魂で愛する-MARIA-

第12話 裸足のアイ

# 90

「アツシ!」
 あたしはそのときアツシしか見えていなかったのだろう。一散(いっさん)に駆け寄ろうとした瞬間、左腕が取られてバランスを崩す。そうしたのがだれであるかも見分けられないままもう片方の腕も取られた。転ばなかったかわりに、背中で両腕がだれかの手によって括られる。無論、ここであたしが知っているのはアツシと艶子しかいないのだから、顔を見ても藤間一家の組員としか判別できない。

 視界のなかにアツシに歩み寄る二人の男が入った。荒っぽいやり方でアツシの上半身を起こした。血がこぼれた口から漏れる呻き声は、ほかにも痛むところがあるんじゃないかと思うほどつらそうだった。
 そして、無視できない威圧感を携えた男が二人の男を従えて入ってきた。おそらく、藤間総長だ。七十歳をとっくに越えたその顔にはいくつものしわが寄り、厳つく見せている。弛(たる)んだ頬はブルドッグのようで、ふてぶてしさを強調している。それとも、ブルドッグの性質が温順であるように、見かけがマイナスの印象を与えるだけで、吉村を見込んでいたという藤間総長は話せばわかる人なのだろうか。

 いや、それは浅はかな幻想にすぎない。あたしは急いで淡い希望を打ち消した。吉村が藤間を敵と見ている以上、信用するに値しない。
 藤間総長の後ろでドアが閉まり、たったそれだけの音にあたしはびくっとおののいた。
 艶子を振り返ると、やはり薄気味悪い微笑に合った。
「お父さま、ここに座ってて」
 藤間総長は足を擦るように歩き、艶子が立ちあがり、入れ替わって椅子にゆったりと腰をおろした。
「うまくやれるんだろうな」
 いかにも怒鳴り散らしてきたという痕跡なのか、しわがれた声が発せられ、その言葉はため息混じりに聞こえた。
「もちろんよ」
 艶子は軽く受け合い、あたしに向き直った。

「じゃあ、白状してもらおうかしら」
「……白状?」
「可能性で話したことはそのとおりでしょ?」
 あたしは目を見開いた。
「ちが……」
 否定しかけたとき、ひどい呻き声が聞こえた。そこを見ると、アツシが腕を後ろにひねりあげられている。それ以上、持ちあげられたら折れそうに感じた。
「やめて!」
 悲鳴じみた声で止めた。
「だったら本当のことを喋ってちょうだい」
 つまり、嘘を吐けということなのだ。
「アオイ! おれのことならかまう……ぐ、わぁあ――っ」
「やめてっ」
 制止は間に合わず、鈍い音は骨が折れたのか外れただけなのか、区別がつかない。アツシは気を失ったようにぐったりとうなだれる。
「やめろ」
 力なくもそのつぶやきはアツシが意識を保っていることを示す。けれど、ほっとしていいのかどうかもわからない。
「アツシ、いいから!」

 きっと助けはくる。少なくとも一寿はどうやってもここを突きとめてくれる――と思ったところで、携帯電話を持ってきていないことに気づいた。それさえあれば、一寿はいつでもあたしの居場所をつかめると云っていたのに。吉村に会うということにあたしは自分で思う以上に動揺して、気を取られていたかもしれない。
 あたしはいま昼寝をしていることになっていて、一寿はいつ仕事を終わるのかわからず、あたしがいないことにいつだれが気づくのか、見当もつかない。

「じゃあ、三年まえのこと、教えてちょうだい。夫はなぜ殺されるようなことになったのか」
 艶子は挑むように腕を組み、脅迫を込めて首をかしげた。
「あたしが……やったんです……計画したんです」
「あなたが? なぜ?」
 艶子は可能性の話でしなかったことまで追及してくる。誘導尋問されていることは確かだった。
「逃げだしたかったから。自由になりたかったから」
 その応えは簡単に見つかった。それはずっと願っていたことだった。
「アオイっ」
 振りしぼるような声は絶望じみて聞こえた。
「独りでやったんじゃないわよね?」
「食事を持ってくる男に……どうにかしてほしいと頼みました」
「だれ?」
「去年、殺された男です」
「どうやったの?」

