Sugarcoat-シュガーコート- #49

第6話 extra A Shadow


 同棲してからはじめての登校日。
 着替えて朝ご飯の準備をしたり、洗濯物を干したりと叶多はパタパタ動いた。
 南側のベランダに出て洗濯物を干している途中、朝の日差しが強いのもかまわず、叶多はしみじみと手にした洗濯物を眺めた。
「何やってんだ?」
「あっ」
 不意打ちで声をかけられて、ビクッとした手から洗濯物が落ちそうになる。叶多は慌ててつかんで胸もとに引き寄せた。落とさなくてほっとすると同時に顔を赤くして部屋の中の戒斗を見やった。
「その中身でも想像してるのか?」
 戒斗がからかって叶多の手にある洗濯物を指差す。
「ち、違うっ。な、なんだか一緒に住んでるんだぁって……実感してたの」
「おれのパンツで?」
「だ、だって、ただの恋人じゃ、こういうことしないし」
「確かに」
 戒斗は認めたが、同意だけでは終わりそうになくニヤニヤしていて、叶多は(とど)めを待った。
「そのうち、そんなふうに抱きしめてくれ」
 思わず、叶多は胸に引き寄せたボクサーパンツを見下ろした。
 何を想像したのか一目瞭然(いちもくりょうぜん)の叶多の赤ら顔を笑って、戒斗は奥へと消えた。
 へんに焦ったまま、気づいたときはいつのまにかツアーで溜まっていた洗濯物を干し終えていた。
 家を出る時間の七時半前になんとかまにあって玄関に行くと、叶多は靴を履き、見送る戒斗を振り仰いだ。
「じゃ、行ってきます」
「ああ、気をつけて行けよ」
 戒斗は叶多の結んだ髪を引っぱった。

 玄関を出るとすぐ、階段のほうから近づいてくる女性が叶多の目に入った。
 タイトな膝上の白いワンピースにボレロという身なりで女性にしては背も高い。玄関先に立ったままここの住人だろうかと思っていると、女性は隣のドアの前で立ち止まった。
 二十代半ばだろうか。ゴージャスと表現できそうなくらい目鼻立ちがくっきりとして、美人という言葉がぴったりだ。
 光沢のあるワンピーススーツから職業が何か見当ついた。どうりで夜は灯りもともらず暗いはずだ。叶多とはまったく逆の生活パターンらしい。
 大きく開いたスクエアネックの胸もとからは、やけにボリュームのあるふくらみが見える。叶多は思わず見入ってしまった。
「見かけないわね?」
 不意にハスキーな声が向けられて叶多は顔を上げた。
 女性はなんでもお見通しといった眼差しで叶多を見下ろしている。胸に目を奪われていたことを気づかれているようで、顔を赤くしながら叶多は会釈した。
「あ、先週、隣に引っ越してきました。八掟叶多です。よろしくお願いします」
「隣って?」
 叶多が隅の部屋を指差すと、女性は驚いた表情をした。
「あら、戒斗ってば私に黙って引っ越しちゃったのかしら?」
 その女性からすんなりと戒斗の名が飛びだして、今度は叶多のほうが驚いた。
 しかも、私に黙って、という言葉に引っかかる。ただの隣人ではないような云い方だ。
「あの……一緒にいます」
 云っていいかどうか迷ったけれど、ここで暮らす限り、どうせわかることだと思い直した。
「……一緒に?」
「はい」
「ふたりで?」
「はい」
 こっくりとうなずく叶多を上から下までじろじろ見て、女性は信じられないとばかりに目を丸くし、次の瞬間には叶多を押しのけるようにして、いま叶多が出てきたばかりの玄関のドアを叩いた。
「戒斗、ちょっと出てきなさいよ!」
 叶多が唖然としているうちに、女性はドア越しに叫んだ。
「なんだ。朝っぱらからうるさい――」
 びっくり眼の叶多が目に入ると、戒斗は言葉を途切れさせた。
 ドアを開けながら応える戒斗の喋り方も、顔を見るまえに叫んだのが誰かをすっかり承知していたようで、明らかに慣れ親しんだものだ。
「中学生なんか引っぱりこんで何やってるの。立場、考えなさいよね!」
 ……中学生……って……。
「高校生だ。親公認だし、おまえにどうこう文句云われることはない」
「あら、そうなの」
 女性は気が抜けたように返事をすると、再び叶多を一通り眺め、ふーん、とまた何か云いたげにつぶやいた。
 叶多への敵意は見えないものの、何か隠されている感じがする。
「叶多、早く行かないと電車に乗り遅れるぞ」
 戒斗の言葉にはっとする。
 新学期早々、遅刻なんていう目立つようなことは避けたい。
「うん」
「叶多ちゃん、私、真理奈、(しい)真理奈っていうの。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
 叶多はあらためて頭を下げると躰を反転させて小走りで階段に向かった。

