Sugarcoat-シュガーコート- #12

第3話 Crybaby -5-


 いまだにワンパターンなロマンス小説が大好きで、自らの恋自体が山あり谷ありのロマンスを地で行った千里の思考回路は、叶多にはよくわからない。
 戒斗のことを大好きなぶん、気持ちはそれだけでいっぱいで物語の恋なんてどうだっていい。もうすぐ戒斗と会えると思うと、ほかには何もいらない気がする。
 携帯電話を閉じたところで、叶多はユナとの約束を思いだしてまた開いた。

「ユナ、いまいい?」
『待ってた! いま何してるの?』
「寝台車に乗ったところ。函館には十時近くに着くから、そこで戒斗と合流するの」
『ホントに北海道にいるんだぁ』
「うん。せっかく来たのに観光できないのが残念だけど」
『ねぇ、叶多……』
 ユナがためらうように言葉を切った。
「何?」
『あのね……知ってるとは思うけど……』
 いつもらしくなく、ユナははっきりしない。
「どうしたの?」
『だから……避妊はちゃんとするんだよ』
「……ひにん、て……」
『ヴァージンだからって妊娠しないわけじゃないんだから、気をつけないとね』
「……え?」
『え……って、叶多、経験ないよね?』
「……」
 答えきれなかった叶多を差し置いて、いったん口火を切ったユナは遠慮なく忠告しだす。
「お互いに好きなんだから、そうなってもおかしくないし。おかしくないって云うよりはそういう気持ちって、男の人は特に持ってると思うんだけど。戒斗さんは立場もあることだし、避妊はもちろん考えてるだろうけど、女の子もしっかりしておかなくちゃね」

 叶多は思わず“ロイヤル”と名のつく個室を見回した。
 考えてみれば、一晩ずっと同じ部屋に戒斗といるわけで、寝るところといえば、いま叶多が座っている座席に違いない。
 いまやっと和久井と千里が口にした『ふたり』という言葉の意味がわかった。
 ふたりでいることなんて五年前はあたりまえにあった。家庭教師は毎日のように二時間きっちりとふたりきりだった。
 けれどあの頃といまは状況が違っている。今更ながらに気づいた。

『叶多?』
 黙りこんでいる叶多に気づき、ユナが心配そうに呼びかけた。
 余計なこと云ったかな。
 電話の向こうでユナがぼそっとつぶやいた声が届く。
「ユナ……どうしよう……」
『戒斗さんに任せれば大丈夫よ。永と違って大人だし』
「え?」
『え?』
「……ユナと時田くんて……」
『ふふ』
 ここでも、ふふ、だった。
「だって……そんなこと……どうしよう!」
『あー、やっぱり考えてなかったんだ。そこまで晩熟(おくて)だとはねぇ。深く考えないでね、叶多。なるようになるんだから。健闘を祈ってるよ。明日、報告を楽しみにしてる。じゃ、永と約束があるから』

 無責任に爆弾を放ったユナは再び、ふふ、という笑い声を残して電話を切った。
『明日』という言葉が妙にリアルに響く。
 ただ会いたいという気持ちだけでここまで来たけれど、それがどういうことなのか、深いところまでは考えも及ばなかった。
 どうしよう、という言葉が溢れて、理由のはっきりしない不安に駆られていく。車窓から見える、東京のむっとする空気と違って涼しげな景色も目に入らない。
 独り悶々(もんもん)と時間を過ごすうちに日も落ちてしまう。

 ドアが不意にノックされ、叶多は飛びあがるほどびっくりした。
 応対に出ると、乗務員が食堂車への案内を申しでた。
 食べる気にはなれなかったけれど、せっかく用意されたものをゴミ箱行きにするのも忍びなく、叶多は乗務員の後をついていった。
 普段であれば美味しそうと、はしゃいでしまうくらいのフランス料理が並んでいる。
 少し気分転換になればと思ったのに、やっぱり喉を通らない。それぞれ少しずつ(つつ)いたくらいで三十分ほど粘ってから個室に戻った。

