Sugarcoat-シュガーコート- #48

第6話 Like master,like girl ? -8-


 戒斗と頼が宿題を手伝ってくれたおかげで徹夜することもなく、翌朝は憂うつもすっかり吹き飛んで目覚まし時計に起こされた。宿題はあと少しだけ残っているが、最大の難関、数学は無事に終わり、楽勝に近い。
 朝の早起きは、いままで千里に甘えていたぶんだけ、いざ学校が始まると負担ではある。けれど、同棲していることとプラスマイナスしたら、計算するまでもなくプラスが断トツに上回る。

 昨日の夜は“お月のもの”だとわかっているにもかかわらず、寝るときになってまた触れてきた戒斗の手を止めると、何か云いたげに見られたけれど、叶多が驚いて困惑した瞳を向けると、抱くだけだ、とつぶやいて後ろ向きに引き寄せられた。
 背中から伝わってくる鼓動が子守唄になって、雌鶏(めんどり)に包まれた(ひよこ)みたいに眠った。
 ずっとこのままでいたい。
 しばらくぐずぐずとしたけれど、そういうわけにもいかない。叶多は戒斗の腕と絡んだ足から抜けだした。
 そっと動いたつもりが、戒斗はすぐに目を開けた。叶多と違って、戒斗は起きたと同時に頭がはっきりするらしい。ベッドに座った叶多をしっかりとその瞳が捕える。

「おはよ」
「ああ」
「ごめん、起こして。まだ寝てていいよ。休みだし」
「いいんだ。おれも有吏のことであちこち行かなくちゃいけない」
 戒斗はそう云いながら起きあがった。
 ツアーに行くまえもそうだったが、戒斗のタフさには驚く。それでもサイボーグではない。
 自分が宿題なんていう馬鹿げた負担をかけてしまったことを、叶多はいまになって後悔した。
「……疲れてるし、忙しいのに昨日は――」
 叶多の震えそうなくちびるを戒斗がふさいで、それ以上を云わせなかった。
 すぐに離れた戒斗の口端が片方だけ上がると、叶多のくちびるにも笑みが戻る。
「昼からは一緒に崇さんとこに行こうと思ってる」
「……うん。よかった。グラスを取りにいきたかったの」
「グラス?」
「そう。戒斗、手を合わせて」

 戒斗は問いかけるような眼差しを向けながら、叶多が差しだした左の手のひらに右手を当てる。
 ともすれば紅葉(もみじ)みたいな叶多の手と比べて、戒斗の手は一回り以上大きい。きれいに爪を切ったベーシストならではの指先はちょっと太くて固い。ライヴではピックを使っているはずも、常に鍛えておく必要があるようで指弾きも普段から欠かさないと聞いた。
 けれど、叶多に触れる指先は痛いことはなくて、むしろ心地いい。叶多はかすかに顔を赤らめた。
「うん、いい感じ」
 回想を振り払い、叶多は独り納得して満足する。
「なんだ?」
「特製のペアグラス。同棲始めた記念に作ったの。楽しみにしてて」
「ああ、わかった。もう用意しないと……着替え、手伝ってやろうか」
 云っている途中でふと思いついたようにふざけた口調になり、戒斗は叶多の胸もとに手を滑らせる。その手には着替えさせること以上の意思が見え隠れしている。
「だめっ、遅刻しちゃう」
「じゃ、どうする?」
 少し口を歪めた戒斗の要求が何か、叶多はちょっと考える。
 不安定なベッドの上で膝立ちすると、戒斗の肩に手を置いてキスをした。それから抱きつくと、オーケー、と戒斗が肩越しに小さく笑った。



 学校から帰って独りの昼ごはんをとっくにすませた二時頃、戒斗から電話が入った。
『もうすぐそっちに帰る。十分後、下に出てこれるか?』
「うん、いますぐでも全然大丈夫」
 戒斗が笑って電話を切ると、その答えどおり、叶多は部屋中のカーテンを閉め、用意していたバックを持って外に出た。
 階段下の日陰で待っていると車が道路脇に止まった。2ドアの車は、ブルーとパープルの中間色にグレーを足したような色で、陽射しを受けて光沢を放っている。
 助手席の窓が下りた。
「叶多、乗れよ」
 一瞬、びっくりした叶多だったが、急いで駆け寄った。
 助手席に乗ってシートベルトを締めると、戒斗は車を出した。黒革のシートが柔らかい。

