Sugarcoat-シュガーコート- #42

第6話 Like master,like girl ? -2-


 会社を出ると玄関口に止めて待機していた和久井の車に乗りこんだ。
「どうでした?」
 戒斗が座席に落ち着くなり、和久井が問いかけた。
「どっちの話だ?」
 戒斗は口を歪めてルームミラー越しに和久井と視線を合わせる。
「一方がうまく行かないはずないでしょう?」
 和久井が質問に質問で答えると、戒斗はすぐには答えず、出せ、といつになくぶっきらぼうに指示した。
 和久井は云われるままにギアをシフトチェンジして車を出す。

「一方がうまく行くはずもないだろ」
 会社の門を出ると、戒斗は和久井を真似て云い返した。
「予定外で何か云われたようですね」
「父の考えはすぐには変わらない。かみ合わせれば見当つくはずだ」
「……首領の考えが変わるにも、そのさきにある問題の解決にも時間が必要です。覚悟のうえでしょう。いまに至っては一緒に住んでいるわけですから、当面、遊ばれたらいいんですよ」
「……遊ぶ、ってなんだ?」
 戒斗は目を細めて問い返す。
 引きかえ、和久井は笑みを漏らした。
「失礼。あ・い・する、の間違いでした」
 戒斗は鼻で笑った。
「何を聞いた?」
「何も。あなたが降りられてからすぐ、八掟家に着くまで眠られていましたから。昼寝にはおかしくない時間帯ではありましたが……」
「この()に及んで、何もないほうがおかしいだろ」
 和久井が意味ありげに言葉を切ると、戒斗はため息とともにつぶやいた。
「そのとおりです」
 和久井はまだ笑みの潜む声で相づちを打った。
 戒斗は無視する。

「叶多が来たらしいな」
「ええ」
「いろいろ教えてもらったって云ってた」
「見込んでいますから」
「見込んでるって?」
「初対面の時、叶多さんは私の態度に困惑されていました。聞かれたでしょう?  正直に云わせてもらえば、あなたに見合うと思えるような人ではなかったので、困惑していたのは私のほうなんですが」
 戒斗はかすかに不愉快そうな表情を浮かべたが、黙って顎をしゃくり、さきを促した。
「あなたに会うことだけでいっぱいいっぱいかと思っていたんですが、叶多さんは行程を気にするよりも『あたしが嫌いなんですか』と仰った。それに答えたまでです。今回の件については、あなたの了承だけでいいはずが、私の意向をわざわざ伺いたてされた。いつものことながら、あなたの眼には狂いがない」
「……眼、か。それならラクなんだろうけどな……」
 戒斗は小さく漏らした。
「は?」
「こっちの話だ」
「瀬尾が叶多さんを気に入ったようですよ。お気をつけください」
「気をつける必要なんてない」
 戒斗は和久井のからかいを含んだ忠告を一蹴(いっしゅう)した。


 夕方のニュース番組がいっせいに始まってまもなく六時になろうかという頃、ドアチャイムの音が家の中に響く。
 もう少し細く切りなさいよ、と母の千里から云われるほど、ただでさえうまくいっていないキャベツの千切りをやっているときで、到着の知らせが包丁をぶれさせ、叶多は自分の指を切りそうになる。
 和久井が戒斗を会社で降ろすまで倒れそうなくらい戸惑っていた気分も、それから八掟の家に着くまで眠っていたせいか治まっていたけれど、戒斗からの連絡があったとたん、叶多の頭の中は再び料理とはまったく関係のない映像が、浮かんでは消えを繰り返している。
 さっき『二十分で着く』というメールをもらって心構えはしたつもりだけれど、つもりはやっぱりつもりらしい。鼓動が一気に駆けだした。
「叶多、戒斗さんが来たんじゃない? 早くお迎えしてきなさいよ」
「う、うん!」
 上ずった返事に千里は、おかしな子ねぇ、とつぶやいて首をひねった。

 廊下に出ると、急がなくちゃという気持ちとどうしようとためらう足がすれ違って転びそうになる。叶多はミュールに履きかえて玄関の戸を開けた。
 玄関先でドアが開くのを待っていたのは間違いなく戒斗だ。
 …………。
 叶多は立ちすくむ。
 暗躍の世界をはじめて戒斗から聞かされたときに想像したハードボイルド的な映画のシーンが現実になって、例えばそれが蘇我家から差し向けられた、銃を手にしている暗殺者(アサシン)ならともかく、ましてや戒斗が怖いわけでも苦手なわけでもないのに“蛇に蛙”みたいな状況だ。アニメで誇張表現される心臓のようにハートの形が何度も飛びだしている気がする。
 入って、という一言も発することができず、叶多が瞳を逸らせないでただ見入っていると、戒斗はかすかに笑みを漏らした。
「入っていいのか?」
 車の中とは逆で戒斗に釘づけになったまま、叶多はこくんとうなずいて道を空けようと少し後ずさった。
 可笑しそうに歪んだ戒斗の口もとに目が行く。

