
しばらくして千里が叶多に問いかけた。
叶多は相づちを打つばかりで、目の前に据えたいきなり団子はかじりかけてそのままになっている。
「え……っと、話があって……」
叶多は目を逸らしておずおずと云った。
「何よ、戒斗さんと喧嘩でもしたの? もしかしてもう出戻り?」
「戒斗とはたぶん喧嘩にならないと思う」
出戻りはあるかもしれないけれど。
事情を知らずに指摘するあたり、千里はやっぱり母親だ。
もっとも、叶多にとって何がいちばん大事かというと戒斗であるということは、二人のことを知っている誰もにとって明々白々に違いなく、重大事は戒斗のことと思うのは当然だ。
「じゃ、何……あ……もしかして、そうなの?!」
怪訝そうな千里の表情が何か思いついたような顔になり、叶多の前のいきなり団子に目を落とすと訳知り顔になってニヤニヤしだした。
「……何が、そうなの、なの?」
千里はまた突拍子もないことを結論づけたようで、恐る恐る叶多は訊ねた。
「赤ちゃんができたんでしょ! つわりじゃ、好きなものが食べられなくなってもしょうがないわよねぇ」
叶多は勢いよく立ちあがった。慌てたあまり、椅子がうるさい音を立てて倒れる。
「お、お母さん?! ち、ちが――」
「あらぁ、照れないでよ。やることやってんでしょ。来年は孫守りできるのねぇ。というより、私ってもうおばあちゃんになるの?! どうしよう。あ、でも若いおばあちゃんのほうがお洒落かしら。出だしは友だちより遅れちゃったけど、四十代でおばあちゃんなんて。いやーん、男の子、女の子、どっちなの? やっぱり一姫二太郎って云うし、私と一緒で最初は女の子がいいわねぇ……」
叶多に否定する機会も与えず、千里は上目遣いで宙に未来、いや、来年予想図を描きながら一方的に捲くしたてた。
「お母さん! だから違うのっ。ありえないよ! あたしはまだヴァ……っ」
千里の想像力を断ちきろうと弁明しかけて、何を云おうとしているかふと気づき、叶多は言葉を切った。
今更、云えるわけがなかった。
云ったところで、あんなことやこんなことを、ああでもないこうでもないという想像をされるのも迷惑千万な話だ。
千里に負けず劣らずの想像力の逞しさでもって赤面した叶多を、千里が試すように見ている。
「バ、何よ?」
「え……っと……バ……バ、カ……そう! バカだし、高校生だし……あ、赤ちゃんなんてまだだよ!」
「バカでも高校生でも、できるときはできるんだけど」
鋭いというわけでもない千里の突っこみに、叶多は言葉に詰まる。
「……そ、それはそうだけど……とにかく、今日は違うの!」
「じゃあ、何?」
「……だから、その……『バカ』の報告で来たの……」
「バカの報告? 何よ、それ」
それこそ、今更云うことなの? と問うような非情な眼差しのなか、千里に現状を説明した。
倒れた椅子を起こして座り、叶多が一頻り話したあと、千里は何も云うことなく、しばらく黙った。
「それで?」
「……それで、って?」
「いいんじゃない、大学なんて行かなくても? 幼な妻っぽく、大好きな戒斗さんからずっと養ってもらえば。何も悩むことないじゃない」
千里は責めるどころか、気味悪いくらいににこやかだ。
叶多はほっとしたものの、千里の勧めは何か釈然としない。
「養ってもらえって……」
「一緒にいられればいいんじゃないの?」
「それはそうだけど」
「勉強嫌いなんだし、目的もないし、大学なんて行っても意味ないでしょ? おんぶに抱っこでも戒斗さんはなんにも云わないと思うけど。ラクでいいじゃない」
千里は戒斗とまったく逆のことを云った。付け加えられた言葉にも引っかかる。
「だって負担かけられない……」
「あら、戒斗さんの経済力は控えめに云っても悪くないはずよ」
「そういうことじゃなくて……!」
叶多は何を云いたいのか自分でさえわからずに否定しかけて言葉に詰まった。
「じゃ、どういうこと?」
千里に問い詰められると、叶多は同じことを自分で自分に訊ねた。
何も考えないなら、千里の云うとおり、戒斗におんぶでも抱っこでもしてもらえばすむこと。
じゃあ、あたしにとって何が問題なんだろう。
「戒斗さんには云ったの?」
「まだ」
「そうよね。じゃなきゃ、そんな深刻な顔して来るわけないし」
