Sugarcoat-シュガーコート- #36

第5話 Surprise Call -8-


 昼間の片づけでなんとなく疲れたうえ、結局、想像力を振り払えなかった叶多は、ぬるま湯だったにもかかわらずのぼせた。特段することもなく、早めに戒斗のベッドに寝転んだ。一週間近く使われることのなかったベッドはあたりまえのように温もりは感じられない。それでも単純だけれど、ここにいるだけで戒斗を傍に感じる。
 携帯電話を片手にウトウトしかけた頃、呼びだし音が鳴った。はっと目が覚めて意識しないままに通話ボタンを押す。枕もとの時計を見ればすでに十時を回っている。ちょっとと思ううちに三十分くらい眠っていたらしい。

『叶多?』
 戒斗は通話中になってもすぐに応じなかった叶多に問いかけるように名を呼んだ。
 九州での最終ライヴを終え、いまは打ち上げをやっているのか、電話の向こうは陽気な声が飛び交っている。
「うん。成功したんだね? 楽しそうな声が聞こえる」
『ああ。福岡は航と良哉の出身地だし、知り合い呼んでどんちゃん騒ぎしてる』
「航さん、福岡なんだ。良哉さんて?」
『日高良哉。FATEに限って曲を提供してくれてる作曲家だ。今度、作曲者欄を見るといい。“RYO”っていう名前で出てる。ピアノは天才格だ。表には出ないけど、ライヴには都合つく限り、参加してくれる』
「あ、ミザロヂーにいた、もう一人のカッコいい人?」
 ミザロヂーでは唯子に紹介してもらったはずが、叶多は覚えきれていない。その単純な表現に戒斗が笑う。
『そうだ。明日は午後一くらいの飛行機でそっちに向かうけど、帰るのは事務所に寄ってからになる。遅くても七時くらいには家に帰れると思う』
「うん、待ってる。食べたいのある?」
『冷しゃぶでもいい』
「これでも料理はけっこう大丈夫なんだよ?」
 からかった戒斗に抗議してみたけれど、あまり信じていないようでまた笑っている。

『半年後は美味しい手料理のオンパレードを期待してる』
「え……っと、任しといて」
 叶多は戒斗の言葉にドキッとして詰まった。
『どうした?』
「ううん」
『またヘンなこと考えて逃げるんじゃないだろうな』
 おんなじこと云ってる。
 叶多は口を尖らせてつぶやいた。
『なんて云った? こっち、うるさいから小さい声じゃ聞こえない』
「なんでもない!」
 叶多はちょっとだけ不機嫌に一際大きな声で否定した。
『とにかく、いろんな意味で、目の前で逃げられるのはあんまり気分のいいもんじゃないってことを覚えててくれ』
 戒斗は切実に、けれどどこかおもしろがって云った。

 やり返すには何が効果的だろう。考えたらやっぱり一つしか思い浮かばない。
「逃げない。戒斗のハグ、大好きだから」
 戒斗は思惑どおりのため息を吐いた。
 少しずつ戒斗の感情の動きが読めるようになってきた。叶多はもう一つ思いつく。
『叶多……』
「戒斗のキスも大好き」
『はっ。覚えてろよ。じゃあな』
 追い討ちをかけられて力なく笑うと、戒斗は脅すように云って、叶多が返事をする間もなく電話を切った。

 いま戒斗のベッドにいると知ったらどんな反応が返ってくるのか、試してみたい気もした。
 でも、楽しみは明日に取っておこう。不安がないわけじゃないけれど、明日の今頃はきっと……。



 朝になって起きてみると、叶多は自分がどこにいるのか、把握するのに十秒くらいかかったかもしれない。理解したとたんにはっきりと目が覚めた。
 ベッドは南側の壁につけられていて、そのサイドの出窓にかかったカーテンの隙間から()が漏れている。ベッドの上に起きあがってカーテンを全開にした。朝から元気な太陽が、その熱気を地上にめいいっぱい広げている。寒いのが苦手なだけに、この熱を冬に分配してほしいところだ。
 空気の温度がピークに達するまえに買いだしはすませておこう。
 叶多は背伸びをするとベッドからおりた。

 千里が買ってくれた、光沢のある白いチェストはベッドの頭側に置いた。
 ベッドをつけた壁とは反対の浴室側に、備え付けのクローゼットがあるけれど、戒斗の許可なしに開けるのはためらわれる。許可なしにベッドに入ったのを棚に上げてそう思うのもへんな気がするけれど、戒斗がただのバンドマンではないことを考えるとやっぱり遠慮してしまう。
 ハンガーにかけないとまずいのは制服だけで、それをカーテンレールに引っ掛け、あとの持ってきたぶんはとりあえずチェストに収納している。
 四段のチェストは手頃な高さで、ハート型を刻んだグラスとガラス玉を昨日並べた。戒斗からもらったその宝物は、外の光を受けて白い天板に色を反射している。あるべき場所に収まったように輝いてみえた。
「きれい」
 いつもの習慣でストラップのクローバーにキスをして、引き出しから取りだしたピンクのTシャツと白いショートパンツに着替えた。

