Sugarcoat-シュガーコート- #54
第7話 No one is perfect. -4-
無意識でため息を吐いてはハッとし、自制するもまたということを繰り返した。叶多が何度ため息を吐こうが、戒斗が何も訊いてこないことは救いになった。
約束どおりに襲う気配は見当たらず、戒斗からベッドに誘われて腕の中に納まったのはいいものの一向に眠れない。
情けない。恥ずかしい。
ポイントはすべてその気持ちにあって泣くに泣けない。
祐真は自分の力を信じきれていないと云ったけれど、そもそも力自体がどこにあるのか自分の中を見渡しても行方不明だ。
ベッドに入ってから何度目だろうか。叶多が身動ぎをすると、頭上からため息が漏れて、躰の下にある戒斗の左腕が引き抜かれた。
「何があったか知らないけど助言だけしておく。考えて埒が明かないなら当面、できることから行動するのみ、だ」
叶多は背中を向けた格好で横向きに丸まったまま、かすかにうなずいて答えた。
戒斗は左肘をついて躰を起こすと、暗闇の中でも感じ取れるくらいに強張った叶多の頬から髪をはらった。そのかわりに戒斗のちょっと長くした前髪が頬に落ちてくる。くちびるが頬から首筋へと伝いおりると、叶多は首をすくめて小さく笑みを漏らした。
「くすぐったい」
「手を出さないって知ってると色気なしだな」
くちびるをわずかに離して笑みの潜む声で云い、戒斗は再び叶多の頚動脈に顔を伏せた。
犬の戯れのようなしぐさに叶多の中からも強張りが少し解けた。
「戒斗……」
「なんだ?」
戒斗は顔を上げて、まだ活気のない叶多の呼びかけに答えた。
「……大学って行かなくちゃいけない?」
とうとつとも云える叶多の問いに戒斗はしばらく考え巡った。
「経済的に余裕があって、いまじゃなきゃやれないようなやりたいことがないなら行って損はない。人脈的にも広がるし。……進学を悩んでるのか?」
「そう……かな」
選べる立場にさえないという、それ以前の問題だ。叶多は返事を濁した。
「叶多は勉強、なるべくやりたくないタイプだからな」
戒斗は可笑しそうにからかった。
「だって……勉強したいって人いるの?」
「勉強する時間が欲しいって思ってる奴は、叶多が思ってるより遥かに多い。勉強の基本は“何”をやりたいか。逆算すればいい。やりたいことがいま見つからなくても……というより見つからないぶん、与えられたものだけでもちゃんとやっておいたほうがいいんだ。いざとなったときに選択肢の巾が違ってくる」
いつものことながら戒斗の優等生すぎる助言に、叶多はため息を吐いた。
戒斗はまた首筋に顔を埋めると、今度は脈づく場所に甘く咬みついた。
「眠れないんなら、眠れるようにしてやろうか?」
戒斗が耳もとで含み笑いをすると、叶多ははっと躰ごと上向いた。
「だめ!」
「即答だな」
不満そうにつぶやくと、戒斗は叶多の手をそれぞれに取り、肩の横に固定して口端にくちづけた。
「戒斗!」
「必要以上にやるつもりはない。目、つむって任せてればいいんだ」
はじめてのキスのときのように戒斗のくちびるが叶多の目尻に下りた。
必要というのがどこまでなのか、戒斗はいつものような熱を消し、かといって軽くもなくくちびるを所々に這わせてくる。それがテーラーカラーになったパジャマのトップボタンまで下りてくると叶多の手に力が入った。
「眠れるんだったら眠ればいい」
ドキドキして余計に目が冴えた気がするのに、戒斗が本気で云ったのか叶多は疑いつつ目を開けた。
戒斗はそれ以上に進むことはなく、逆戻りを始めて鎖骨から首もとへと伝ってから覆い被さっていた躰を起こした。
