魂で愛する-MARIA-
第12話 裸足のアイ
# 94
吉村は躰を起こし、一点を除いてあたしを解放した。その一点から吉村はゆっくりと、見せつけるように腰を引いていく。いまはまだ感覚が剥きだしで少しの刺激にもふるえる。せめて声を出さないよう、あたしは下くちびるを咬んだ。
ちらりと見た吉村の男根からは、重力に従って粘液が糸を引いている。ベッドからおりて、恥ずかしげもなく吉村は一寿のほうを向いた。
「気がすむ?」
吉村の声はほの暗く、獰猛(どうもう)に狙いを定めた大鷹そのものの凶器、あるいは狂気を秘めて聞こえた。
「ええ。人と人の間でもっとも残酷なのは時間だと思いませんか」
「おまえがその時間を奪った。おれと毬亜の時間を」
吉村は怒鳴るように腹の底から声を張りあげた。いまにも一寿につかみかかりそうで、あたしは起きあがって、ベッドの傍に立つ吉村の腕を取った。
「吉村さん! 一寿はかばってくれたの! 如仁会からも首竜からも、あたしが本当に殺されるかもしれないって。一寿は守ってくれたの!」
吉村がゆっくりと振り向き、あたしを見下ろす。疑いに満ち、理解できないといった眼差しだ。
「違う」
云いたくないのに云わざるを得ない。そんな声音で否定したのは一寿だった。あたしは一寿に目を向けた。
「……違う?」
「そうやって、一月さんに会わせない理由をつくったんだ。おまえはもうおれがどんな世界に住んでいるか知っている。それならわかるだろ。丹破総長を陥れたのがだれか、調べようと思えば調べられた。おまえじゃないという証明はできたんだ。けど、おれはそうしなかった」
あたしは、母から借金のことを聞かされたときと同じくらいの衝撃を受けていた。
一寿は、あたしが吉村に会えなくて泣いていたことを知っている。それなのに。
どうして。その言葉を発するより早く――
「おれは、カズ、おまえに盗むものがあれば遠慮なく持っていけと云った。だが、毬亜は別だ。毬亜を奪っていいとはひと言も云っていない」
吉村は云い放つと同時に、部屋の入り口につかつかと歩み寄った。一寿の正面で足を止めたとたん、拳を固めた右腕が一寿を目掛けて放たれた。あたしは自分が殴られるかのようにとっさに身をすくめた。
頬に直撃する。そう思った瞬間に一寿は顔を避けながら、拳を左手で受けとめた。かわりに、一寿は右手に持ったあたしの服を放り、その拳をすくいあげて吉村の腹部に見舞った。吉村が呻く。そうしながら、再び吉村は一寿を手の甲で叩(はた)こうとする。ただし、やはり一寿のほうが対応は早かった。難なく避け、吉村の頬に拳を向ける。完全に避けきれなかった吉村の頬を拳がかすめた。こうなれば攻められる吉村のほうが不利だ。立て直すまえに一寿のほうがより早く動く。
一寿はいかにも闘い慣れていた。武道も何もわからないあたしが見ても、動きに一切無駄がない。避けるのも最小限の動きですませていれば、攻撃の構えもコンパクトだ。それらを見ながら、あたしは十六歳のときのことを思いだす。吉村から一方的にやられていた一寿はやり返さなかっただけで、本当ならいまと同じように、吉村より優勢に立てたのではないかと思った。
一寿はいま遠慮も容赦もない。まるで強いのは自分だと見せつけるように。
「やめて! だめ!」
あのときとまったく逆だった。
吉村を想い、カズに抱かれたあのときと、一寿を慕い、吉村に抱かれたいま。
あたしはベッドからおりると、ふたりの間に入って吉村の躰に抱きついた。
「毬亜、どけ」
吉村が吠える。あたしは首を横に振った。
「一月さん、そんなに毬亜が欲しいんなら、おれがそうしたみたいにどうして丹破総長からさらわなかったんです? 三年も待たせて、挙げ句の果てに毬亜は殺されかけた」
一寿は吉村と違い、息一つあがっていない。
「簡単にはいかない世界だとおまえも知ってるはずだ」
「云い訳だ」
吐き捨てるような吉村の云い分を一寿は一語で退けた。
「云い訳だと?」
「一月さん、あなたに不足してるのは忠臣を信用することだ。独りで抱えこんで、忠臣を当てにしない。おれは、一月さんに頼まれるんなら、毬亜を、この三年そうしてきたように匿(かくま)えた。その間に、一月さんなら解決できたはずだ。アツシも喜んで協力したと思いますよ。今回のことでわかるでしょう。アツシは一月さんがこんなふうに暴走するのを止めようとした。組のためじゃない。一月さんのためだ。大事なら、つらい状況から一刻でも早く救いだすべきだった。毬亜に、自分を汚いと云わせるまえに。それができない一月さんに、おれは毬亜を譲れなかった」
一寿は背を向けてドアに向かうと、途中に放っていたあたしの服を拾う。また戻ってくると、吉村から離れたあたしを顔から足の先まで眺めて、それから服を手に押しつけてきた。
あたしの目をじっと捕らえ、それから一寿は踵を返して部屋を出ていった。
あたしは置いていかれたの?