   *

 叶多が階段に消えると、真理奈は戒斗を見上げた。
「へぇ」
「なんだ」
「なんでもないわよ。それよりも私のこと、まだ話してないみたいね?」
「叶多にへんに絡むなよ」
「人聞きの悪い。でも楽しみができたわ。バラすかどうかは私次第だから」
 真理奈は手をひらひらと振って自分の部屋に引き返した。
 戒斗はため息を吐く。
 小さく肩をすくめるといったん家に入って玄関先の靴箱の上に置いた鍵を取り、戒斗はまた部屋を出た。

   *

 マンションを出ると、通学の風景がまるっきり違っているだけに新入生の頃みたいにドキドキする。
 たったいましがた会ったばかりの、真理奈という女性と戒斗がどの程度親しいのか気になるけれど、二人は年も近いようだし、仲良くなってもそう不思議なことではない。
 十分くらい歩いて駅に着いた。住宅が多くある町だけに、通勤通学の人がそれなりに多い。どの車両がいいんだろうかと考えていると、やっぱり選ぶならスーツより制服姿が多い場所のほうが賢明だ。
 同じ制服の子がいるかと見渡してみても、いまのところ見当たらない。逆に叶多のほうがめずらしげにジロジロ見られて思わず愛想笑いを返しそうになった。
 青南の制服はけっこう知れていて、ユナが云うには青南学院生は(ちまた)では憧れの的らしい。
 叶多の場合、中身が釣り合っていないと突っこまれそうだけれど気にしないことにしている。

 電車に乗っても鮨詰(すしづ)めというほど多くもなく、いままでと変わらないくらいで叶多はほっとした。が、それはつかの間のことで、駅に停車するたびに人が増えて、反対側のドアのほうへと押しやられていく。
 二十分ちょっとすれば着くが、降り口がどっちのドアなのか、調べるのを忘れていたことに気づいた。
 “青南駅”と学校の名前が着くほど学院生にとって便利な駅は、いくつかの会社の鉄道が放射状に入り乱れている。青南駅だったら反対が降り口になることもありえるけれど、普通に考えれば同じ側のドアが開くはずだ。
 どうしよう。あたしのほうが降りるの先だっけ……。
 どこの学校か制服を見分けながら首を伸ばして電車内を見渡すと、サラリーマンもずいぶんと増えている。
 あのおじさん、でかすぎる。一人であたし三人分の場所取ってるし。あの間通り抜けるってやだな。
 こういう人込みでは一五五センチそこそこの背の低さはマイナス要因にしかならない。

 四つ目の駅に止まり、また人垣が動いて少しだけ流された。
 ドアの外に面しながらうつむいてため息を吐いたとき、周りがいままでと違う空気感でかすかにざわめいた。
 顔を上げて振り返ろうとしたちょうどその時、叶多の背中に驚くほどぴったりと誰かの躰が密着した。その手が回りこんでウエストをつかむと、叶多は息を呑む。
「イ……っ」
 痴漢(ちかん)だと思った瞬間、拒絶の言葉が出る寸前で背後から回った手が叶多の口をふさぐ。
「おれだ」
 ますますパニックになるなかで、『おれ』というのが“誰”なのかを理解するまでにかなりの時間がかかった気がした。窮屈(きゅうくつ)な体勢から後ろを見上げると、ウエストから手が離れ、その手が主の目もとまで上がり、焦げ茶色のサングラスを下に少しずらした。
「……ぃ……と」
 手の中でもぐもぐとつぶやき、叶多は躰から力を抜いた。
「いいか?」
 叶多が二回続けてうなずくと戒斗の手が口から離れた。まだドキドキしている。
「……何してるの?」
「見送り」
 小さな声で言葉を交わし、叶多は狭いなかを無理やり正面に向き直ると不思議そうに戒斗を見上げた。
「久しぶりに習慣が戻った」
 サングラス越しで瞳は読めないけれど、口が可笑しそうに歪んだ。
「習慣て?」
「こっちの話。それより次、降りる駅だろ? おまえ、反対側に埋もれてるからこのままじゃ降りれそうもないし」
「やっぱり反対?」
 叶多は顔をしかめる。あのおじさんの太い体に挟まれたらどうしようと真面目に考えた。
「大丈夫だ。おれが出してやる。それより叶多、これって絶妙な構図だって思わないか?」
「え?」
「公然とハグできる」
 戒斗は叶多がはじめて聞くような悪戯っぽい口調で云った。