「これ、借りたの? 和久井さんの車で来るかと思った」
「個人的なことでそうそう和久井を使うわけにもいかない。最近になってかなり個人的に使ってるけど」
 戒斗は横目でちらりと叶多を見やった。云いたいことは見え見えだが、反論できずに、叶多はちょっとだけ口を突きだした。
「これは拓斗の車だ。家に行ったついでにもらってきた。いま使われてないし、たまに乗ってやらないとバッテリーあがったり、車も()ねる」
「もらってきたって……どこに置くの?」
「この近くにバイクを置くのに車庫を借りてる。野晒(のざら)しだと傷むからな」
「あのバイク?」
「そうだ」
 ちょうど信号で止まり、叶多を見るとそのくちびるが広がる。
「なんだ?」
「ううん、変わってないこともあるんだってうれしくなった」
「よっぽどのことがない限り、愛車はそう簡単に手放せない」
 ……。
 今度は叶多の顔がわずかに曇った。
「どうした?」
「……あたしってバイクに負けたんだなって思って」
「なんだそれ?」
「あたしのことは五年間も放置してたのに、バイクはずっと傍に置いてあったってこと」
「普通、バイクと人間を比べるか?」
 けっこう真面目な気持ちで云ったのに、戒斗は笑い飛ばした。
「だって……」
「放置したのは事実だ。けどそれは問題じゃない。そこに、どれだけの、何が、あったかってことが重要なんじゃないか?」
「……何があったの?」
「わかってるはずだ」
 戒斗は肩をすくめて答えなかった。
 しばらく考えて黙りこんだ叶多だったがあきらめて始業式の話に変えると、戒斗が呆れたように笑った。


 三十分くらいで“たか”に着いた。
 工房に入ると、蒸し蒸しとした暑さに汗が噴く。崇と則友はそれぞれ自分の作品にかかっている。
 戒斗に頼まれ、叶多は隅の台に並べられた則友の作品を案内した。キリよく終わるまで、ふたりは崇と則友の作品を見比べたり、作業を見守ったりした。則友の手つきも本物の職人らしく確実に崇の作品に近づいている。
「叶っちゃん、いらっしゃい」
 さきに手を止めた則友は立ちあがって戒斗にも会釈した。
「叶多からいろいろ聞きました。ガラスも見せてもらったけど、崇さんが認めるだけあって見分けがつかないくらいに精巧な作品ですよ」
 感じたとおりに戒斗が云うと、則友は穏やかに微笑んだ。
「とんでもない。崇さんに怒られますよ」
「私は怒ったことなどない。早速、来たか。わんこ、どうだ?」
 崇が口を挟み、戒斗と叶多を見比べた。まるで初対面のときみたいに何か云いたそうにニヤついている。
「もう平気。ありがとう」
「叶っちゃん、昨日の見る?」
「うん。戒斗はちょっと待ってて。ちゃんと納得いったら見せるから」
「ああ」
 戒斗が可笑しそうに返事すると、叶多は則友のあとについていった。

「落ち着いたようだな」
 崇がぼそっと漏らした。
「落ち着くと云うにはまだまだです。それより……芳沢さんの作品を見ました。“たか”の後継者のほうがさきに落ち着いたようですね。おれは契約を守れませんでした。この件では、甘えだって父にも云われましたよ。そのとおりです」
「おまえはちゃんと契約を遂行(すいこう)してる」
 自嘲して笑うと崇は否定し、戒斗は怪訝そうに眉間にしわを寄せて無言で問いかけた。
「わんこから聞かなかったか? 則はわんこの作ったガラスに惹かれて結局はこうなってる。わんこを連れてきたのはおまえだろ。私はわんこ自身でもよかったんだがおまえが離さんだろうし」
 崇の本音がなくもない言葉に否定もできず、戒斗は苦笑いした。
「そう云ってもらえると助かります。時間とか、いろいろと(かこつ)けていたところもありますから」
「勇将の(もと)に弱卒無し、だろうて」
「なんですか?」
「大将がそれなりであれば、大将自身が動かずとも、()いては命令せずともそれなりの下がついて動く。その点、おまえもわんこもお互いに目が利くということだろう。動いているつもりはなくても、結果が自然と良に導かれるということほどの強みはない」
「大将ってなんですか」
 戒斗は声に出して笑った。
 崇はおどけた表情をしたが、開いた口はごく真面目な口調だった。
「その昔、私の父親から聞いた話だ。物もなく食べるものさえどうかという戦時中は、ガラス細工の腕はなんの役にも立たん。じいさんは戦地に出向いてまもなく戦死した。ばあさんは紙切れ一枚でそれを知らされたそうだ。親父が十才のときだ。母一人、子一人。逃げ惑いつつ生き抜くには難しい時代だ。生きていることが不思議なくらいだと云っていた。その戦時中にな、わざわざ親父を探して会いにきた奴がいたそうだ」
「誰ですか」
「そいつは『(はかりごと)を見抜けず我々の力不足で申し訳ない』と、じいさんの死を詫びたらしい。まもなくの終戦と一年後の再会を約束して帰っていった」
 質問には答えず、崇がそう続けると、戒斗は訊くまでもなく見当をつけた。
「それで?」
「そいつの云ったとおり、まもなく、二カ月後に玉音(ぎょくおん)放送があった。一年後に約束の地で再会を果たしたとき、じいさんのぶんまでと、もとの地に家から工房まで整えて招かれたそうだ。つまり、ここがそうだ。そいつはただ『和斗』と名乗ったらしい」
 崇は戒斗の曾祖父(そうそふ)の名を出した。
 何も云わず、表情も変わりない戒斗を見やると崇は笑った。

