Sugarcoat-シュガーコート- #24
第4話 extra A girl meets a boy. -latter-
何もできなかった自分が嫌になり、学校から帰ると、お母さんに友だちと約束してるからと云ってまたすぐに家を出た。適当なバスに乗って適当に降りて知らない町を歩いた。
まっすぐに進んだ道はだんだん人通りも車の通りも少なくなっていく。どれくらい歩いたのか、ちょっと先にアーチ型の橋が見えてきた。
梅雨らしく雨の多い日が続くなか、今日は三時くらいから太陽が顔を出した。じめじめした空気が少し乾いて風が心地よい。川の下流がオレンジ色に染まって太陽の跡形を残している。
橋の真ん中だろうか、外側に少しはみだして幅広くなった場所に、ぽつんと四角い大きな石があった。道路側に“あい橋”と書かかれたプレートがある。
太陽と入れ替わるようについた街灯の下、あたしはその石の陰に隠れるように、道路と反対側の歩道に寝そべった。
ふと横を向いた先の石の裏側に文字が書いてあることに気づいた。
薄暗い中、目を凝らして見るとちゃんと仮名がふってあって、あたしでも読める。
『相合傘の橋の上 逢いたい人と瞳を見つめ合い愛を語る藍の夜』
「アイがいっぱい」
思わず声に出したら可笑しくなって、独り声を上げて笑った。
天上に目を向けると、青が深くなっていく空と背中から伝わってくるしっとりとしたコンクリートの感触が地上の静けさを感じさせる。時折、車の振動が躰を揺らして静寂を邪魔したけれど、橋の下からかすかに届く水の流れる音があたしの中に浸透していき、人のいない静寂がさみしいよりも穏やかさをくれた。
「大丈夫……」
自分に云い聞かせるようにつぶやいた。
太陽の跡形もなくなって、天に向けていた視線を落として橋の外側に目をやった。先はまったく見えなかったけれど、欄干のすぐ向こうで何かが光っている。
起きあがって欄干の柵越しに覗いてみると、向こう側の出っ張りに携帯ストラップが落ちていて、その先端についた飾りが白っぽく街灯に反射していた。
手を伸ばしてみたけれど届かない。
立って欄干の高さを確かめると腋の下くらいだ。運動神経はどっちかというと鈍くさい。そのなかで飛び箱は苦手だけれど、鉄棒はけっこうできる。
出っ張りは五十センチメートルくらいある。
行けるかも。
欄干に手を置いて飛びあがった。一発で足の付け根がうまく引っかかった。あとは鉄棒の上に座るように姿勢を変えれば簡単だ。
夜であるぶん、下が見えにくくて怖さなんて不思議と感じない。自分が嫌になって、どうなってもいいという気持ちもあり、怖さを消しているのかもしれない。
躰を反しながら慎重に下りると、出っ張りは安定していても、欄干の向こうから見るより五十センチは意外に短かった。幅はあたしの背丈くらいだろうか。
かがんでストラップを取ると街灯にかざしてみた。ストラップトップは色のついた小瓶だ。街灯の色がブルーのせいで、何色なのかよくわからない。中には液体が入っている。おそらく香水瓶のミニチュアなんだろう。雨に晒されてちょっと錆付いているのか蓋は開けられず、ストラップは切れていた。
ケータイ取りだそうとしたときに切れちゃったのかな。
そう考えたとたん、携帯電話の電源をここに来る途中で切っていたことを思いだした。
ストラップを足もとに置いてジーパンのポケットから携帯電話を取りだした。電源を入れると時計の表示は八時近くになっている。
「電話……しなくちゃ……怒ってるよね……」
つぶやいたとたん、携帯電話のランプが点滅し、やたらと着信音が辺りに響いた。
驚いてビクッとした手から携帯電話が滑り落ちる。かがんでいた足もとに落ちると、拾う間もなく携帯電話が跳ねて出っ張りから飛びだした。
あっ!
