Sugarcoat-シュガーコート- #15
第4話 Be Cross -1-
腕にしていた温もりを手離しながら起きあがると、ベッドが少し揺れた。戒斗は横を向いた頬に触れ、叶多の顔にかかった髪をすっと後ろに流した。
「叶多」
「……ん」
「起きる時間だ。飛行機に乗り遅れる」
「……ん」
左の肘をついて見下ろした叶多は生返事だけで起きる気配がない。
それなら……。
寝つきが悪かったぶん、戒斗の中に悪戯心が湧く。
顔を下ろし、合わせたくちびるを押しつけるようにして叶多の顔を仰向けた。
「ん」
同じ『ん』でも、さっきまでのイントネーションとは違った。
くちびるを離すと、すぐ真下で叶多が目を開く。混乱した瞳が近すぎる位置に戒斗を認めると、くちびるが音を立てないまま、戒斗、と形作った。
少し尖らせたくちびるを戒斗は再びふさぐ。触れているというよりは襲った。
ぅ……っ。
苦しそうに呻いた叶多は手を上げて、押し退けようと戒斗の肩をつかんだ。戒斗はくちびるを合わせたまま、片方ずつつかんで、叶多の肩脇にそれぞれ押さえつけた。
叶多の右半身にのしかかって動けなくすると、戒斗はキスを柔らかい熱に変えた。縛る必要もないほど繋いだ手が緩み、叶多は無条件で戒斗を奥に受け入れる。
止まないキスのなか、叶多が息を呑むたびに戒斗を絡めとる。びっくりさせるだけだったつもりが引き返すのが難しいほど深くなっていく。
う……っ。
今度は戒斗が呻いてくちびるを離した。
荒い息遣いが互いのくちびるにかかる。
叶多がゆっくりと目を開けると熱を出しているように潤んだ瞳が目に入り、戒斗は再び小さく呻いて身を離した。
「……戒斗……」
戒斗は起きあがってベッドから足を下ろし、斜め向いて叶多を見下ろした。その額に手を置くと、叶多が両手で戒斗の手をつかむ。
自分の反応に困惑し、その感情自体を持て余した戒斗はため息を吐くように笑った。
「……目、覚めただろ」
「……ずっと一緒にいたいよ」
戒斗は片方の口端を上げ、笑みを浮かべただけで答えなかった。
「もうゆっくりしてる時間はない。起きるんだ」
叶多の手の中から額に置いた手を引き抜くと、戒斗は立ちあがった。
*
戒斗が浴室へ行くと、叶多はそっとため息を吐いた。
無理な要求だとは嫌というほどわかっている。それでもつい出てしまった希み。また戒斗を困らせた気がした。
それからバタバタと着替えたりして帰る準備をすると、ホテルが用意してくれた朝食用のサンドイッチを持って函館空港へと急いだ。
飛行機の中では、叶多が北海道まで来たときに経験したとおり、甲斐甲斐しく乗務員がつく。その伺いたてが三度に及び、周囲の視線がうるさくなり始めると、
「もういい」
と戒斗は一言通告した。それ以降に乗務員が寄ってくることはなくなった。
機内では、いつものように叶多がほぼ独擅場で喋った。それでなくても戒斗が公私ともに素性を明らかにするわけにはいかず、人が聞き耳を立てていそうな場所では必然的にそうなる。
「叶多、ユナちゃんてさ、青南の中等部に入ってすぐ友だちになったって報告してくれた子だよな?」
不意に戒斗があらためて訊ねた。
「うん、そうだよ」
「そうか……青南、行ってよかったな」
「そ。よかった! 頼はあたしの頭でよく編入できたなって云うんだよ」
「おれが家庭教師やったんだ。落としてたまるか」
叶多が笑うと、戒斗は背もたれから躰を起こして叶多に向いた。そして約束をした日と同じように、戒斗は手を叶多の頬を一度だけ撫でてそのまま添えた。
「よかった」
二回目の『よかった』は、戒斗がずっと気にかけてくれていたことを叶多に教える。
……そうなんだ……あたしと戒斗が近づいたきっかけは、家庭教師をやってくれたなかで生まれたことじゃなくて、まだ冷たい眼差しが消えていなかったあの時にすでにあったんだ。
幼いなかで混乱していた気持ちがいま繋がった。
叶多は笑ってうなずく。