「現実的に考えるとありえない話だろう。後継ぎの話が出たときはガラスに興味はなかった。そういうときに聞かされて、バカバカしいとますます反抗期に拍車がかかったがそのうち、そいつに会いたくなった。そいつ、というよりは『我々』というのがなんなのかを知りたくなった。何かが暗に動いている。私がじいさんほどにガラスの腕をあげれば会えるかもしれん。そう思ってやってきた。戒斗、おまえが何者かは知らん。が、おまえは大将には打ってつけだ。『それなり』の資質が充分にある」
「おれは有吏戒斗にすぎませんよ」
「ふふん。まあ、ただの人間であることには変わりないがな」
「どういう意味ですか」
「則のこと、気にしてるようだな」
 崇はニヤリとして本筋に入った。
 戒斗はまた始まったかと顔をしかめる。
 叶多はガラスを手に持って則友と楽しそうにやり取りをしている。
 気にならなくはない。
 心の内でつぶやいたが、その云い方はおそらく間違っている。
「則を(あなど)るなよ。穏やかに見せているがかなり情の熱い奴だぞ」
「……何が云いたいんですか。素人とはいえ、作品を見ればそれくらい感じ取れる目は持っているつもりですよ」
「わんこも成長したし、楽しみが増えるな」
 崇が無責任に云い放つと、戒斗はため息を吐いた。
「崇さんが『わんこ』のことを聞かなくなったのは叶多がここに来るようになったからだってわかりました。おれが距離を置いたのを知ったからと思ってたんですが、そこまで気が回りませんでしたよ」
「まだまだ修行が足りん」
「そのとおりです」
 戒斗は仕方なく笑って同意した。



「グラス、どんな感じ?」
 ベッドをつけた壁に寄りかかり、戒斗は氷の入った水を飲んだ。
 投げだした足の横で叶多はべた座りし、戒斗に期待の眼差しを向けた。
 叶多が作ったグラスは小さな気泡がたくさん詰めこまれ、厚めのガラスの表面はでこぼこになっている。鑑賞用のただのお遊びかと思ったが、手にしてその美点がわかった。滑り落ちる心配なく、そのでこぼこが戒斗の手にぴたりとフィットする。さらにグラスの気泡はただの水も新鮮に見せる。
「いい感じだ」
「でしょ。何回もやり直した」
 控え目な感想でも叶多は充分うれしい。
「あのキッチンの窓枠にあるカラフルな小瓶もおまえが作ったんだな」
「そう。部屋が明るくなるから」
「崇さんが弟子にしたいって云ってた」
「ホント?! お世辞でもうれしい」
「お世辞じゃないだろ。だから売れてるんだろうし」
「でも則くんには敵わないよ。あれでまだまだって云うし」
 戒斗の顔に何かがよぎった。何かが、というよりは一瞬、無表情になった感じがした。
「どうかした?」
「いや」
「そう? それにしても崇おじさん、きっと独りで楽しんでたんだよ。なんだかこの五年て……すごく損した気分」
「崇さんはおれの意思を尊重したんだ。まあ、少しは(しゃく)に障らないこともないけどな」
「戒斗の意思って?」
「時間が必要だったってことだ。それとは別にも理由があるけど、それ以上は知らないほうがいい。また困るのは叶多だ」
 戒斗は意味ありげにニヤリとして見せた。

