Sugarcoat-シュガーコート- #35
第5話 Surprise Call -7-
和久井から了解の返事をもらって心強くなった叶多は、その日から早々と荷造りを始めた。といってもそう荷物があるわけでもなく、当面、勉強道具とこの時季の着る物、生活必需品、それに身近に置いておきたい物があればいい。
2DKではそう置く場所もないだろうに、叶多の意向も聞かず、千里は“嫁入り道具”としてチェストと本棚を勝手に手配してしまった。
家具屋から戒斗のアパートに届けられることを知ったのは、戒斗が帰ってくるのを明日に控えた今日、昼食の準備をやっているなか、たったいまだ。
「置く場所がなかったらどうしたらいいの?」
「そんな大きいものじゃないから大丈夫よ。いざというときのために助っ人もいるし」
「え?」
「和久井さんがタツオさんて方を使ってくださいって」
「え……」
屈強なタツオの姿を思いだした。怖いというイメージはこのまえの時点で払拭されているけれど、果たして和久井や瀬尾がいなくてもそうであってくれるのか。少しおっかない。
「だってほら、家具屋さんとはいえ、女の子一人で応対させるわけにはいかないでしょう。肝心なときに頼は消えちゃうんだから」
「頼は怒ってるんだよ」
「何を怒ってるの?」
「頼、あたしのことが好きなんだって」
リビングのソファにいた哲は手に持っていた湯呑みからお茶を溢し、慌てて濡れた膝をティッシュで拭き取る。
麻婆豆腐を注ぎ渡していた千里は一瞬、驚きに手を止め、そして笑いだした。
「なるほどねぇ。それで反抗期だったのね」
笑うようなことでもないけれど納得することでもなく、叶多はなんとも返事のしようがない。
「頼のことは放っておくことね。とにかく、物騒な世の中だし、護衛ついでよ。午後から迎えにくるそうだから、持っていく物は玄関口に置いておきなさい。こんなに早くお嫁に出すなんて思ってなかったわぁ……いざとなるとさみしいわね」
千里はしみじみと云ったけれど、さみしいというよりは、嫁に出す母親の役を楽しんでいる感じがする。
「嫁に出すってまだやったわけじゃない。預けるだけだ」
口を挟んだのは哲だ。その反論は叶多も千里も驚かせた。
「あら、同棲ってことは“内縁の妻”にはかわりないでしょ。私たちだってそうだったんだし……ふふ。哲さんも普通の親だったのね」
千里は哲をからかった。
「お父さん? このまえは幸運だって……」
「それはそれ、だ。うちの娘であることには変わりない。まったく、半年先だと考えていたが」
「まぁ」
千里はこっそりと笑いだした。
叶多はキッチンを回って、新聞を広げた哲に近寄った。躰をかがめると、背後から哲の肩に顔を載せて抱きついた。
たまに怒ることはあってもそれは心配させてしまったときに限ることで、哲は優しい父親だ。この背中のように、いつも温かい。
「お父さん、ごめんね。わがまま、きいてくれてありがと」
「……戒斗くんだからどんな奴かっていう心配はしてないが、大事にしてもらうんだ」
「うん」
千里だけでなく、気分は嫁にいく叶多と嫁に出す哲だった。
午後になって迎えにきたタツオは、叶多の不安もどこへやら、低姿勢で接した。低姿勢というよりは、恥ずかしがっているといったほうが合っているような気さえする。
バンの後ろに荷物を載せ、叶多は助手席に乗った。
タツオから話しかけることはなく、沈黙を避けたい叶多は生い立ちを訊きだした。たまにおかしな言葉遣いはあったものの、タツオは嫌がらずに答えてくれた。
タツオは実の両親ながらも関係がうまくいかず、家出を繰り返すなかで和久井家に住みこむようになったらしい。それが十三才のときで、いまは二十三才。あの和瀬ガードシステムの中年男性が云っていたように、成長期に十年間どっぷりと“その筋”の教育のなかで育ったということだ。
境遇を聞いて叶多のほうが落ちこむと、
「これでよかったんです。顔役も若頭も家族と同じように扱ってくれますから」
と照れくさそうにタツオは笑った。
その顔が可愛いと云ったら脅されそうだけれど、叶多の中で、人は見かけによらない、という言葉はタツオにも当てはまった。