呆然として、呼びとめることもできなかった。当然といえば当然だ。情事の痕ははっきりと脚を伝っている。あたしが吉村に応えていたことも一寿はわかっている。
「カズの云うとおりだ。おれは……機会を待っていた時間のぶんだけ、ずっとおまえをつらい目に遭わせていた」
吉村が背後で苦悩を滲ませ、つぶやくように吐いた。
その吉村の言葉で、あたしはやっぱり吉村と会うべきだったんだとはっきりした。一寿がいま独りで出ていった理由もわかった気がする。絶対に置いていかれたわけではない。
「吉村さん、それはあたしも一緒。この三年、ずっと吉村さんを苦しめてた。“その時”を待ってる間、吉村さんを信じててもずっと不安で……それは信じてるとは云えないのかもしれないけど、その時を夢見させてくれたからいまも生きてるし、吉村さんに抱かれて、あたしのことを無条件に望んでくれていたことがわかる。一寿もそう。いま吉村さんが教えてくれた」
吉村はあたしの頬に手を添えたかと思うと力なく笑った。
「吉村さんにとって、あたしは本当に死んでいたほうがよかった?」
「そんなことがあってたまるか」
吉村は、ともすればあたしを睨むほど強く、否定した。
「おれにはいまカズに勝てる根拠が一つもあげられない。千重家でカズといるおまえを見た。おれはあんなふうに笑わせてやれなかった。カズに伝えろ。おれはここでおまえを守っている。そして、隙あらばおまえをさらう、と」
吉村はあたしの手から服を奪うと、かがんでショーツを穿かせた。その背中に大鷹が見える。
衝動的にあたしは躰を折って、その翼を抱きしめた。
抱きしめてほしいと願った翼は、もしかしたら抱きしめてほしいとさみしがっている。そんなことを思った。しばらく吉村は動かなかった。あたしの気のすむようにさせてくれたのか、それとも、吉村がそうしてほしがったのかはわからない。
「毬亜、愛してる」
服を着たあたしを見下ろして、あたしの涙を拭って、衝動に任せたように吉村はつぶやく。
「あたしも――」
「行け」
吉村はさえぎった。
愛してる。吉村とはもう想うことがずれている。けれど、家族のようにずっと生きていてほしいと願う人に返すのなら、その言葉しか思い浮かばなかった。
あたしはうなずいて部屋を出た。
そうして、はじめてここが丹破一家だとわかった。ぼろぼろのまま、アツシが階段の傍で待機していた。
「ありがとうございました」
あたしが独りで出てきたことですべて察したのだろうか、アツシは深々と頭を下げた。
「アツシはずっと吉村さんの傍にいてくれるよね」
「もちろん約束します」
力のこもったアツシの返事に安堵しながら、一寿が云っていたことを思いだす。
『分家こそ本家から忠心を授かっている』
だから、一寿は孤独でも本家に全力を尽くす。
一階におりていくと、藤間家を出てくるときがそうだったように、あちこちで男たちが伸びていた。
アツシに付き添われて外に出ると、一寿が車の横で待っているのが見えた。アツシにお礼を云って、あたしは駆けだした。
ちょっとの距離で息切れをしてしまう。一寿のまえに立って口を開くまで息を整えなければならなかった。その間、見上げていた一寿の眼差しは冷たくも、そして、篤(あつ)くも見えた。
「置いていくって思わなかった。手放さないって云ったのに」
「待ってるだろ」
「……うん」
「おまえは……いいのか」
一寿は躊躇したうえ、曖昧に訊ねた。あたしにしかわからない質問であり、曖昧に濁すほど一寿が苦悩しているということだ。
「選択権はあたしにあるって云ったよね。だからいま、あたしの意志でここにいる。一寿の忠臣はあたししかいないから」
一寿は可笑しそうに笑った。もしくは、うれしそうに、かもしれない。
「あたし、裸足だよ。一寿、靴を忘れてる」
「慌ててたんだろ」
一寿は他人事のように云った。
「帰るぞ。質問攻め、もしくは心配攻めを覚悟しておけ」