Sugarcoat-シュガーコート- #10
第3話 Crybaby -3-
五時間後に開演を控え、スタッフは途切れることなくステージや楽屋の出入りを繰り返している。その動きには準備万端であるような余裕が見えるが、いざ開演を目のまえにすると、また忙しない雰囲気が戻ってくるだろう。
マネージャーの木村とともにスタッフに呼ばれた戒斗が、演出上で曲の順番を変更したいとの相談を受けているとき、ジーパンのポケットに入っている携帯電話が鳴った。
呼びだし音は相手を限り、急ぎではないこともわかっている。
「かまいませんよ、あとでかけますから」
スタッフが出るように云ったのを制し、戒斗は話を戻した。が、コールがいつになく長い。
戒斗はポケットから取りだした携帯電話を見て、何かあったのかと眉をひそめると、木村とスタッフに断りを入れて席を立った。
通話ボタンを押して耳に当てたとたんに届いたのは、思っていた叶多の声ではなかった。
電話の向こうで繰り広げられる会話から、戒斗はある程度の状況を察した。
しかめていた顔がますます険しくなる。
結局、叶多に繋がらないまま電話は切られた。
ベッドに横になって見上げている天井の模様は、小さいミミズが這っているように見える。ずっと見入っていると落ちてきそうで気色悪い。誰の趣味かは知らないけれど、保健室に寝転がって余計に気分が悪くなるというのはどうかと思う。
もっとも、単にエスケープしている叶多と違って、具合が悪いからこそ保健室を利用するわけで、そういう人は天井に見入っているはずもなく、その模様などどうでもいいことだ。
五時間目が終わるチャイムが校内に響き、叶多はため息を吐いた。
バカみたいに泣いてしまった自分を思いだすたびに自己嫌悪に陥る。
たったあれくらいのことで。ううん、たった、ってことはないけど、人前で泣くことじゃない。戒斗があの場にいたら呆れちゃうだろうな……。
再び叶多が大きくため息をついたとき、保健室の戸の開く音がした。
叶多はいちばん奥の窓際にあるベッドを使っていて、そのカーテンがそっと開けられ、ユナの顔が覗いた。
「叶多、大丈夫?」
「うん、戻るよ。目、赤いのは引いてる?」
起きあがりながら、叶多は声を潜めて訊ねた。
「念のためにクラスの子からファンデを借りてきたけど大丈夫、引いてる」
「ごめん、不安に思ってたこと云われて……」
「叶多が謝ることないよ。あれは渡来が悪い」
「……顔、合わせづらいな……」
「普通にしてればいいんだよ。永にも頼んでるから」
「ありがと。でも自分で解決しなくちゃね」
ベッドから足を下ろしながら、少し首をかしげて叶多は云った。
「そだね。叶多、大きくなったねぇ」
ユナはふざけてしみじみと云うと、小さい子供にするように叶多の頭を撫でた。
「もう!」
ユナの手を退かしながらふくれ面で抗議したけれど、おかげで気が逸れ、ちょっとだけ叶多の気分も浮上する。
養護の先生に声をかけて保健室を出た。戸を閉めるまえに一礼して教室のほうへ向きを変えたと同時に、その先に待っている陽と永に気づいた。
「……渡来くん、さっきは――」
「悪かったよ。ふざけすぎた。泣かせるつもりじゃなかったんだ」
近づきながら声をかけた叶多をさえぎり、そう云った陽の表情は、昼休みのときのおざなりの謝罪と違って本心だと見て取れた。
「ううん。泣くほどのことじゃなかったし。でも泣いて、ちょっとすっきりした」
叶多が笑うと、陽はホッとしたように肩の力を抜く。
「叶多は泣き虫だからね」
「情緒豊かって云ってくれない?」
顔をしかめた叶多がユナに切り返すと、永が声に出して笑った。
「そう云うと聞こえはいいけど、男からすると困る……」
不意に叶多の携帯電話が鳴りだし、永は言葉を切った。
サイレントモードにし忘れていた携帯電話の呼びだし音がFATEの曲とわかると、叶多は云うまでもなく、ほかの三人もそれが誰からの電話かを察した。