当然のように千里は最初から何かあると察していたらしく、もしかしたらからかったことも嗾けるような発言もわざとだったかもしれないと叶多は思った。
「まあね、だいたいからして青南は叶多の身の丈に合ってないのよ」
千里はそれこそ容赦なく云いきった。
いくら自分の娘だからといって。叶多は惨めそうに顔を歪めた。
「酷い」
「じゃなくて、それだけ頑張ってたってことを云ってるの。叶多が青南に受かった最大の賜物は戒斗さんだし。あの頃はけっこう、風当たり強かったのよね」
「風当たり?」
「一族よ。絶対的忠心を置く牙城が、一部の分家に肩入れすることは公平無私を欠くことになる。分家にとって本家は孤高の存在でなければいけないの」
「何かされたの?」
「そういうことじゃなくて、ただ監視されてたわね。抜け駆けは許さない。一挙手一投足、見逃さないぞ、みたいな。哲さんはほら、昔の問題もあったし。戒斗さんも当然、そういう目を向けられてた。それを押して戒斗さんは最後まで家庭教師やってくれたんだけど」
そんな背景があるとは知らずに、叶多はただ戒斗を頼って、そうすることに甘えていた。
ううん。『いた』じゃなくていまもそう。
あの頃はまだ幼いという云い訳が認められる。けれどいまは。
――障害物は多い。叶多が考えている以上に。
まえに戒斗が云ったその意味が明確になった気がした。
一緒に暮らし始めた以上、叶多と戒斗はいま、常に試しという場に曝されているのだ。
そんなあたしがこんなんでいいのかな……。
そう心の中でつぶやいたとき、叶多はふと気づいた。
そっか……問題はここにあったんだ。
情けない。恥ずかしい。
そう思うのは叶多という自分じゃない。戒斗の立場に立った自分だ。
「急ぐことはないのよ。うんと悩みなさい」
「お母さん、ありがとう」
ここに来てやっと叶多の考えるべきことがはっきりした。
叶多が家を出たとほぼ同時に携帯電話の着信音が鳴った。戒斗からだ。
『今日はちょっと遅くなる』
「仕事?」
『ああ。航たちと外で食べてくる。たぶん――』
「お酒、だね?」
叶多がさえぎって云うと、電話越しに戒斗が笑みを漏らした。
「それならあたしも遅くなっていい?」
『いまどこだ?』
「八掟の家。もう出たの。これから崇おじさんのとこに寄ってくる」
『わかった』
「あ、戒斗、真理奈さんに――」
『真理のことは気にする必要ない。いちおう連絡しておく。おまえが行方不明だって大騒ぎしかねないから』
叶多が笑うと、じゃあな、と戒斗は電話を切った。
千里は急がなくてもいいと云ったけれど、陽にはめられた以上、戒斗には今日中に話さなくてはならない。
偶然にも飲み会が叶多に少しの猶予をくれた。
「叶っちゃん、どうした?」
叶多は工房に来てから小一時間、グラスを手がけているのに、作っても作っても納得がいかずに何度もガラスを溶かし直した。
付き添っていた則友がそんな叶多を見かねて声をかけた。
「うん……」
「ガラスに集中できてないからだろうさ」
崇がガラス玉を作っている手を止めて口を挟んだ。
毎年十月二十七日は近くの神社で小さな秋祭りが催されていて、そのときに崇が子供たちへとガラス玉のキーホルダーをプレゼントすることは恒例化している。一人でも多くの人に、ガラスの魅力を知ってほしいという気持ちがあってのことだろう。
「そうかも」
少し気分を変えたくて無心になれるかとガラスを頼ってきたはずが、結局はその迷走ぶりがガラスに表れ、形となって叶多は突きつけられた。
「何かあった?」
「うん。ちょっと考えることがあって……でも大丈夫!」
則友の表情がだんだんと心配を深めていき、叶多は慌てて付け加えた。
「そう? まあ、僕がしゃしゃり出なくても戒斗くんには相談できるんだろうしね」
「……うん」
返事をためらったせいでまた則友は眉をひそめ、叶多は再び、大丈夫、と繰り返した。
「なんだか則くんの時間を取っちゃてるから今日は帰る。明日から試験勉強でしばらくは来れないけど――」
「わんこ、気に入らなくてもいいから一個だけ仕上げていけ」
「え、でも……?」
「これも勉強のうちだ」
崇はそう云うと、またガラス玉に目を落とした。
「叶っちゃん、やろう」
則友にも促されて叶多は熔解炉に立った。