顔役というのは一般でいう“組長”に当たり、和久井の父親のことらしい。無駄に悪事をやっているわけではなく、そこは線引きしているということだ。叶多にはその差がよくわからない。和久井家なりの拘りがあるのかもしれない。
家を出てから一時間ほどたって、ここです、とタツオは賃貸アパートの駐車場に車を止めた。叶多は車を降りて、三階建てのアパート全体を見渡した。一つのフロアに八部屋ずつあって、真ん中に階段を通してある。
「行きましょうか」
「はい」
タツオが先立って案内した部屋は、三階のいちばん端にある三〇一号室だ。持ってきた荷物を玄関先に置いて、タツオはまたほかの荷物を取りにいった。
玄関先から部屋を見渡すと、戒斗が云ったように広くはない。上がり口には左端に靴箱があって半畳もないくらい手狭だ。
不在の間、閉めきっているせいで、室内は夏のむっとする空気が充満している。とりあえず靴を脱いで部屋に上がると、エアコンを探して冷房をつけた。
それから、それぞれ部屋に入って間取りを確かめた。玄関のすぐ右側はダイニングキッチンだ。玄関先のキッチン部分だけ壁があって、あとは廊下という部分もなければ仕切りもない。その反対には玄関先からお手洗いと洗面所兼浴室とある。その奥はフローリングの部屋、そしてキッチンの向こうが畳の部屋という2DKだ。
こじんまりした部屋は散らかっていることなく、余計なものがないのは戒斗らしいと思った。
千里が用意してくれたチェストはベッドが置かれているフローリングの部屋、本棚は和室と、別々に置けば大丈夫そうだ。
部屋をチェックしているうちにタツオが戻ってきた。開けっ放しにしたドアから玄関先に荷物を置くとそれ以上に入ろうとはせず、待機している。
「タツオさん、入って――」
「いえ。部屋には余程のことがない限り入るなとお達し受けてますんで。家具屋が帰るまでここにいますんで、どうぞご自分のことを」
「でも暑いし……」
「お気持ちだけありがたく受け取ります」
タツオは一礼すると玄関を閉めた。
叶多はちょっと考え、流しの横の冷蔵庫を開けてみた。
よかった、あった。
ペットボトルのお茶を見つけると、持ちだして玄関のドアを開けた。
まるでガードマンのように、いや、まさにガードマンなのだけれど、玄関横にすっくと立っているタツオにペットボトルを差しだした。
「タツオさん、どうぞ」
「あ、すんません。お気遣いなく」
「こんなの気を遣ってることじゃないですから、どうぞ。もらってもらえないほうが気になります」
叶多がさらに差しだすと、タツオは頭を掻いて受け取った。頭を掻くのは、どうやら照れ隠しの癖らしい。
三十分くらいして家具が到着し、タツオの監視の下、二人の配達員は慄きつつ叶多が指定した場所に置くと、挨拶もそこそこにそそくさと退散した。
タツオはそれを見届けると、鍵をちゃんと閉めるように云い渡して部屋を出た。
「タツオさん、ありがとう」
帰っていく後ろ姿に向かって声をかけると、タツオは振り返った。歩きながら頭を下げたせいで、タツオは手すりにぶつかった。このヤロウ、とタツオは手すりを軽く足蹴りしている。
その姿が可笑しくて叶多が笑うと、タツオはまた頭を掻いてから一礼して階段に消えた。
その日は持ってきたものを片づけて終わった。
少し殺風景な部屋だったけれど、カラフルな小瓶たちをダイニングの西側に面した出窓枠に並べると明るくなった。
夜になって、叶多は近くのコンビニで買ってきたキノコとほうれん草とベーコンの和風パスタを独りで食べた。
はじめての独りの食事は、さみしさよりも明日のことばかり考えてドキドキする。
明日はなんて云おう。追い返したりはしないよね。それより怒らないよね。というか、なんとなく機嫌が悪そうなときがあることは別にして、戒斗が怒ったところなんて見たことないし、大丈夫。
お風呂に入ると、このまえの想像力が甦ってリアルな現実が迫ったけれど考えないことにした。
そのときはそのとき。戒斗が“一緒にお風呂”を好きかってわかんないし……でも、いつかはそうしたいな。じゃなくて、いまは考えない考えない……。
誰が見ているわけでもないのにドキドキして火照った顔を隠すように、叶多はチャポンと湯船の中に頭まで浸かった。