 叶多は不満を隠さずに戒斗を見上げると、ふと、ずっと疑問に思っていることが頭をよぎって顔をかすかに曇らせた。
 戒斗を疑っているわけではないけれど、これまで訊きたくても訊けなかった。客観的には誰が見ても、戒斗が迎えにきた、とはけっして云えない。
「……時間、て……戒斗はどれくらいを考えてたの?」
 戒斗はすぐには答えず、叶多をじっと見つめ、そして、つと目を逸らすと小さくくちびるを動かして笑みを浮かべた。おそらくは叶多の最大の疑問であり、こうなったいまでも不安なことにかわりないと承知している。
「永遠、って云ったらどうする?」
 叶多に視線を戻した戒斗の瞳は、ふざけているどころか真剣そのものだ。
 叶多は瞳を大きく開いて息を呑んだ。腹を立てることもできないまま、ただ不安が溢れる。
「おれの迷いだ」
「……迷い?」
 戒斗とその言葉は似合っていない気がして、叶多は戸惑いながら問い返した。
「そう。叶多と同じように航たちもそう思ってるらしいけど、迷いがないほど完璧な人間じゃない。そうありたいとは思ってるけどな。叶多に負けず劣らず、おれもいろんなことを考えてる。格の差は当然あるにしても」
「……最後の言葉は余計だよ」
 戒斗はベッドの頭側にある腰窓の枠にグラスを置き、叶多の左頬に触れて撫でた。それは怖がっている犬を安心させるしぐさと似ていて、叶多は飼い主に犬が応えるのと同じしぐさで、その手のひらに頬を預けた。
「五年前の約束は嘘じゃない。けど、障害があるだけにいったん離れてしまうと迷いが出てきた。ごたごたのなかを連れ回すことになる。そうすることに抵抗があったし、何よりそのことで叶多が変わることを避けたかった。迷ったすえに叶多に任せることにした。放っておいても追いかけてくるんなら、それまでが必要な時間だと思うことにした」
「じゃあ……あたし、追いかけてって正解だったんだ」
 その声には不安しか見えない。戒斗は小さく笑んだ。
「だからと云って、おまえを軽く扱ってるということじゃない。それは誤解するなよ。思うことにした、ってどういうことかってことだ」
「うん……?」
「頭と心は違うって云っただろ。結局、おれも意思が弱いらしい」
「……そう?」
「そうだ。だからこうやって一緒にいる」

 戒斗の瞳が、どうだ? と問いかける。
「うん」
 叶多に笑顔が戻ると、戒斗は躰を起こして頬に置いた手を下に滑らせた。
「戒斗、だめ!」
 叶多は叫びつつ、パジャマの上から胸を包んだ手を上から両手で押さえた。
「だめなのか?」
「……云ったよ?」
「わかった」
 戒斗が顔をしかめたところを見ると冗談ではなく、本気らしいことがわかった。
 目を見開くと、胸に触れられているだけでもどきどきしているのに、叶多の手の下で戒斗の手が動き、反射的に小さく呻く。
「戒斗、わかったって……」
「ここもだめなのか?」
「だって……」
 つらいし。
 何がと訊かれたら答えられそうもなく、叶多は戸惑って言葉を切った。
「交渉事は絶対に履行する。二日後だ。覚えてろよ」
 戒斗は手を離して、残酷とさえ見えるほど口を歪めて笑った。
 とりあえずは二日後のことだ。
 そう思った叶多はちょっとだけ首を傾け、寝るぞ、と続けて云った戒斗を上目づかいに見上げた。
「今日もくっついてくれる?」
「……おれに自制心があること、真面目にラッキーだと思えよ」

 後先を考えないで、いまある欲求を貫こうとするあたり、叶多は最強の(つわもの)かもしれないと戒斗は思う。
 二日後。
 交渉成立した以上、逆らうこともできず、後回しにしたぶんだけ、叶多は躾けられるまま戒斗にまた飼い慣らされた。

* The story will be continued in ‘A Shadow’. *

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* 玉音放送 … 昭和天皇が終戦の詔書を音読したものをラジオで流した放送のこと
* 次節#49のエキストラは、この節#48中の始業式に行くまでのエピソード