思わず覗きこんだ水面は遥か下にあった。携帯電話が水の中に沈んだ音さえ聞こえたのかどうかわからない。自分が宙ぶらりんな場所にいることを今更ながらに気づいた。急に怖くなって立ちあがったものの恐々だ。しかも、出っ張りのほうが歩道よりも低い位置にあって、顔がやっと出るくらいだ。さっきのように飛びあがれるほどの筋力は持ち合わせていない。
どうしよう。
欄干にしがみついて途方にくれた。街の外れで、助けてもらおうにも人は通らず、ましてや視界に入り難い場所だ。朝までこのままかもしれない。
あたしってバカ。さきのことなんて考えられなくて。
後悔ばかりでどれくらいそうしていたのか、それは五分でもあるようで一時間でもあるような時間が流れ、静まり返ったなかにふと足音が聞こえた気がした。
欄干に伏せていた顔を上げると、確かな人影が見え、こっちに向かってくる。助けてもらえるという安堵と、誰だろうという不安があたしを襲った。
いざ人影が近づいてくると、安堵や不安を感じるより、ただ予想にもしていない知った顔であることに戸惑った。
手すりから手を外すまではしなかったけれど、思わず躰を起こして一歩下がった。
「それ以上、後ろはないぞ」
驚くでもなく慌てるでもなく、淡々と状況を述べたのは父方親族で、その本家の次男、有吏戒斗だ。袖が短めの黒いTシャツにジーパン姿で、両手はジーパンのポケットに引っかけ、重心を右に置いた姿勢で目の前に立った。
もう一度警告するようにその視線があたしの足もとに下りる。
「何やってるんだ?」
「え……っと……肝試し……」
返事に困ったすえ、素早く思いついた云い訳で答えると、冷静すぎる眼差しがつとあたしから逸れた。
「それで?」
また戻った眼差しは変わらず冷たい。
「……それで?」
何を云っているのかわからなくて首をかしげ、同じ言葉を返した。
「説明するべきことがあるだろ?」
…………。
率直すぎる云い分に言葉に詰まり、今度目を逸らしたのはあたしだった。
「云うまでもなく、おれは口が堅い。家出する理由があるだろうし、話してラクになることだってあるらしい。まったく状況がわかっていないおれのほうが話しやすいってこともあるんじゃないか?」
整然と述べる戒斗とは、親族の集まりで年に数回だけ会うけれど、これまでまともな会話をした覚えがない。
普通の感覚でさえ十八と十二では精神的に格段の差があるうえに、戒斗は云い方も態度も、十八という年齢よりは遥かに大人びている。
落ち着き払ったというよりは冷たく、けれど心地よい低い音を出す声が、いま自分に向けられていることを不思議に感じた。
「家出じゃない」
「携帯が通じなかった。家出じゃないならなんで繋がらない?」
「ちょっと独りで考えたかっただけで……連絡しようと思ったら、いきなり電話が鳴って……それでケータイを落っことしちゃったの」
そう云って片方の手だけ恐る恐る手すりから放し、胸もとで下を指差すと、戒斗がそれを追う。
「それで?」
下に視線を置いた戒斗は冷めた声のまま、再び同じ言葉で質問を繰り返し、そしてその瞳はゆっくりとあたしの瞳まで這いあがってきた。
すぐには答えられず、迷いながらしばらく黙った。
あたしの瞳を逸らすことなくまっすぐに見下ろしている瞳は、やさしくもなく、心配の陰も見えないのになぜか気を許してもいい気分になった。
冷たいのに変わりはないけれど、怖いと思っていた印象が消えた。
あたしがぽつりぽつりと支離滅裂に話しだしたことを、戒斗は口を挟むこともなく聞いている。正確に云うなら、あまりに無表情で聞いているのかどうかはわからない。
けれど、話すことであたしの張り詰めていた気持ちはだんだんと緩んでいく。
「里佳がなんでもしちゃって、あたしは何もできない。あたしはそう云ったよ。でも不満じゃない。大事な意味が抜けてる。あたしは里佳のために何もできないって、そう云ったつもりだった……
里佳がゲームを始めて……止められなくて……だから里佳もそうされたらやめようと思ってくれるかもしれない。そう思った。あたしは里佳が好きだから……だからやめてほしかった……!」
あの日、里佳にさえぎられ、最後まで伝えられなかったという後悔はずっとなくならないだろう。
云い尽くしたあと、しばらくしてから戒斗の手が伸びてきて、あたしの涙を乱暴に拭った。