「うん。高等部にあがってからは面倒なことがあると時田くんたちが……あ、云ったと思うけどユナのカレシね……と、渡来くんが出しゃばってくれるから困ることもないし……あ、でも四人でいっつも一緒にいるから、渡来くんのカノジョって思われてて、たまにそれを否定するのに疲れちゃう」
戒斗の手が離れ、かすかにその眉間にしわが寄った。
「……ふーん」
「何?」
「いや」
そう? と問うように叶多は首をかしげながらも続ける。
「まえは二人のこと、苦手だったんだけど慣れた」
「おれが苦手だったことはない?」
叶多は困ったように戒斗を見返した。いま目の前にある瞳と苦手だった頃の瞳はまったく違っている。
「ずっとまえは……ね。近づけるような雰囲気じゃなかったから」
「そうだな。あの頃はわかってるつもりでそうじゃなかった」
戒斗は自分を嘲るようにくちびるを歪めた。
「でも……あたしを捜しだしてくれたときから苦手じゃなくなった」
苦手どころか、たぶん、叶多はあの時にはじめて『好き』ではなくて『恋』という感情を覚えたのだ。
「……一つ、心配事が解決した」
戒斗がかすかに笑ってつぶやいた。
「……ありがと。戒斗がいてくれたから……」
「それを忘れないでくれるんならそれでいい」
そう云って戒斗は叶多の震えるくちびるの端に素早くくちづける。
「戒斗!」
叶多は咎めるように小さく叫んだ。
戒斗はにやりとして、叶多の瞳から伝った雫の跡を手で拭った。
やがて北海道を発って一時間を過ぎ、戒斗が『もういい』と告げて以来はじめて寄ってきた乗務員が、まもなく羽田に到着することを知らせて立ち去った。
「あたしが『もういいです』って云っても全然、引いてくれなかったのに……」
叶多はポツリと漏らした。
「オーラが違う」
戒斗はおもしろがった眼差しで叶多を見下ろした。
十時頃、羽田に着くと、そこには当然のごとく和久井が待機していた。
「お帰りなさい」
和久井の微笑みは何か含んでいるらしい。叶多が、ただいま、と応える傍らで、瞳の表情はサングラスのせいで読み取れないけれど、戒斗はめずらしく不機嫌ともとれる歪んだ笑みを浮かべた。
和久井は叶多の家まで来ると、ふたりを降ろしたあとすぐに車を出した。
「ただいまぁ」
玄関を開けて家の中に呼びかけると、千里がすぐにリビングから出てきた。伴って頼も顔を見せ、廊下の壁に寄りかかって叶多と戒斗を見比べている。
「お帰りなさい。早かったのね。寝台車はどうだった?」
「……え……っと……」
答えに詰まって、叶多は戒斗を見上げた。
戒斗が小さく笑って助け船を出す。
「部屋、どうだったって」
「あ……ホテルみたいだったよ。お料理もちゃんとしたコース料理で……」
「いいわねぇ。電車に揺られて食事なんて、優雅で」
バカげた自分の行動を報告しないでくれていたことにほっとして、ありがとう、と云うかわりに戒斗に笑顔を向けた。
その様子をつぶさに見ていた千里は独り納得したように顔を綻ばせてうなずき、
「さあ、上がって」
とふたりを促した。
「いえ、これで失礼します。父にも顔を見せないとあとが大変なので」
「あら、そうなの。残念ねぇ。それにしても戒斗さんていつもパワフル。少しは休まなくちゃ……って余計なことね。じゃあ、叶多、見送ってきなさい」
云われるまでもなくそうするつもりの叶多は廊下に荷物を置くと、戒斗のあとについて玄関を出た。
叶多は、玄関先の短い階段を下りていく戒斗の白いTシャツの裾をつかんだ。
戒斗が一番下の階段で止まり、続いてその二段上に止まった叶多を振り向く。
ほぼ目の高さが同じになり、叶多は訴えるように戒斗の瞳に見入った。
「戒斗」
戒斗は囁いた叶多のくちびるをふさいで舐めた。
すぐに顔を離した戒斗が何か云いたげに叶多を見つめる。
誘われるようにくちびるを戒斗に寄せた。
戒斗と同じようにお返しをすると、重ねたくちびるから笑みが零れる。
くちびるの意思とはまったく逆の意思で、戒斗の手が叶多の頬を包んで引き離した。
「じゃあな」
「うん」
その時、タイミングよく和久井の車が門の前に現われて、戒斗は帰っていった。