Sugarcoat-シュガーコート- #52

第7話 No one is perfect. -2-


 翌朝、家を出る間際、叶多がダイニングテーブルの椅子に置いたバッグを取りあげようとすると、戒斗に引き止められた。
「何?」
 戒斗が小さく顎を動かすと、促されるままに叶多はテーブルを回り、椅子に座った戒斗の目の前に立った。叶多の首もとに手が伸びてくる。
「解毒剤」
「……悪いもの食べさせた?」
 この時間にありえないと思いこんでいる叶多にはやっぱりもったいぶった云い回しは通じず、戒斗は短く笑みを漏らした。
「花蜜、舐めてないから」
「……パン、バターじゃなくてハニーシロップのほうがよかった? 甘いの、あんまり食べないから……」
「叶多産限定の話だ」

 戒斗は口を歪めて不思議そうに目を見開いた叶多を引き寄せた。いつもとは姿勢が逆転し、叶多のくちびるが上向いた戒斗に触れた。
 戒斗は左手で頭の後ろを押さえつけ、右手を胸に滑らせる。
 驚いた叶多が反射的に口を開けると、すかさず戒斗が侵入してきた。
 すぐに右手は胸から離れて首もとに戻ったが、そのかわりに手加減なく戒斗の舌が叶多を侵す。口を閉じることができずに叶多の蜜が戒斗へと流れ伝った。慾に任せて戒斗は飢えを満たすように喉を鳴らす。
「ぅ……んっ……戒……斗!」
 挨拶がわりとは云えないほどのしつこいキスに立っていられなくなりそうで、叶多は戒斗の肩についた手を精一杯伸ばして逃れた。
「返してくれ」
「いまから……学校……だよ……?」
 息を切らしながら信じられないといった眼差しで叶多はすぐ近くにある戒斗の瞳を見下ろした。
「だから早く」
 叶多は戒斗の口端についた蜜をすくいながらくちびるに舌を這わせた。
「これでいい?」
「義務感でやってるような云い方だ」
「遅刻しちゃう」
 叶多がすかさず云うと、不機嫌なままに戒斗はため息を吐いた。
「こういうときは強気だな。あとで覚えとけよ」
「今日はだめ」
「なんで?」
 わかっているはずなのに往生際悪く、ともすれば責めるように戒斗は云った。
「……。とにかくだめ! 約束してくれないと帰ってこれない」
 戒斗は気に入らないといった表情で、渋々ながらも、わかった、とつぶやいた。
 ご機嫌直しに叶多はもう一度、躰をかがめて戒斗の脈打つ首筋にキスをしてからくちびるをぺろりと舐めた。
「じゃあ、いってきます!」
「気をつけて行けよ」
 叶多はうなずいて急いで玄関を出ていった。

 手が出せないと承知しているとやることは一端(いっぱし)だ。
 慾を振り払うようにくちびるの感触が残っている首を振ると小さく笑って立ちあがり、戒斗もまた玄関に向かった。


 玄関を出て、いったん立ち止まった叶多は息を吐いた。手を口もとに持っていくと、触れたくちびるは、気のせいか少し腫れている感覚がある。
 叶多のほうからすれば、『こういうとき』は駄々をこねる子供なのか鬼畜なのか、判別がつかないくらいに戒斗は聞き分けがない。新たに知った戒斗の一面だけれど、まず“事”に慣れなくてはうれしい発見というには程遠い。
 嫌いではなくて。それどころか戒斗にはずっと触れていてほしい。それなのになぜか素直に受け入れられない。
 そのうえで、叶多が休みの日に至っては、時間おかまいなしで襲われると怖くなる。アンテナを張って始終警戒しているけれど、ふとした油断を()かれる。さっきのような仄めかしにはその状況に至るまで気づかないことが多い。
 そうなると戒斗を止められないし、服の下に滑りこんだ手が胸に触れただけで、その先につらさがあるとわかっていても叶多自身が止める気力を奪われる。
 戒斗が云ったとおり、あたしって感じやすいんだろうか。
 急ぎ足で階段を下りながら、独り叶多は顔を赤くした。

「あら、叶多ちゃん、顔を赤くして。あんまり急いでると転ぶわよ」
 二階と一階の間の踊り場でちょうど真理奈と一緒になった。
 赤くなった原因を誤解されたのは助かるけれど、子供扱いはいただけない。叶多は苦笑いした。
「真理奈さん、おはようございます。おかえりなさい!」
「おやすみ。いってらっしゃい」
 お馴染みになったかみ合わない挨拶を交わしてすれ違った。
 あ……ウ、ウィンナー……。
 不意に昨日のことを思いだして叶多は足を止めた。
 気になるけれど、戒斗にも真理奈にも訊けない。昔がどうであれ、いまはそういう関係でないことは確かだ。それでも付き合いが続いているということに複雑な気持ちを覚える。叶多にはまだわからない大人の世界だ。
 そういえば、真理奈から胸を触られても別になんともなかった。女同士で感じてたらそれこそおかしなことになりそうだ。
 戒斗が叶多産限定の甘い蜜を好んで食べるのと相伴って、叶多は戒斗というミツバチに食べられるのが好きなのかもしれない。ミツバチが毒針を隠し持っているように、戒斗の毒が怖いのは否定できないけれど。
 毒針……。
 また違うものを想像しそうになって慌てて首を横に振る。叶多は赤ら顔のまま小走りでアパートの外に出た。



