Sugarcoat-シュガーコート- #43

第6話 Like master,like girl ? -3-


 八掟の家から和久井に送ってもらい、部屋の前まで来ると、戒斗がロックを解除してドアを開いた。促されるまま叶多は中に入り、戒斗が続く。
「どうしたんだ。早く上がれよ」
 内側からロックをかけても、叶多は狭い玄関先で突っ立ったままだ。
「……家、なんだなって思って」
 むっとする部屋の温度も気にならないようで、叶多の声からは背中を向けたままでもうれしそうな気配が感じ取れた。
「なんだ?」
「家で……ううん、いまはここが家なんだけど……戒斗があたりまえみたいに『帰るぞ』って云ってくれたとき、すっごくうれしいって思った。無理やり押しかけちゃったけど、戒斗がほんとに受け入れてくれたんだって証明書もらった感じ」
 戒斗が背後から手を伸ばして叶多の頬を包むと、案の定、雫に触れる。

 小さく笑った声が耳もとに下りてきたと思ったとたん、
「ここで抱かれるか?」
と囁いて、戒斗の舌が後ろから叶多の右耳を探った。
「戒斗っ……だめ!」
 叶多はくすぐったいような感覚に悲鳴をあげて首をすくめた。慌ててミュールを脱ぎすて部屋の奥に上がりこむと、右の耳を押さえて戒斗を振り向く。
 戒斗はおもしろがって口を歪める。
「追い詰められたなんとか、みたいだ」
「……やっぱり、あたしで遊んでる」
(しつ)けてる、の間違いだ」
 戒斗がますます口を歪め、靴を脱いでわざとゆっくり叶多に近づいてくる。それに伴って叶多は瞳を大きく開いていく。
「ホントにいま……っ?」
 すくんで動けない叶多の目の前に立ち、身をかがめて顔を寄せると戒斗はくっと笑う。
「よっぽど強烈だったらしいから、今日はやめといてやるよ。明日からいないし、避けられちゃ(たま)らない」
「……ほんと?」
 あからさまにほっとした叶多を見て、戒斗は一転、顔をしかめた。

「おれに触られるの、嫌なのか?」
「ううん、そんなこと全然ない」
「キスは?」
「好き」
「それでも嫌がるって、おれは下手だったのか?」
「……下手とか……そういうの……あたしにわかるわけないよ?」
「なら、よかった?」
 …………。
 叶多はここでも答えられず、戒斗から目を逸らした。
「ふーん。わからないくらいおれの腕は鈍ってるらしい。カンを取り戻さないとな……」
 自分でもわかるくらいカッと赤くなった叶多の耳に、戒斗の両手がそれぞれ触れてきた。ハッとして戒斗を見やると、闇のように深まった瞳が飛びかかりそうに光る。
「練習台になってくれるだろ?」
 手が耳から首筋をたどってゆっくりと下りていく。自分の鼓動が耳に届いている。
「戒斗っ、今日はしないっ……て」
「練習台というより、叶多の躰を学ばないとどうしようもない。最初が肝心ていうし」
 叶多の言葉を無視してつぶやいた戒斗の手は、大きく開いているTシャツの胸もとにさしかかる。
「戒……っ」
 戒斗の手がTシャツの上から胸を(くる)むと、叶多は言葉を途切れさせて息を呑んだ。
 見開いた叶多の目をしっかりと捕らえている戒斗の瞳が、不意に緩んでからかいを見せた。
「素直に云ってくれるんならやめる」
「……だって……」
「よかった?」
 ますます顔を火照らせて叶多はかすかにうなずいた。
「ほんとか?」
「……怖いときもあるけど……戒斗のはどんなハグでもどんなキスでも全部好き!」
 形振(なりふ)りかまわず打ち明けると、戒斗がにやりとして手を下ろした。

「オーケー。今日は許してやる」
 叶多は顔を赤くしたままくちびるを尖らせた。
「戒斗、意地悪になってる」
「躾するのを忘れてたことに気づいた」
「躾……って?」
「飼い主の義務だ」
 戒斗は長く下ろした首もとの髪を引っ張って叶多を引き寄せ、顔を傾けてくちびるをふさいだ。戒斗の舌がゆっくりとくちびるを割ると、叶多は口を開いて預ける。押しつけることもなく、ちょっと離れてはまたぴったりと触れることを繰り返し、じゃれあうようなキスはただ甘い。
 膝に力が入らなくなってくちびるが離れた瞬間、声に出るくらいの息を吐いて叶多は戒斗の首に巻きつく。
「こうやって甘やかすのもいいけどな」

「……あたしも……戒斗みたいにキス……うまくなれる?」
 少し息を切らしながら叶多が云うと、戒斗が可笑しそうに躰を揺らす。
「それ、こっちの都合で解釈していいのか?」
「え?」
 叶多は躰を離して戒斗を見上げた。
「叶多にしてやったように、キスにもいろんなのがあるだろ?」
「……え? ……え……ぇ……っ?」
 あたしにしてくれたいろんなキス……って……。
 思い廻るとまもなく衝撃的なシーンが叶多の頭に浮かんだ。
 ……え……も、もしかして…戒斗が云ってるのは……!
「お返し、期待してるよ」
 思い当たったらしい叶多に、戒斗はニヤついて云った。
「か、戒斗っ」
「いますぐって云ってない。当面は無期限でおれが楽しむことにしてる」
 一方的にからかわれて叶多が恨めしそうに戒斗を見やると、ニヤついたままのくちびるが再び下りてきて、応える間もなくまたすぐに離れた。