 戒斗のくちびるが昨日の夜は……や、朝も……あたしの……あ、あそ……あそ……あそ……こ……にっ……。ち、違うぅっ。思いだしちゃだめなんだってば……。でも……ああいうことって……普通なのかな……や、普通でも……戒斗って見かけによらず……なのか、ちょっと……ううん、すごく……えっち……じゃなくってぇ……だめっ。頭の中がぐちゃぐちゃになりそう……じゃなくて、もうなってるし……っ。

「叶多、顔が赤くなってる」
 からかう戒斗の手が上がって叶多の頬に触れようと近づいてくる。
 その手を目の端に捉えると今度は、妖しい手が登場する別のシーンが脳裡をよぎり、叶多の足が勝手に後ずさる。
 目をつぶってたんだから……実際のシーンて見えてたわけじゃないのに……なんで想像できるのかわかんないっ……ど、どうしよう……削除できないよ……っ。
 住み慣れた家の配置は真っ暗な中でも勘が働くのに、混乱して予測できなかった上がり口の段に(かかと)がぶつかり、叶多の躰が後ろに傾いた。
「叶多っ」
 戒斗が素早く叶多の躰を支えた。反射的に支えを求め、叶多は戒斗の背中に手を回してしがみつく。
「やっとハグした」
 戒斗の声が背中で笑っているのとは反対に叶多の躰が強張る。
「……戒斗……」
「大丈夫だ」
 戒斗の悠長な声と言葉が混乱していた叶多の中に次第に浸透していった。戒斗の腕の中でふっと叶多の躰が緩む。
「大丈夫か?」
 同じ言葉で今度は訊ねられた。
「うん」
 うなずくのと一緒に声に出して返事をすると、戒斗の腕が解かれて叶多も手を離した。
「回想するのも想像するのも勝手だけど、避けたり逃げたりしなくてもいいだろ。それとも同棲解消するか?」
 いままでおもしろがっていた口調が消えて少しだけ不機嫌な感じを受けた。
 叶多は即座に横に首を振って否定する。

「そんなこと思ってない。なんていうか……えっと……恥ずかしくて……とにかく、どうしていいかわからないの……」
 叶多の声はだんだんと小さくなっていき、最後には顔を伏せてうつむいた。頭上から小さな笑い声が降る。
 顔を上げると、いきなりくちびるをふさがれた。襲うようなキスではなく、軽くくちびるに吸いつくようなキス。叶多が顔を仰向けて目を閉じるとくちびるが離れる。応えようとしたくちびるはかすかに開いたままで、叶多がゆっくり目を開けると目の前に笑っている瞳がある。
「もっと? やめる?」
「……もっと!」
 少しためらってから答えると、戒斗の瞳が叶多に訴える。叶多は爪先立って、身をかがめた戒斗にキスを返した。
 戒斗は抱き取ることもなく、ふたりはくちびるだけで繋がっている。戒斗の舌にくちびるを舐められるとくすぐったさに叶多は笑いだした。
 戒斗はその下くちびるを柔らかく咬んで離れた。
「どうだ? いつもと変わりないだろ」
「うん」
 力が抜けて、叶多はあらためて戒斗に抱きついた。
「そろそろ行かないと、また『ごゆっくり』って云われるぞ」
「上がって」
 戒斗から離れ、今更で叶多が云うと、にやりとした笑みが返ってきた。
「お父さん、七時半くらいには帰ってくるって。挨拶はもう必要ないって云ってたよ」
「そういうわけにはいかない。おまえが云う、立場、がいろいろとあるから」
「……有吏のおじさんは?」
「こっちはいい。叶多が気にすることじゃない」
「……あたしは会いにいかなくていい?」
 叶多は不安を顕わに訊ねてみた。
「云っただろ。諸手(もろて)を挙げて賛成されることじゃないって。いま、行ったところでなんの利もない」
 真顔に戻った戒斗が安心させようと隠すより、正直に云ってくれたことでむしろ叶多は安心する。
「いまの時点で受け入れてもらえるのは八掟主宰くらいなものだ」
 ……そのお父さんも一昨日は駄々をこねたんだけど。
 少し前を行く戒斗の後ろで叶多はこっそりと笑った。

 それから叶多と千里が夕食の準備を進めている間、戒斗はそのうちに帰ってきた頼とリビングで話しこんでいた。
 頼はまるで何事もなかったように、それどころか以前より穏やかにさえ見える。
「なんだか頼、雰囲気が柔らかくなったのよね。あんたが好きって公になったことですっきりしたのかも。おかげで反抗期が終わったみたい。よかったわ。それにしてもあんたがこんなにモテるなんてねぇ」
 親にとっては衝撃的な告白も笑い飛ばしたとあって、千里は無責任、且つ失礼なことを陽気に云い放った。
 考えてみれば、戒斗が同棲を受け入れてくれたのも、半分くらいは頼の挑発のおかげかもしれない。今日は至って普通と変わらず絡んでくることもなく、あれで頼の突飛な行動が終わったのなら、すべてよし! だろう。