 もうすぐ三階に届きそうなところで真理奈は戒斗とばったり会った。
「あら、毎日大変ねぇ」
「何が?」
 戒斗の(とぼ)けた問い返しに真理奈は吹きだしそうに笑った。
「ストーカー、よ。公人の分際でよくやるわね」
「習性だ。云うなよ。子供扱いされてるって傷つくから」
「ちょっと考えれば……考えなくても子供扱いしてないことなんて明々白々なのにね」
 真理奈がおもしろがって云うと、含みに気づいた戒斗は問うような眼差しを向ける。
「オカズ、いつもごちそうさま」
 無言の問いに答えると戒斗は露骨に顔をしかめ、真理奈は笑いだす。
「おれの楽しみに水を差すなよ。余計なことを云ったらおまえの自慢の胸を潰してやる」
「あら怖い。けど、叶多ちゃんみたいに小さくなったら振り向いてくれるかしら?」
「おまえを利用したのは悪いと思ってる。つけこんでたのは事実だ。けど、おまえがどうであろうと、いま以上のその気はない」
「はっきり云うわね。まあ、私の役割も終わったようだし、この際うんと楽しませてもらってチャラにしてあげるわよ。あの夏に何があったのか。それがわかっただけでも充分に楽しんでるけど」
「何が云いたい?」
「大事な胸を潰されちゃたまんないから。じゃ、いってらっしゃい」
 からかうようにはぐらかした真理奈に、戒斗は首をひねって警告し、階段を下りていった。

 真理奈は三階まで上がって通路の手摺りに寄った。叶多と距離を置いて戒斗があとをつけている。
 楽しみ、か……。
 控えめすぎる表現。
「過保護ね」
 真理奈は羨望(せんぼう)半分、興じる気持ち半分でつぶやいた。
 高三の夏。戒斗が変わった夏、それは真理奈の変化のきっかけでもある。
 ということは、叶多ちゃんのおかげなのかしら。ちょっと複雑だけど……。



 昼休みのお弁当を食べ終わってしばらくすると、叶多は口もとを手で覆って欠伸(あくび)をかみ殺した。この季節の昼間、中庭はぽかぽかして、夏とは違う、だんだんと透き通っていく空気が余計に心地よくさせる。
「寝不足なの?」
「この時間になると毎日毎日だな。よっぽどお盛んらしい」
 ユナに重ねて永がニタニタしながら仄めかした。
「違うよ!」
 永が何を云おうとしているかは明らかであり、けっして違わないがここは嘘を吐くべきところで、叶多は急いで否定した。
 陽が意地悪心を顔に出して叶多の剥きだしの耳を引っ張る。
「耳、赤くなってる」
「痛いっ。お弁当、自分で作らないといけないから早起きしてるだけだよ」
 陽の手を逃れて叶多は耳を隠すように押さえながら、半分は本当である理由を云ったのに、永は信じるつもりはないらしく、ふふん、と鼻で笑った。
 陽が探るように叶多を見つめた。
「な、何っ?」
「いまだに色気なしってどういうことだ? まさかあいつ、まだ手を出してないってことはないよな。()え膳食わぬは男の恥っていうし」

 手を出されたには違いないが、陽が、いや、陽に限らず知っている誰もが思うところと違っている。ましてや、陽の質問にどう答えてもしっぺ返しが来そうで叶多は口を(つぐ)んだ。
 それにしてもこういう赤裸々っぽい会話を女同士ならともかく、男の子と話すのもどうかと思う。
 あ、ボディタッチ。
 そっか。戒斗と真理奈さんてこんな感じかも。……っていってもあたしの場合、裸の付き合いなんてないし。やっぱり複雑。

「渡来くん、叶多はきっとずっとこんな感じなんだよ。いいじゃない、うまくいってるんだし。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてなんとかっていうじゃない。いいかげん、あきらめたほうが賢明じゃない?」
「このまんま八掟がめでたしめでたしになるんなら、世の中、全部うまくいくと思うけどな」
「渡来くん、反省したんじゃなかったの?」
 叶多は変わらない陽の暴言に抗議した。
「なんでおれが反省しなくちゃならないんだよ。反省するのはおバカなおまえだ」
「酷い」
 叶多が恨めしそうに陽を見る(かたわ)らで、ユナと永は顔を見合わせて呆れている。