「さきにシャワー使っていい。明日の用意をある程度やっておく」
「明日は何時に出るの?」
「……十時頃だ」
 なぜか戒斗はためらっているように見える。
 叶多が不思議に思っていると、
「いない間、戻るか?」
と戒斗が訊ねた。
 一瞬なんのことかと思ったけれどすぐに見当がついた。
「ううん。もうここが家だし。町の雰囲気に慣れておく」
「わかった」
 そう云って戒斗は問うように叶多を見下ろした。叶多は背伸びをして戒斗にキスをする。
 離れると、無言で通じあうことに満足して戒斗はかすかに笑った。


 シャワーを戒斗と交代して和室にドライヤーを持ってくると、叶多は髪を乾かし始めた。戒斗が浴室にいるとやっぱり洗面所は使いにくい。
 こんなんじゃ、一緒にお風呂なんて絶対に無理。戒斗みたいに余裕があればいいのに。いつか対等になれるかな……ってこれも絶対無理。頭がついてかない。
 一つ大きくため息を吐いたあと、その一瞬後にはプルプルと首を振った。
 だめ、あきらめない。戒斗のこと、あきらめないでここまで来たんだし、きっともうこっちのもの! なんだから……うん、絶対!
 そう気合を入れているうちに髪も乾いた。手探りでやったぶん、前髪がちょっと浮きすぎて手で押さえた。
 スタンドミラーが必要かも。自転車もいるし。必要なもの、リストアップしないと。

 それから明日の朝食準備を終わり、ダイニングの椅子に置いていた紙袋を手にとって床に座りこんだ。
 覗いてみると、千里が云ったとおり、普通の洋服のようだ。中身を一着ずつ取りだしていくうちに、どう見ても普通ではなく、嗜好の偏った人が好みそうなフリフリの白いエプロンが出てくる。
 やっぱり千里はどこかへんなポイントをついてくる。それが冗談なのか本気なのか、娘である叶多にさえわからない。
 あ……そういえば、渡来くんがお母さんのことをあたしみたいだって云ってたような……それってやっぱり似てるってこと……?
 叶多は複雑な気分でちょっと顔をしかめる。
 最後の一着は膝丈くらいのふんわりとしたスカートだ。取りだすと袋の中でカサッと音がして、見るともう一つ、洋服ではなく薄いポーチみたいなものが目に入った。
 つかんだポーチの中には何か入っている感触があり、ファスナーを開けてみた。出てきたのは叶多名義の通帳と印鑑だ。
 あたしの通帳は持ってきてたはずなのに……。
 そう思いつつ通帳を開くと、二つに折りたたまれたメモを見つけた。千里の字だ。叶多へ、と始まっている。

『これは叶多の大学資金にと貯めてた通帳なの。必要なくなったけど、これは叶多のためのものだから哲さんが持たせなさいって。戒斗さんの経済力についてはまったく心配してないけど、気兼ねなく使えるお金があってもいいと思うわ。頑張りなさいね』

 何度か読み直した。
 相談にはいつでも乗るから。
 メモはそう締め(くく)られている。
 戒斗は高等部の学費もみると云ったけれど、哲が、高等部卒業まではこっちで、と断ると戒斗はあっさりと引いた。
 いま、千里の伝言を読んではじめてそこにある両親の思いを知った気がした。
 お父さん、お母さん……。

 ちょうど指先で涙を拭ったときに戒斗が浴室から出てきた。
「どうした?」
 様子が違っているのに目敏く気づいた戒斗は、叶多に近寄って正面にかがんだ。
「……ありがとうとか……お世話になりましたって云ってこなかったなって……思って……」
 広げた洋服と手にしている通帳を見て察した戒斗は、うつむいた叶多の頬に手を置く。
維哲(いさと)さんのことにしろ、おまえんちを見てると家族っていいなと思う」
 叶多は顔を上げた。
「戒斗?」
「おれの家に来たらおまえはびっくりするだろうな。それくらいギクシャクしてる」
 叶多が問うように見ると、戒斗はふっと笑った。
 可笑しくて笑っているよりは、何かを笑ってごまかしている感じがした。その表情は複雑で、当然のように叶多には一つも読み取れない。
 戒斗は叶多の涙を拭って続ける。

「お世話になりましたって云う必要ない。別れじゃないし、親からすれば云われたらかえってさみしいんじゃないか?  ずっと親であることには変わりない。だからせめて卒業まではっていう八掟主宰の気持ちもわかる。いまからも世話になることは間違いないし、頼ることが逆に主宰たちにとってはうれしいことなんじゃないかって思う。今日はもう遅いから、ありがとうは明日にでも云っておけばいい。いつ云っても遅いってことはないだろ?」

「……うん」
 叶多がうなずいて笑顔になると、戒斗は可笑しそうに笑った。
「おまえも忙しいな。感動したり、驚いたり、泣いたり、笑ったり。疲れそうだ」
「付き合うの、疲れる?」
「楽しんでる」
 尖らせたくちびるに戒斗が喰いついた。
「日付が変わる。早く寝るぞ」
「ホントに何もしない?」
「有吏に二言はない」
 そのとおり、戒斗は約束を守って抱き寄せる以上のことはしなかった。戒斗に指摘されたように、一日中自分自身の慌ただしい感情に振り回された叶多は朝までぐっすりと眠った。

 叶多の誤算は、先例にもかかわらず戒斗の言葉を深読みしなかったことにある。

BACKNEXTDOOR