「こんなことされてたら……眠れないよ?」
「無理強いする気はない」
『こんなこと』について話しているにしては、戒斗の声は真面目すぎる気がした。
「……なんの話してるの?」
「そのまんまでいいって話」
「何が?」
「全部」
「……意味わかんない」
戒斗は口を歪めると、左腕を叶多の躰の下に潜りこませて抱き取った。戒斗の右手と叶多の左手が重なる。戒斗のくちびるが目尻に触れ、さっきと同じようにたどりだした。
目を閉じて戒斗がするままに任せていると、ふわりとした感覚に包まれた。しっとりと吸いつくように触れられる場所からだんだんと躰が温かくなっていく。
いつもの熱とは全然違う。なんだろう……そうだ、生まれたばかりの犬になった気分。愛というよりは愛情で舐め回されている感じ…………。
やがて戒斗は叶多の呼吸が規則的になったことに気づく。顔を上げて叶多を見下ろした。
眠ればいい――その気持ちがゼロだったわけではない。
戒斗は手を離し、躰を起こした。慾に負けてパジャマの襟もとから手を忍ばせても叶多はピクリともせず、柔らかい胸からは緩やかな上下運動が伝わってくるのみだ。
抵抗を封じるつもりが。
「普通、ほんとに寝るか……?」
やっぱり鈍ってるのか。
小さくつぶやきつつ、戒斗は自分に疑問を持った。が、すぐに考え直す。
違う。そういうことではなく、叶多が素直に受け止めすぎることに問題がある。ただし、肝心なところでその素直さは抜け落ちている。
こうやって触れること自体は起きもしないほどあたりまえになっているくせに、だ。説得じみたことを毎回やらなきゃならないのを面倒くさいと思いつつやめられないのは、なんとかっていうおれの弱みだろう。
侵入した手をずらすと、レースのカーテンから漏れてくる外の明かりが手伝って、暗闇に慣れた目に開けたふくらみが映る。胸先に一度くちびるをつけた。欲求を押し殺しつつ服を直して横になり、戒斗は叶多を引き寄せた。
朝の目覚めとともにぶり返った物憂い叶多の気分は一向に晴れることなく、学校へ行くとますます気がふさいだ。
追い討ちをかけるように試験範囲の発表があった。いつもより早めに知らされたのは学校側の配慮だとしても、叶多にとってはまったく助けにならない。
「叶多、大丈夫?」
放課後になって一緒に帰ろうと迎えにきたユナが、前の席に座って心配そうに問いかけた。
「大丈夫……」
「なわけないだろ。八掟の頭の回転率、どんなに上げたって平均十点アップなんて絶対無理だ」
叶多が答えようとしたのをさえぎり、代弁をしたのは隣の席に座った陽だ。まさにそのとおりのことを云おうとしたのだが、他人に云われるとどこか納得がいかない。
それでもいまは怒るというまでの気力が集まらず、視線で抗議を示すに止まった。
「あたしも五点てけっこう大きいのよねぇ……」
「おれもだぜ。まあ、十点てのも八掟だけじゃねぇし、八掟よりもっと酷い奴もいるしな」
めったにない永の庇った発言も、なぐさめには足りない。
「おまえ、戒に云ったのか?」
まだ教室に残っている生徒たちがいることに配慮し、陽は声を落として訊ねた。
「……まだ」
「ふーん……」
「何?」
「見捨てられたらおれが引き取ってやる」
ユナとその脇に立つ永が吹きだす前で、躰を引いた叶多は椅子から落ちそうになって机の端をつかんだ。
「い、犬じゃないんだから!」
「ふん、大してかわんないように見えるけどな」
どうせならもう少し可愛く云えないんだろうかと叶多は思う。けれど“可愛く”まではいかなくても、真面目に云われることを想像すると、そっちのほうが対処に困りそうだ。
