Sugarcoat-シュガーコート- #29
第5話 Surprise Call -1-
まな板の鯉ならぬ、アジは当然のように動く気配はない。けれど死んだ魚相手にこんなに手間取るとは思ってもいなかった。
「叶多、包丁、気をつけなさいね! あ、身を削ぎすぎなのよ! “せいご”はけっこう薄く取れるんだから。刃をもっと寝かせるの!」
おまけに隣でいちいち注文をつけてくる千里がうるさくてかなわない。
せいごというのはウロコの変形らしい。ギザギザとした殺気を剥きだしにして、下手に触るとチクチクする。お腹のヒレも油断すると抵抗するようにハリセンボン攻撃を仕掛けてくる。
腸は気持ち悪い反面、すっきり取り除くとなんとなく気分も爽快で、魚を捌くのはけっこう好きかも、なんて思った。
戒斗が、一緒に暮らそう、と云った次の日、叶多は早速、千里に弟子入りした。
料理をはじめとして、これまでほとんど家事を手伝ってこなかっただけに、当初、包丁捌きさえも叶多は小学生並みだった。
初日のカレーは、千里の、材料切って入れるだけだから、という言葉を鵜呑みにしてカレールーの箱の裏にある作り方さえ見ないまま、材料とカレールーを一度に入れて煮込んだ結果、材料が軟らかくなるまでに相当の時間を要した。
「まったく……昔の家庭科じゃ、カレーのルー作りから習ったものなのにいまの子は……」
と、叶多を放りだして買い物から帰ってきた千里が呆れたのは云うまでもない。
翌日の朝、日頃、千里がやっているように見様見真似で頑張った味噌汁はだしを入れないまま作ってしまい、病院食より薄っぺらな味だった。
「叶多、おまえさ、基礎教科どころか家庭科まで満足にできてなかったってことだよな。運動音痴だし、なんか特技あんのか? やっぱ、戒斗さんの趣味がわかんねぇ」
頼は目を潤ませた叶多に冷たい視線を投げ打ち、気を遣う素振りもない。叶多を庇った千里の叱責を無視してリビングを出ていった。
「叶多、頼の云ったことは気にする必要ないのよ。戒斗さんはきっと、そういうあんたの頼りないとこが好きなんだから」
千里のなぐさめはまったくなぐさめになっていない。
ボロ泣きに変わった叶多を見下ろすと、千里はため息を吐いて、
「手取り足取りやってあげるから」
と云ってくれた。
けれど、やっぱり料理の本をちゃんと見てやったほうがよかった、と思うこともしばしばあるほど千里は容赦ない。
煮物に至っては目分量と云い渡しされれば訊き直しさえできない。云われるとおりに目分量でやったにもかかわらず、砂糖が足りないだの醤油が多すぎるだの、散々だ。
それでも、夏休みの宿題を放りっぱなしのまま習い始めたここ一週間で、ずいぶんと上達した、と自分では思っている。
アレンジできるまでにはまだまだだけれど、味の組み合わせはわかってきたし、こうやって魚のウロコ剥ぎもなんとかできている。
最後の五匹目に取りかかる頃には、やたらと肩に力が入っているせいか、エアコンが効いていても暑く感じた。
夏もピークにさしかかったいま、巷では昨日からお盆休みのところが多い。
戒斗は変わらず出ずっぱりだけれど、ライヴに行った日に宣言してくれた約束があって、さみしさが薄らいだ気がする。
今日の昼は、その忙しい合間を縫って戒斗が家にやって来る。
昨日の夜、めずらしいことに、叶多よりも早く戒斗から電話してきてそう聞かされた。それで叶多は昼食を一緒にと思い立ったのだ。
戒斗に食べたいものを訊いてみると、焼き魚という返事だ。叶多は渋すぎる注文を意外に思いながらも、その結果がアジの塩焼きとなったわけだ。
なんとか下ごしらえをしたアジをグリルに入れた。
キッチン周りは包丁で削いだウロコが飛び散っていて、千里が台拭きで拭き取っている。叶多は千里のため息を無視にして、旬のオクラと溶き卵のとろとろスープに手をかける。薬味に大根おろし、そしてトマトときゅうりの盛り合わせを準備しているうちに焼き魚の香りが漂ってくる。いつもはちょっと臭いと感じる匂いも自分が手がけたとなると、へんな満足感があって気にならない。気分は一端の主婦だ。
あとはテーブルに並べるだけというときに、タイミングよくドアホンが鳴った。
「叶多、戒斗さんでしょ……」
「うん、あたしが行く」
対面式のキッチンをぐるりと回り、リビングから熱気にむっとする廊下に出て左方向にある玄関に向かう。ドアを開けようと手を伸ばしたところで、先にドアの向こうから開いた。
「戒斗、待ってた!」
……あれ……いつもより細い?