 哲が帰ると、戒斗は隼斗へ報告したことと、けっしてさきが円満に行くわけではないことをあらためて云い添えて許可を求めた。
 哲はにこやかに応じている。
 それを見ていた叶多がくすっと小さく笑うと、哲から鋭く警告の眼差しを向けられた。
 哲の本心を知っているだけに、叶多はこのときはじめて凛然(りんぜん)とした男としての本音と建前があるということを学んだ。
 戒斗にもこんなふうに表面に見せていることと心に秘めていることは違うこともあるのだろうか。
 余裕ある姿勢を崩さない戒斗だけに、叶多はふとそう思った。

 食事が終わると、話題に事欠かない男三人の会話中心となった。政財界の話で、叶多にはほとんど意味不明だ。
 眠くはないけれど、退屈して欠伸(あくび)をすると戒斗が可笑しそうに叶多を見た。
「帰るぞ」
「……うん」
 十時になった頃、戒斗が声をかけ、哲の見送りを断ってふたりはリビングを出た。
「叶多、これ持っていきなさい。来るっていうから昼前に買っておいたの」
 ミュールに履きかえたところで千里が呼び止め、買い物袋を差しだした。昨日の件があって、叶多は怪しむようにデパートの袋を見つめる。
「……またヘンなのじゃないよね?」
 千里がプッと吹きだす。
「あら。『ヘンなの』って何よ。あれは普通よ。ね、戒斗さん」
 普通って……お母さん、あんなのを……。
 叶多は思わず想像して眩暈(めまい)がした。
 同意を求められた戒斗は苦笑いしながらも、そうですね、と相づちを打っている。

 そうですね……?
 それって……や、だって戒斗は飽きたらって云ってたし……でも……あたし……似合うのかな…… や、いまはそんなこと考えてるときじゃない……って……戒斗……ホントは好き……?

 戒斗が叶多を見やって何を考えているか察していることにも気づかず、戸惑った頭の中に昨日もらった下着をディスプレーした。
「とにかく、これは普段着にと思って。気に入るかどうかはわからないけど」
「う、うん。ありがと」
 なんとか頭から陳列(ちんれつ)品を振り払い、叶多はとりあえず千里から受け取った。

「おれは別に着るものに拘ってるつもりはない」
「え?」
 玄関を出るなり、戒斗がおもしろがった口調で云った。
「またヘンなことを考えてる。身に覚えのないことで逃げられると面倒だから云っておくまでだ」
「面倒って……もう逃げないよ。パニックにはなるかもしれないけど」
「ふーん。自覚はあるらしい」
 戒斗はにやりと叶多を見下ろした。なんとなく策略ありげだ。
「な、何?!」
「じゃ、補足だ。おれしかいない場所なら、に限ってだけど下着に拘らないどころか、何も着てなくても全然オーケー。裸で料理ってのもいいかもな」
「……え……か……戒斗っ」
 玄関先の階段をあと一段というところで踏み外しそうになった。すかさず戒斗が叶多の腕をつかむ。
「冗談ととるかどうかは叶多に任せる」
 戒斗は叶多のパニックに追い討ちをかけた。

「戒斗っ」
「邪魔して悪いけど、叶多、忘れものだ」
 悲鳴に近い声で戒斗の名を呼んだとたん、不意打ちで頼の声が割りこんだ。
 混乱している最中、頼がどこから立ち会っていたのかということにも思い至らないまま、叶多は振り返る。
 玄関の照明は逆光で、頼が差しだした手に何があるのか判別できない。叶多は降りた階段をまた上った。
「何か忘れた?」
「いちばん大事なやつ」
 近づいて見た頼の手のひらには何もない。
「頼……」
 咎めようとした言葉はまたもやの不意打ちで途切れた。
 頼はやっぱり頼だった。簡単に“すべてよし”に行き着くわけがない。
「頼」
 戒斗は警告を顕わにして、叶多を抱きこんだ頼を(たしな)めた。
 頼は叶多を解放すると、いままでと一転した不敵な眼差しを戒斗に向ける。傍で見上げた頼の目は、戦意喪失した覚えはない、と云っている。
「忘れものお届けしました」
 頼は一方的に云うと、立ち尽くした叶多と、無に色を変えた表情の戒斗を置き去りにして家の中に消えた。
 硬直した空気は、やがて戒斗のため息で緩んだ。

「戒斗……どうしよう……」
 混迷の様相が深まった気がして、叶多は哀れっぽい声で呼びかけた。
 戒斗が階段を上がってきて叶多の傍に立つと、いつかのように戒斗が云うところの『消毒』をされた。
 すると三連荘(さんれんちゃん)のパニックも、どうにでもなれという投げやりな気持ちで肝が()わった。やっぱり戒斗のハグは心地いい。
「虫よけスプレーが必要だな」
 躰を離すと、戒斗がため息混じりにつぶやいた。
 叶多は戒斗に抱きついてもう一度ハグをやり直す。
「これでいい?」
「ああ」
 戒斗が口の端を上げる。
「それで、虫って……蚊に刺された?」
 叶多が首をかしげて訊ねると、戒斗はハッとため息と見紛うくらいに力なく笑った。

BACKNEXTDOOR