「か――」
 名前を呼びそうになってまた戒斗に口をふさがれた。空いたほうの左手を上げ、戒斗は自分の口もとで人差し指を立てる。
 戒斗がどういう仕事をしているか普段からわかっているはずも、公人という感覚が叶多にはなく、つい忘れがちだ。小さい声で話そうが、こう距離が近いと内容は筒抜けに違いない。
 戒斗の手を離し、思わず横を向いた叶多はその視線の先にいた少女たちと(もろ)に目が合った。
 その少女たちの視線は申し合わせたように、一斉に叶多から戒斗へと這いあがった。
 公人である以前に戒斗は背が高くて目立つうえ、サングラスしているゆえに顔立ちの良さが際立って、余計に素顔はどうなのかと想像をかき立てる。電車の音に紛れて、さっきから続いているかすかなざわめきも戒斗のせいだろう。サングラスと、まさかこんなところにという先入観がかろうじてパニックを防いでいる。
 また叶多に戻ったいくつもの目が、どうしてあなたなの? と語りかける。
 えへへ、とごまかすように頭を()きそうになったのを堪えたかわりに、ふざけたことを云った戒斗の腕を(つつ)いた。
 どうしてと問われても、面倒ばかりかけている叶多本人がいちばんそう思っている。
 殊勝な気持ちは何一つ持たず、ただ好き、という気持ちだけで受け入れられたいま、役に立てたら、とか、支えになれたら、という欲張り心とそれに反面した不安が出てこなくもない。
 ずっとさきでも、いつかそうなれたらいいな。
 そう思ったとき電車の揺れるリズムが少し乱れ、叶多はとっさに戒斗の腕をつかんだ。叶多は誘惑に負け、こっそり笑みを浮かべると絶妙な構図を利用して戒斗に寄りかかる。
 頭の上で戒斗がふっとため息紛いの笑みを漏らし、その腕が支えるふりをして叶多の躰に回った。

 やがてまもなくの到着がアナウンスされ、電車のスピードが落ちると、降りるぞ、と戒斗が声をかけた。叶多をかばうようにして反対側のドアに向かう。
 いつかチャールトン・ヘストンが大好きという、母方の祖母に付き合わされて見た映画を思いだした。モーセを描いた“十戒”のワンシーンと似て、海が割れたように道が開いたと感じたのはいくらなんでも気のせいだろうけれど、それくらいスムーズに抜けだして電車を降りた。
 いざ降りてみると、周りには見当たらなかった青南の制服がたくさん見えた。
「ここから先は大丈夫だな?」
「そこまで心配しなくても大丈夫だよ。同じ駅だし」
 叶多は不満げに口を尖らせた。
「悪い。心配なのはガキ扱いしてるわけじゃなくて癖が抜けないだけだ。じゃあな」
 口端を上げて笑った戒斗の挨拶がわりの、じゃあな、を聞くと叶多の不満も途切れた。
「戒斗は?」
「おれはUターンして有吏に行く。昼すぎには戻るけど昼飯はいらない。帰る方向を間違うなよ」
 やっぱり止めは欠かせないようで、叶多は抗議を示して首をかしげた。
「か――!」
「叫ぶといま以上に目立つことになる。そうなっても知らないからな」
 戒斗が叶多をさえぎって、脅すよりはおもしろがって云った。
 青南の生徒ばかりなだけにそれはまずい。
「叶多!」
 駅で待ち合わせをしていたユナが後ろから叶多を呼んだ。
 振り返ると同時に傍に立ったユナは元気よく、
「おはようございます!」
と叶多より先に戒斗に向かった。
 名前を出さないところはさすがに叶多よりも(わきま)えているユナだ。
「ユナちゃん、おはよう」
「もしかして送りですか。いいなぁ」
 真面目にうらやましがるユナを見て、
「早く行ったほうがいい」
と戒斗は笑みを返してふたりを促した。
「うん。ユナ、行こう」
「はいはい。じゃあ、また!」
「もちろん」
 戒斗が請けあうと、ユナは小さくハートマーク付きの悲鳴をあげ、先に声かけたはずの叶多を逆に率先してホームから連れだした。

   *

 叶多の姿が見えなくなると同時に逆方向の電車が止まる。
 また探偵に逆戻りだ。
 戒斗は独り、小さく笑った。

* The story will be continued in ‘Chance on’. *

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* #48中の始業式に行くまでのエピソードでした☆
* a shadow … 尾行者