「わかった」
なぐさめるどころか、感情のないたった一言。
それはかえってあたしの想いが認められたような気がした。
なぜか、がわかった。
無意味な言葉で期待させることはない。そのかわりに、そのままを受け止める信頼という価値がそこにある。
「帰るぞ」
有無を云わせない口調で告げ、戒斗の手があたしの腋の下に入る。それでも手すりから手を離そうとしないあたしを、戒斗が目を細めて見下ろした。
「どうした、まだここにいるつもりか?」
あたしはふるふると首を横に振った。
「……怖くて手が離せない」
「……どうやってそっちに行けたんだ? というよりなんでそっちにいる?」
そう問われてはじめてこの状況がとても滑稽なことに気づき、あたしの顔が熱くなる。
夜でよかった。
一瞬そう思ったけれど、もともと気取るような品格もない。
おまけに理由を知られたらもっと評価は下がりそうだ。けれどほかの云い訳も思いつかない。
「ストラップ見つけてなんとなく……鉄棒、嫌いじゃないし。でもケータイ落ちてくの見たら……」
「ストラップ?」
そう訊ねながら、あたしの足もとを見てそれを見つけだしたらしく、しばらく戒斗はそこに目を留めたままでいた。
「おれがつかまえてるからこっち来い。信用できないか?」
あたしはそんなことはないと云うかわりに、またふるふると首を振った。
戒斗が引きあげようと身をかがめたと同時に、あたしは手すりを放すなり素早くその首に手を回した。怖いとは思う間もなく、安定した腕に軽々と抱きあげられる。
しがみついたあたしを歩道にすくい上げると、その腕から苦しいくらいに強く締めつけられた。
こんなふうに抱きしめられたのは、ずっと小さい頃、ふざけて好き好きしてくれた両親の腕以来だ。
すぐに離れた腕の、母とも父とも違う感触は、なんだかまた不思議な感覚を生んで戸惑った。
あたしの手を少しきつくつかんで、戒斗はもと来た方向へと向かった。
空いた手で電話をかけている。会話を聞かなくてもあたしの家だと見当はついた。
橋の手前に止めていた大型のバイクのところまで来ると、ヘルメットを渡された。
「バイク、はじめてか?」
「うん」
「ゆっくり行くから怖がるな。カーブのときは倒れると思うかもしれないけど、逆らわないでおれがしてるとおりに躰を倒すんだ。そうしないとほんとに倒れる。わかったか?」
「うん」
後ろに乗せられ、前に乗った戒斗に手を回して躰を委ねた。
一時間くらいかけて帰り着いたときには少しお尻が痛かったけれど、それを打ち消すくらい戒斗の背中は居心地がよかった。
予め連絡を受け、バイクの音を聞きつけて迎えにでてきた両親の顔は、怒っているようで泣いているようで複雑な表情だ。
「大丈夫ですよ。そうだろ?」
誰よりも先に口を開いた戒斗は両親に向けて云ったあと、二言目は戒斗の陰に隠れるようにしていたあたしに向けられた。
こっくりとうなずくと、ひたすら感謝の言葉を口にする両親に淡々と応じ、
「じゃあな」
と一言、あたしに声をかけて戒斗は帰った。
そのあと、両親から問い詰められることもなく、それはほっとした。
打ち明けたところで、両親はいろんなことでショックを受けるだろうし、たぶん口を出さずにはいられなくなる。心配してのことでも、それは得てして余計なことだ。
今更。誰にとっても。
後悔したことは自分で乗り越えないと。
そう思った。
次の日、学校へ行くのはやっぱり苦痛に感じた。
もう来ることのない、会うことのない里佳のことを思うと、あたしはほんとに独りになった気がした。
校門に入るまで、何度も引き返そうかと迷い、足が止まる。
けれど。
『わかった』
その言葉があたしの気持ちを共有してくれている。
独りじゃない。
いつか里佳に会うことがあるのなら。
大好きだよ。
すぐには無理だけれど、拒絶されてもそう云えるくらいにあたしは強くなりたい。
そう決心した。
うつむいていた顔を上げ、あたしは学校の門を潜った。
夏の初め、ほんのわずかな時間のなか、ずっと知っていた戒斗は、はじめて会った人のようで、そしてあたしの心の中でいちばん身近な大切な存在になったんだった。
* The story will be continued in ‘A boy meets a girl.’. *