 テレビをつけても意味もなく画像が流れるだけで、不安でドキドキした気分は一向に治まらず、北斗星は途中停車駅の八雲を出発する。
 時計を見ると八時三十分。
 六時から始まったライヴは、アンコールを含めてももう終わっている時間だ。一時間後には戒斗に会える。

 でも……。

 和久井が最初に叶多へ向けた説教とあまりにも行き届きすぎる付き添いに加え、陽の現実的な言葉が迫ってきて、ユナに云われるまでそのさきに思い至らない幼稚な自分を浅ましく感じる。
 不安の理由、それは。
 あたしは“立場”に相応(ふさわ)しくない。
 混乱したすえ、気づいたときには次の駅で寝台車を降りていた。
 自分がやったことに呆然とし、叶多は暗闇に消えていく北斗星を見送る。
 風が線路沿いに吹き抜け、二つに結んだ髪がなびいた。

 叶多の愚かな行動を見透かしたかのように携帯電話が鳴り、FATEの曲がやけに大きく構内に響く。
 ベストのポケットから携帯電話を取りだしたけれど、指が迷うように震えた。

「はい……」
『叶多、いまから函館の駅に向かう――』
「戒斗、ごめん……電車……降りちゃった」

 戒斗をさえぎると、叶多はバカみたいに明るく云って電話を切った。
 同時に涙が溢れた。


「叶多!」
 名前を叫んだときはすでに電話は切れていた。
 和久井からのメールで叶多が無事に北斗星に乗ったという確認は取れていた。にもかかわらず。

 叶多を動揺させたのはなんだ?

 再び、コールしたが繋がらない。コールし続けて携帯電話の電源を切られたら連絡さえ取れなくなる。
 戒斗は小さく舌打ちして呼びだしを止めた。

「戒斗、どうした?」
 ライヴが終わり、広い楽屋は昂奮(こうふん)冷めやらぬままざわついている。
 隅のほうで電話をしていた戒斗が顔をしかめたことに気づき、(わたる)が声をかけた。
「なんでもない」
「帰るんだろ?」
「ああ。勝手やって悪い」
「めずらしいよな。おまえがFATEより優先する女ってどんな女か興味ある」
「おまえと一緒だよ」
 戒斗が云い返すと、航はふんと鼻で笑った。
「航に次いで戒斗も、となると木村さんの渋い顔がまた見えそうですね」
 日本企業の代表格である貴刀(たかとう)グループの御曹司という育ちを隠せず、ギタリストの貴刀健朗(けんろう)が丁寧な云い方で口を挟むと、戒斗は肩をすくめた。
「関係ない」
「その木村さんの気が変わらないうちに早く行けよ」
 いつもは無表情に近いヴォーカリストの伊東高弥が、ライヴのあととあって気分が(たかぶ)っているらしく、ニヤつきながら戒斗を促した。
 誰もがそうであるように普段なら戒斗も高揚しているはずが、いまの電話で一気に熱が冷め、かわりにあまり経験のない焦りが宿った。
「ああ、今回は甘えさせてもらう。じゃ、明日の午後、事務所で」
 スタッフと話している木村を捕まえ、不満げな顔も無視して断りを入れると、戒斗は会場を出て待たせていたタクシーに乗りこんだ。
 ファンもまさかタクシーで帰るとは思っていないようで、目に留まることもなくスムーズにファンが(たむろ)するなかを抜けだす。
 函館駅まで、と運転手に伝えて戒斗は携帯電話を開いた。


 すぐにかけなおしてきた戒斗からの二回目のコールを取らず、叶多はしばらく泣きながら立ち尽くした。
 やがて不審に思われると気づき、叶多はプラットホームの椅子に座った。
 握りしめていた携帯がメールの着信を知らせる。

『どうした? おれに北海道中を走り回らせるつもりじゃないなら電話してくれ』

 理由を聞いたら戒斗は呆れるのを通り越して、五年前から少しも成長していない叶多に嫌気が差すだろう。
 携帯画面の文字が滲んで見える。
 いずれにしろ、戒斗がその気になったら叶多はすぐに見つかるのかもしれない。その負担は和久井が云ったように追従する誰かにかかり、()いては戒斗の立場もおかしくなる。
 そう思い至っても、叶多はしばらくためらった。
 五分くらい迷ったすえ、コールボタンを押した。
 一回目のコール音も終わらないうちに通じる。