 昨日、夕ご飯のぶんと一緒に買っていたパンを食べると、スーパーが開く時間にはまだ早いけれど、近所の視察がてら外に出た。
 大通りから少し入りこんだ住宅街はけっこう静かだ。東に向かってアパートが並び、その先の交差点に昨日見つけたコンビニがある。道路の反対側は、小さな事務所や店が立ち並ぶなかに一軒家も紛れこんでいる。
 交差点の三つ目にさしかかって、左に折れたところに程好(ほどよ)い大きさのスーパーがあった。開店まであと三十分くらいある。それまで時間潰しに駅の場所やバス停を確認した。
 家と戒斗のアパートの位置関係は、学校を頂点に二等辺三角形になる。ここから学校までは家から通うのとほぼ同じで、電車と徒歩で四十分くらいかかりそうだ。

 乗降時間をチェックしているうちに開店の時間が過ぎていて、叶多はスーパーに向かった。中に入ると涼しくて、じっとりとした躰から、すっと汗がひく。
 一階は食料品がメインというなか、雑貨売り場も三分の一くらいを占めている。二階に上がると洋服、靴、本、おもちゃ売り場とあって、生活必需品はこのスーパーでなんでもそろいそうだ。
 一回りして一階におりると、カートを借りてカゴを乗せた。三日分のメニューを考えてリストアップしたメモを見ながら、端からぐるりと回っていく。高いのか安いのかはまったくわからないまま材料をカゴの中に入れた。
 支払をすませて二つの袋いっぱいに詰めこみ終わったとたん、はたと気づく。
 これ、歩いて持っていくんだった。
 アパートまで十五分くらいかかる。そう考えて、叶多は大きくため息を吐いた。
 カートを所定の位置に戻して荷物を取りあげようとすると、まったく予定外の携帯音が鳴った。

『叶多、今日は何時頃に行く? 和久井に行かせる――』
「戒斗、その用事?」
 叶多はほっとして戒斗をさえぎった。
『なんだ?』
「ううん。予定、だめになったのかと思った」
『昨日の電話から処理できてない。是が非でも帰ってやる』
 何を云っているのか見当をつけていた叶多は、やがて思い当たるとくすくすと笑った。
『笑い事じゃない』
「うん!」
 勢いよく返事をすると電話越しに笑みが漏れてくる。

『それで何時にする?』
「あ、それが……もう戒斗のアパートに来てるの。いま、近くのスーパーで買い物してる。いまから帰るところ」
『帰り、迷わないだろうな?』
 戒斗が呆れたように笑みの滲む声で訊ねた。
「迷わないけど荷物が重たい。たくさん買っちゃったから」
『夕食くらいで何をそんなに仕入れてるんだ?』
「だって三日ぶ……あ、あー……のね、とにかく楽しみにしてて」
 途中で自分が何を云おうとしているか気づいた叶多は焦ってごまかした。
 危ない。また余計なこと云っちゃうところだった。
『ふーん、まあいい。気をつけて帰れよ。じゃあな』

 戒斗は何かあると察したようだけれど、追及しなかった。
 云い訳しているうちにボロが出そうで、戒斗が引いてくれて叶多はほっとする。
 いま知られてしまったら、帰ってくるまでに追い返されるもっともな理由を考えられそうで、それよりは不意打ちのほうが()がある。
 帰ってくればこっちのもの。たぶん。


 スーパーからアパートに帰りつく頃には、腕の感覚がなくなるくらい棒になった感じがした。夏の熱気がそれに拍車をかけて、とにかく疲れた。
 主婦って大変なんだ。自転車あったらいいかも。貯金、幾らあったっけ……。
 そんなことを考えながら休んだあと、休憩を入れて一通り部屋を掃除したり、料理の本を眺めたりして過ごした。
 ダイニングに西日が差してきた頃から夕食の準備を始めた。気分はやっぱり奥さんだ。
 炊きこみごはんの仕度を終わって、ジャーのスイッチを入れようとしたときドアホンが鳴った。
 時計を見るとまだ六時まえだ。
 予定より早く終わったのかな。
 叶多はすぐ横の玄関に行ってドアを開けた。

「戒斗――頼っ?!」
 ドアの前にいたのは思ってもいなかった頼だ。昨日は結局、会わないままこっちに来た。
「なんだ。まだ帰ってないのか」
 頼は特に変わったこともなく、いつものように殺生(せっしょう)な云い方をした。
「え、うん、七時くらいまでには帰ってくるって」
「おまえ、戒斗さんには云ったのか?」
「え……っと、まだ」
 少し不安そうに叶多が答えると、頼は部屋の奥を覗いてまた叶多に視線を戻した。
「ふーん。ま、それはいいとして叶多、誰かを確認するまえからいきなりドアを開けるな。危ないだろ。家みたいにいつも母さんがいるわけじゃない。ここで暮らそうってんなら、そんなことくらい自覚しろよ」
 ぶっきらぼうながらも頼が心配していることはわかった。
「うん、ありがと。えっと、上がってく?」
「当然だ。ご飯、食わして。そのために来た」
 頼らしく強引に云うと、靴を脱いで()けた叶多の脇をすり抜けた。

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