抱きついた背中をぺたぺたと手で触った。
……感触がなんだか違う。
と思ったとたん、頭上から信じられないとばかりに仰天した声が降ってくる。
「うわっ、放せよっ、バカ叶多!」
くっ。
頭ごなしの罵声とその背後からのおもしろがっている短い笑みという、聞き慣れた二つの声に叶多は恐る恐る顔を上げた。
げ。
「何が『げ』だよ。こっちは“げげっ”だ。早く放せっ」
両手をホールドアップした頼から叶多はパッと身を離す。
「ったく……」
頼はたったいまの出来事を拭い去るように、自分の上半身を右手で叩き、叶多の横をすり抜けて家に入っていった。
「まえはうるさいって怒っても『お姉ちゃん、抱っこして』って云ってきてたくせに」
応酬されるのが怖くて、叶多は頼の背を恨みがましく見ながら、聞こえない程度につぶやいた。
頭上から再び笑みが漏れる。
叶多が顔を上げると、今度は間違いなく戒斗が立っていた。
「ドアベルを押してすぐ、ちょうど頼が帰ってきた」
「……入って」
抱きつくタイミングを失い、叶多は口もとに笑みを浮かべてごまかした。
「ハグしなくていいのか?」
家の中に入りながら戒斗がからかう。あらためて云われると余計にやりにくい。
戒斗は笑いながら、ばつが悪そうにしている叶多を抱いた。
「魚の匂いがする」
戒斗はすぐに腕を解くと、長い髪を後ろで一つにまとめた、叶多のエプロン姿を見下ろした。
「焼き魚、頑張ってみたの」
「おまえが?」
「うん」
叶多がうなずくと、戒斗は理由を察したように口の端で笑った。
「叶多、手を貸して」
「何?」
叶多は首をかしげながら手のひらを上向けて両手を差しだした。
戒斗はその手をそれぞれつかんで少し持ちあげると身をかがめ、
「魚の匂いだ」
とあらためてつぶやき、それから叶多の両方の手のひらをぺろりと舐めた。
叶多はくすぐったい感触に小さく悲鳴をあげ、開いていた手を閉じた。
戒斗は上目遣いに叶多を見やり、にやりと笑って手を放す。
「リセット完了」
「え?」
「頼の感触、消えただろ?」
「戒斗……それって……頼は弟だよ……?」
「そうだな」
戒斗はあっさりと答え、肩をすくめた。
叶多は可笑しそうに瞳をくるりとさせ、感情を見せないながらも無言の催促に従って戒斗の腕の中に入った。
「叶多、温かいうちに早く……あら! ごめんなさい。ごゆっくり。ふふ……」
廊下に出てきた千里が声をかけたとたん、叶多はもがいて戒斗の腕から抜けだした。振り返ったときは、すでに千里はリビングに引っこんでいた。
少しも動じていない戒斗は、頬を赤くした叶多をおもしろがった眼差しで見下ろす。
「今更、慌てることないだろ。これ以上のことをすませてるって思われてるんだし」
「……戒斗、慌てることある?」
「叶多にはいつも慌てさせられてる」
不服そうに訊ねた叶多は、戒斗の返事を聞いてますます不満を募らせる。
「もしかしなくてもあたしで遊んでる」
「楽しんでる、の間違いだ。行こう。美味しそうな匂いがする。腹減った……こっちも」
最後のセリフとともに、戒斗は口を尖らせた叶多にくちづけた。すぐに放すと、応えようとした叶多の顔が反動で上向き、考える間もなく引かれるように戒斗はもう一度、顔を下ろした。
「満腹?」
「全然足りない」
渋顔での即答に叶多は笑った。戒斗は叶多の躰をくるりと回し、背中を押して先に行くよう促した。