『何があった?』
 電話を取るなり、責めることなく、戒斗はいつもと変わらない口調で問いかけた。
「……わかんない。いろいろ考えてたら自分でもわからなくなって……」
『叶多、おまえが会いたいって云うから、おれは応えたいと思ってそうしてる。いま、それ以外に何を考える必要があって会えないってことになるんだ?』
「……あたし、五年前と大して変わらないくらい、ホントに子供だし……考えなくちゃいけないことを考えられないで……単純バカで……こんなふうに……戒斗に迷惑かけるから……」
『叶多……おれがいちばん怖れていたのが、会わない間におまえが“成長”していることだった、としたら? おれがずっとそのままでいてほしいと思っているとしたら?』
 叶多は顔を上げた。
「……戒斗?」
『いま、どこにいる? 会いたい』
 聞けるとは思わなかった率直な言葉が叶多にも素直な気持ちを復活させた。
「……森駅」
 駅名標を確認して叶多が答えると、戒斗が電話の向こうでため息を吐く。
『函館で待ってる』
「でも寝台車は――」
『それはもういい。独りで来れるよな?』
「うん」
『駅についたら電車を降りろよ。改札口まで来たらあとはおれが見つけだす』
「うん」
 少し元気になった二回目の『うん』という叶多の返事に、戒斗が電話の向こうで笑う。
 ちょうどホームに函館行きの電車が入ってくるというアナウンスが流れた。
『いまアナウンスされた電車に乗ればいい。じゃあな』

 函館に着くまでの四十分は長く感じた。
 不安もドキドキもなくなったわけではないけれど、戒斗の言葉に、戒斗を好きでよかった、とそう思った。

 改札口に切符を投入して抜けたとたんに叶多は名前を呼ばれた。立ち止まってその方向に目を向けると、少し離れた正面に戒斗が立っている。
 ジーンズに黒いTシャツで、普段はしていない、わずかに色の付いた眼鏡を掛けていても見間違えようがない。

 瞳と瞳が合うと、戒斗が右の口端を上げて笑った。
 その笑みに誘われるように近づいて目の前に止まると、戒斗の手が伸びてきて叶多を引き寄せた。
「心配した」
 その言葉に気が緩んで、叶多は持っていたスポーツバッグを落とし、人目も(はばか)らず、戒斗に躰を押しつけるように預けて泣きだした。

 叶多が落ち着くのを待って戒斗は駅構内から連れだし、駐車場へと向かった。
 メタリックシルバーの車のドアを開けて乗るように促すと、叶多は問うように首をかしげた。
「レンタカー。せっかくだから函館の夜景を見にいく。十時過ぎたら山頂まで車で登れるらしい。乗って」
 戒斗の運転は和久井と同じくらい巧みだった。
 ドライブの間、戒斗は仕事の状況を話してくれ、叶多はまたいつものようにつまらない話をした。

 山頂付近に来てハザードランプをつけると、戒斗は車を道路脇に止めた。
「すごい、きれい」
 車を降りて見下ろした夜景は光の道をつくったように目の前に広がる。空気が乾いているせいか、夏という季節を忘れそうなくらい心地よい風が吹く。
 戒斗は車を回ってきて叶多の横に来ると、後部座席のドアに寄りかかった。
「世界三大夜景の一つだからな。いちばんきれいに見えるのは太陽が沈んで二十分後くらいらしい。タクシーの運転手が云ってた」
「いまでも充分きれいだよ」
 叶多の素直な感想は戒斗を笑わせる。

「それで?」
 しばらく夜景に見入っていると、不意に戒斗が電話のときと同じように叶多を促した。
「ううん、もういい。大したことじゃないから」
「大したことじゃなくてこの結果か?」
「戒斗が云ってくれたことで全部、飛んだ」
 戒斗が息を吐くように笑うと、叶多は手を戒斗の左手に滑りこませる。叶多の右手が心持ち強く包まれた。
「叶多、あんまり会えないぶん、引っかかることがあるなら話してほしい。どんなにバカげたことでもいいから」
「……笑わない?」
「約束しない」
 叶多は繋いだ手をそのままで戒斗の躰にぶつけ、不満を示したけれど、戒斗のいままでの言葉が、少なくとも叶多に対してはおざなりではなく、むしろ忠実であることに気づいた。