「おバカっていえばさ」
 胡坐(あぐら)をかいていた永が姿勢を変える。立てた片膝に腕を預けた格好で、いつになく真面目な口調で切りだした。
「エスカレーターの基準変更、けっこうシビアだよな。せっかく中学受験で必死()いたのにさ。ていうか、ありえねぇだろ、いまから受験に変更ってさ」
「おまえ、危ないのか?」
「あと五点くらいだ」
「たぶん、あたしもそれくらい。渡来くんは?」
「クリアに決まってるだろ。八掟はどうなんだよ」
「……なんの話?」
 叶多がきょとんと問い返すと、ユナは心配そうにため息を吐いた。伴って陽と永もしょうがないなと云いたそうなため息を吐く。
「叶多、余裕あるなって思ってたんだけど……やっぱり聞いてないだけなんだ。今日は朝からボーっとしてたもんね」
 真理奈のことやへんなことを考え、振り払うのに苦労して先生の話もろくに耳に入らず、ぼんやりしていたのは事実だ。その間に重要なことを聞き逃していたらしい。

「なんなの?」
 叶多が不安そうに訊ねると、ユナは気難しい顔で宙を睨んだ。
「夏休み明けの実力テスト。全体的に結果が悪かったらしくて高学院長が(たる)んでるって怒りまくったらしいよ。レベル落としたら大学院長に顔が立たないって」
「このまえの実力テストで平均七十以下はまずアウト対象者。あとは一学期末の平均点を基準に、今度の中間で目標まで平均点を上げないと外部入学と同じ扱い、つまり受験しろってことらしい」
 陽の説明に叶多は蒼ざめていく。
「目標ってどれくらいなの?」
「実力でアウトでも一学期末の平均点が七十五以上あったらクリア。つまり、中間で七十五まで持ってこいってことみたいだな。今日の帰り、個別面談で目標点を云い渡される」
「……赤点取らなかったら大学無条件じゃないの?」
「ひでぇだろ。中間、二十日後だぞ」
 泣きたい気分の叶多に永はさらに現実を突きつけた。
 赤点五十五という、通常では考えられないレベルをなんとか突破してきたことが全部無駄になった気さえする。

 それから叶多が憂うつになったのは云わずもがな、気も(そぞ)ろに受けた午後の授業はやっと終わった。
 帰りの挨拶のあと、入れ替わり立ち替わりで職員室の横の面談室に呼びだされ、叶多に順番が巡った。
 職員室にあるのと同じ事務机を挟み、神妙な面持ちで担任の金元と向かい合う。

「八掟は……」
 金元は云いかけてやめ、一枚の紙を少し持ちあげて(おもむろ)にため息を吐いた。
「……そんなに悪いんですか」
 断罪を受けるかのように恐る恐る叶多は訊ねた。返事次第ではまさに奈落の底に落ちそうな気がする。
「自分の点、覚えてないのか?」
「……はっきりは……」
 まだ三十才になったばかりの金元は、普段、好青年という穏やかな印象だけれど、叶多の曖昧な返事を聞いて、いまは年寄りみたいに眉間にしわを寄せた。
 叶多はますます不安になった。自分の実力は知っている。それゆえに、赤点を(まぬが)れたらそれで結果オーライであって、それ以上に興味もなければ反省もない。
「実力は五十九点。中間は六十三点だ」
「じゃあ……」
「単純に考えて一教科十点上げないとなぁ」
 叶多はがっくりと肩を落とした。現状維持するだけでやっとという状況下、五点上げるのさえ至難の(わざ)なのに、十点と聞いただけで無理という言葉が脳みそを支配した。夏休みの宿題を戒斗や頼にやらせた罰だ。

「八掟、見合いの件、どうなった?」
 金元は叶多の感情が伝染したように沈んだ声で意味不明なことを口にした。
「……はい?」
「北海道に行っただろ」
 落ちこみすぎて金元が何を云っているのかピンとこなかった叶多だったが、北海道と聞いて思いだした。
「あ、あれは……えっと……」
「ああ、無理に答えなくていい。おまえんちも大変な時期だからな。成績が良くなくても考慮の余地がある。身に入らないだろう」
 叶多をさえぎった金元は顎を(さす)りながら成績表と睨めっこをしている。
 金元はすっかり事実だと思いこんでいるようで今更、訂正するのもへんに気が引ける。
 心の中で誤解の発端となった母の千里を(なじ)りつつ、叶多は金元から引導を渡されるのを待った。
「よし、八掟。おまえは特別に大負けして五点だ」
「え、でも先生……」
「おれの権限のうちだ」
 またもやさえぎった金元には、嘘のうえで特別な配慮をさせているわけで、ラッキーと思うよりはやっぱり良心が咎める。
「先生、いいんです。あたし、十点頑張りますっ」

 宣言したと同時に後悔したことも違いなく、叶多はため息すら出ないほど気が滅入(めい)った。

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