『叶多、いまいいか?』
めずらしい時間帯に電話をかけてきた戒斗の声がいつになく真面目に聞こえた。
「うん、ちょうど休み時間」
『電話しただろ。どうした?』
「ううん、どうもしてないよ。いつもと同じ」
ユナたちの前であることと昼休みにあったことを気にしながらも、叶多が至って普通に答えると、戒斗はしばらく黙った。
「戒斗?」
『……叶多、こっち来ないか?』
「……え……っと、こっちって……いま北海道だったよね?」
『函館』
「……いつ?」
『いまから』
「無理だよ!」
思いも寄らない戒斗の誘いは叶多をびっくりさせる。
『明日、休みだろ? 授業を一つ休んだところでなんの問題がある?』
「でも――」
『時間、つくったんだ。ライヴが終わってすぐ、おれだけさきに寝台車で帰ることにした。航たちとは明日、事務所で合流すればすむし、その間、一緒にいられるだろ。どうする?』
叶多の顔が見る見るうちにうれしそうに緩んだ。
「うん、行く!」
後先考えないまま叶多が二つ返事で答えると、戒斗が電話の向こうで笑った。
叶多の表情を見たユナが、会えるみたいね、と永に声をかけると、永は陽に向かって何かつぶやき、陽もそれに答えていたけれど、叶多には聞こえなかった。
『いま、和久井がそっちに向かってる。詳しいことは和久井から聞いてくれ』
「それって訊かなくても決めてた――」
『問答無用。叶多、そこに渡来はいるのか?』
「え……いるけど……?」
『かわってくれ』
「どうして?」
『時間がない。かわってくれ』
戒斗は同じ言葉を繰り返した。
叶多は訳がわからないままも首をかしげて携帯電話を陽に差しだす。
「戒斗が渡来くんにかわってくれって」
陽はとうとつな申し出にもかかわらず、少しも驚かずに、むしろ当然のように叶多から携帯電話を受け取った。
叶多とともに、ユナと永のほうが驚いている。
「かわりました」
そう云ったあとに何を云われているのか、だんだんと陽の顔が不機嫌になっていく。最初の一言だけで無言のまま、陽はすぐに叶多に携帯電話を返した。
「戒斗?」
『叶多、指示どおりに動けば迷うはずはない。すれ違うってことにならないように願ってる』
叶多は戒斗が半ば本気でからかっているのがわかった。
「戒斗!」
『気をつけて来いよ。じゃあな』
笑みの見える声を残して電話は切られた。
「なんだって?」
ユナは好奇心いっぱいの声で訊ねた。
「うん、いまから戒斗のところ……北海道に行ってくる」
そう云うと、不機嫌だった陽までも呆気にとられ、疑うように三人ともが叶多を見つめた。
「いまからってどうやって?」
「わかんないけど……たぶん飛行機。じゃないと間に合わないと思うし。ライヴが終わったら寝台車で一緒に帰ってくる。とにかく、戒斗が手配してくれてるから大丈夫だよ」
心配そうに訊ねるユナに叶多がうなずいてみせたとき、六時間目のチャイムが鳴った。
まだ呆けているユナたちを促し、叶多は教室へ戻った。
ユナと別れて教室に入ると、昼休みの出来事が出回ったのか詮索好きな視線が集まる。
気づかないふりをして自分の席へ行き、バッグに教科書やらを手早く詰めた。
「渡来くん、時田くん、またね」
「ああ」
戸惑ったような永の返事を背中で聞き、一組の前を通ると、窓際の席に着いたユナが身を乗りだした。
「叶多、状況報告してよね」
「うん」
手を振ってユナと別れた。
「あいつ、寝台車って……」
「微妙なシチュエーションだよな」
廊下に出て叶多を見送りながら、つぶやいた陽のあとを永が引き継いだ。
「おまえ、人の不幸を楽しんでるだろ」
「心配、の間違いだろ?」
陽は、言葉と裏腹におもしろがっている永を睨んだ。
「戒からなんて云われたんだ?」
「云いたくないほどムカついてる」
「引くんだろ?」
「やっぱ、やめた。あの余裕を絶対にいつか剥がしてやる」