「……ユナに……避妊しろって云われて……あたし……戒斗とそうなるって考えてなくて……だから……」
 どう云えばいいのか叶多は見当もつかず、結局は露骨に打ち明けた。
「パニックになったってわけだ。だから云っただろ。おれが何を考えてるかをわかったところで困るのはおまえだって」
「……考えてるの?」
 ためらいがちに訊ねた叶多を見下ろし、戒斗は小さく笑みを漏らした。
「叶多、おまえに関しては段階を踏まないといけないと思ってる。急ぐつもりなんかない。おまえが待ってたようにおれも待った。それが延びたとしてもそれは覚悟のうちだ。それに……」
 戒斗は云いかけて言葉を切った。
 その表情は暗いなかで判別できない。
「何?」
「いや……それから?」
 戒斗は答えずにさきを促した。
「……それから……そういうのがわからないくらい自覚足りないって思って、それって戒斗の立場を考えたら負担かけるって気づいて……こっちに来る間、ずっと付き添ってくれる人がいたんだけど、自分がすごく子供みたいで……戒斗の周りには大人な女の人がいっぱいいるし……」
 支離滅裂に言葉を並べていくと、戒斗は案の定、笑いだした。
「戒斗?!」
「誰に何を吹きこまれたのか、見当がつかなくもないけど、気にするほどのことじゃないだろ?」
「酷い。戒斗はなんでもできちゃうし、いろんなことを知ってるから不安とか迷いとかわからないんだよね! そうやって全部わかってるみたいに一言で片づけて。でもあたしのこと、一つ間違ってる。頭の中は小学生並みでもそれなりに考えられるし、あたしは自分のことさえ何もできない赤ちゃんじゃない」
 戒斗の手から自分の手を引き抜いて叶多はそっぽを向いた。
「叶多」
 戒斗が呼びかけても叶多はそっぽを向いたまま答えない。
「悪かった。泣くな」
「泣いてない」
「至れり尽くせりにしてかえって傷つけたのなら謝る。おまえが何もできないと思って手を回したわけじゃない。ただ、確実に会いたかっただけだ」
 叶多は振り向いて戒斗を見上げる。
「ホントに?」
 ハザードランプの点滅が叶多の目もとをきらりと光らせた。
「やっぱ、泣いてる」

 戒斗はそう云うと、寄りかかっていた車から躰を起こして叶多と向きあった。
 叶多の頬を両手ですくって支えると、戒斗は顔を近づけた。
 何を考える間もなく思わず閉じた目の端に戒斗のくちびるが触れる。同じように反対の目にも。
「海の味がする」
「戒斗……」
 顔を引いて驚きに目を見開くと、戒斗は覗きこむように躰を折り、今度は再び目を閉じた叶多のくちびるの端にふわりとくちづけた。
「おれが怖いか?」
 少し顔を離した戒斗がつぶやいた。
「……怖くない」
 目を伏せて叶多が答えると、さっきよりは熱く、けれどやさしく戒斗が触れた。

「また泣いてる」
「だって……」
「悲しい?」
「ううん、うれしい」
 ほんの傍で戒斗の瞳が可笑しそうに(きら)めく。
 恥ずかしいと思うより、息がかかるほど近くにある戒斗の端整な顔立ちに見惚(みと)れた。

「悲しくても、怒っても、うれしくても泣く。泣き虫はずっと直らないだろうな」
「……うるさいよね?」
「そそられる」
「……戒斗?」
 にやりと笑った戒斗は叶多のくちびるを()めた。
「もっと!」
 叶多は思わず口を突いて出た自分の言葉に気づいた。暗闇でそこまで見えるはずもないのに赤くなった顔を隠そうと、戒斗の腕に(うず)めた。

「おまえの素直さ、失くしてほしくないと思ってるけど、たまに収拾がつかなくなりそうなときがある」
 叶多を視界から消すように抱くと、戒斗は大きくため息を吐いた。

* The story will be continued in ‘innocence’. *

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