納得しないままに作ったグラスは、入れた模様のでこぼことは別にどこか歪んでいる。
則友は、いい出来だ、と云ったが、叶多からすればどこからどうやっても不細工にしか見えない。
除冷炉に納めて工房を出ると、六時をとっくに過ぎて外は暗くなっている。則友が心配だからと駅まで送ってくれた。
「則くん、ありがとう」
「試験、頑張るんだよ」
「うん」
則友が心配そうに見守るなか、叶多は構内に入っていったん振り返り、手を振ってからホームに向かった。
長引いたレコーディングの最終打ち合わせは八時を過ぎて終わった。
「やっとメシだ」
マネージャーの木村が会議室を出ていくと、航は清々したように吐いた。
続いてほかのメンバーも音を立てて息を吐きだした。
「戒斗、こういう打ち合わせってさ、なんとかなんねぇのか」
「アマチュアのときみたいに音出せばいいってわけにはいかないからな。それに、プロデュースを木村さんに任せっきりにしていいのか?」
「冗談だろ。それこそナマっちろいポップバンドにされちまう」
「なら、退屈だろうと立ち会うべきだな。明日からは本格的にレコーディングだ。お待ちかね、だっただろ」
戒斗が云うと、航は大げさに肩をすくめた。
「待たせすぎなんだよ。正確に云うと、お待ちかねなのはレコーディングじゃなくてライヴだ。録りが終わんねぇとツアー出れないし。まあ、そのまえに今日は――」
「景気づけだ、だろ」
航に最後まで云わせず、高弥が茶々を入れた。航はふんと鼻を鳴らした。
「ミザロヂーでいいでしょう? この時間だったらそのまま飲めますし……」
健朗が云っている途中に戒斗の携帯電話が鳴った。画面を見ると、めずらしく叶多の母親からだ。席を立ってブラインドを下ろした窓に寄った。
「はい、戒斗です」
『八掟からです。ごめんなさい。いま大丈夫かしら』
「どうぞ」
『戒斗さん、いま家にいるの?』
「いえ、出先です」
『そう……んー、お風呂かしら……』
千里は考えこむような口調で意味不明につぶやいた。
「なんですか、風呂って?」
『叶多と連絡が取れないって則友さんから電話があったのね。それで私も電話してみたんだけど、携帯も家も繋がらなくて』
「叶多が?」
戒斗は眉をしかめ、ブラインドの隙間から外を見やった。四階の会議室からはすっかり夜になって灯りの浮いた通りが見渡せる。
『あの子、今日、ウチに来たんだけどちょっと落ちこんでるのよ。帰りに崇さんのところに行ったらしくて、則友さん、元気なさそうだったからって心配して私に電話くれたの。帰るときの様子からして心配することはないと思うんだけど』
言葉どおり、千里の声にはそれほどの不安は感じられない。
「悩んでたのは知ってます。任せてたんですが……いまから帰ってみます」
『あ、それからあの子、考え事はお風呂でするの。知ってたかしら?』
「いいえ。泣く場所がそうだとは知ってますが考え事までとは知りませんでした」
それで最初の『お風呂』か、と思いながら戒斗が答えると、千里の笑う声が届いた。それは戒斗の中の深刻さを和らげる。
『ほんとにごめんなさいね。戒斗さんには余計なことばかりさせてるみたいで……』
「謝ることはありませんよ。いろいろな意味で学習中です」
『あら』
くすくすと笑いだした千里に、また連絡することを約束して戒斗は電話を切った。念のために叶多の携帯電話を呼びだしてみたが、電源が入っていないというお決まりの台詞が流れる。
「戒斗、なんかあったのか」
携帯電話を閉じ、しばらく窓を見やったまま考えこんでいると、航が声をかけた。
「悪い。急用ができた」
「へぇ」
何やら云いたげに航が口を歪めた。
「なんだ?」
「いんや、おまえもたいへんだなって思ってさ」
「楽しそうだな、の間違いだろ」
戒斗は鼻で笑い、肩をすくめて云い返すと、ニヤニヤした航の口がますます歪んだ。
「そうらしい」
「じゃ、明日はスタジオだ。飲みすぎるなよ」
「オーケー」
返事を背に受けながら事務所を出て、三十分もかからずタクシーで家に戻ったが、真っ暗で電気一つついていない。風呂場を覘いたが入った形跡さえない。
とりあえず、玄関の壁にかけた車のキーを取った。
どこだ?
戒斗はアパートから少し離れた賃貸の車庫に向かった。