「なぁ、この際さ、一緒に試験勉強やらねぇか?」
「あ、永、それいい考え! わからないとこあればすぐに訊けるし。ね、叶多」
「え……あ、そうだね」
どっちにしろ叶多については無意味な気がするけれど、永が云いだしっぺなだけにいちおう賛同した。
「ていうか、おまえらレベル同じくらいでやって、正確な答えだせる奴がどこにいるんだよ」
陽が気遣いなく水を差すと、申し合わせたようにユナと永の人差し指が陽に突き刺さる。
「は、おれ?」
陽は頓狂な声をあげながら、自分で自分を指差す。
「ったりめぇだ。おまえ、親友を差し置いて余裕かましてんじゃねぇぞ」
「余裕……ってなぁ、おれは日頃から頑張ってんだよ。世界に名だたる渡来のお坊ちゃまがぐーたらじゃ、高祖父さんに申し訳ないっていうプレッシャーがおまえらにわかるかよ」
陽は文句たらたらで吐き捨てた。
普段、陽はさり気なく振る舞っているだけに、自分の家柄についてこういう云い方をするのはめずらしく、叶多は少し驚いた。
なんだろう……似てる……。
叶多は漠然とそう思った。
「渡来ってホントはホントにお坊ちゃんなんだよねぇ。家っていうよりはお屋敷だし」
ユナは陽の邸宅を思い浮かべるように上目になった。
何度か訪ねた渡来家は、有吏塾にある邸宅に匹敵するほど大きな純和風の邸宅だ。いつも通される部屋は、まだかというくらいに奥にある。その広さを除けば、まだ渡来自動車が創業してから六十年という成金にしては、華美なものがなく質素だ。
厳かな雰囲気は染みついていても驕りは見られず、遊びにいくと叶多たちの両親と同じように、義理ではない歓迎心が見て取れる。頼と同じ年の陽の弟はなんとなく品格が見える。やっぱり育った環境の違いだろう。もっとも、陽みたいに表向きの顔と本性が違わないとは云いきれない。
「でも、世間体を気にするわりにはやさしくないよ」
ユナのあとを継いでつい口が滑ると、陽が立ちあがって叶多に詰め寄った。
「おまえ、おバカを引き取ってやるって云ってんのにやさしくないはないだろ」
「バカバカって全然やさしくないよっ。人から云われると傷つくんだからね」
叶多は少し身を引いて見上げながら云い返した。
戒斗は絶対に云わないんだから。
叶多は聞こえるか聞こえないかくらいにつぶやいたのだが、陽の渋面を見るとはっきり聞こえないまでも察したらしいことがわかった。
仕返しがくるかと思いきや、ふと何か閃いたように陽はにやりとした。
「わかった。これから試験まで四人、一心同体だ。そのかわり条件がある」
「やった!」
「受験生に戻りたくねぇしな」
叶多は何か策がありそうで疑ったものの、ユナと永は軽く乗った。陽は満足げにうなずいて叶多を見やる。
「おまえは?」
「え……」
「八掟、おまえがいちばん危ねぇんだぞ」
「……わかった」
永の威嚇に押され、叶多は渋々とうなずいた。
「んじゃ、受けてやる。会場は八掟んちだ。それが条件」
「やりぃ」
「えっ、だめだよ。戒斗が……」
「わかったっつっといて、だめってのが通じるわけないだろ。今日中に説得しとけよ。明日から試験前夜まで集中勉強だ」
「わお。ある意味、楽しみ。新婚生活、覗いてみたかったんだよね」
本来の目的はそっちのけで、おもしろがっている永と同じく、ユナは能天気に同調した。
叶多が恨めしげに見ると、まあまあ、とユナはなだめた。
気持ちを切り替えられるまでもう少し欲しかった猶予も取りあげられ、今日中に戒斗に報告する破目になった。
四人で駅に向かいながら、叶多は一歩遅れて歩いていく。
呆れちゃうだろうな……。
思わず吐いたため息は、躰の中の気体全部が抜けた気がした。