 取引物の入ったスーツケースのことからすべて艶子自身がやったことを説明した。艶子は満足そうな面持ちで口角をいびつに上げる。

「その男は、藤間に呼ばれてるって吹聴してたみたいだけどどういうこと?」
 どう答えればいいだろう。そう思っていると――
「男は根っからの嘘吐きってわけ?」
 と、艶子がヒントを出す。
「嘘です」
「嘘?」
「あたしが疑われないように、藤間一家の名を使わせたんです」
「でも、首竜相手にあなたとあの男では頼りないわ。それに、その男が危険を冒してまであなたにただ協力したの? 何か条件があったんじゃない? それとも躰を差しだした? 使い古しの娼婦の躰だけで満足するとは思えないけど。いずれにしろ、まだ手を貸す人がいたでしょ」
 艶子は小気味よさそうに侮辱を吐いて、アツシのほうへと目を向けた。

「アツシ、あなたはアオイに手を貸したのね」
「なんのことだ」
 歯を喰いしばったすき間から喋るような口調だった。
「さっきアオイが打ち明けたことよ。丹破一家のナンバー2になるくらいだから、アツシなら手を貸して有効に事を動かせたでしょ」
「アオイじゃない。アオイが打ち明けたことは全部姐さんがやったことだ」
「そういうことなら――」
 艶子は嗤い、逆らったアツシからあたしへと目を転じる。
「――見てなさい。死人は生きてるべきじゃないわ」
 それがどういう意味かはわかりきっている。
「やめろっ」
「だれとセックスしても感じる娼婦が千重家のご令嬢ですって? どうなってるのか知らないけど、嗤わせてくれるわね。あなたは、自分の身の程を知るべき。逝ったまま逝かせてあげる。あなたにとっては最高の終わり方でしょ」

 艶子は藤間総長に付き添っていた男たちに向かい、顎を上げるというしぐさで命令を下した。
 腕を括る手が背後から背中を押す。もがいてもあたしの力ではどうにもならない。スツールのまえに連れていかれると、いつの間にか天井から金属の鎖が垂れていた。腕を解かれ、鎖の先にぶらさがった輪っかにまとめて手首を括られる。カチャリと締まった金属音が冷たく響き、死刑台に繋がれたみたいな気がした。いや、まさにそうなのだ。艶子はどうあっても――アツシが嘘の告白をしたとしても、あたしを殺すつもりだ。
 一人の男は正面に立つと下卑た笑みを見せてかがんだ。スキニーパンツに手をかけショーツごと引き下ろした。
 背後からまえに伸びてきた手は、だぶついたブラウスの合わせ目をつかみ、ボタンを外すことなく引き裂いた。キャミソールがたくしあげられ、ブラジャーのホックが外されると二つまとめて引きあげ、輪っかのところに絡ませた。
 天井の滑車が動き、輪っかが引きあげられていく。上体がスツールの上に倒され、パンツとショーツが足から引き抜かれた。

「おれがやったんだ。すべておれだ。アオイは関係ない!」
 呆然としたあたしの耳にアツシの声が飛びこんでくる。
「アツシ、違う!」
「違わない。おれが吉村総長のために独断でやったんだ」
 一瞬の静けさのあと。
「そういうことか」
 藤間総長の言葉は締め括りであるかのように響いた。

「ありがとう、アツシ」
 艶子は携帯電話をかざしながら可笑しそうに云い、満面の笑みを浮かべた。
「あとで編集させてもらうわ」
 アツシが録音を目論んでいたように艶子もまたそれを狙っていたのだ。
 アツシがここにいる以上、あたしの腕時計は少しも役に立っていない。
「やっちゃって。どうせ死んだ人間なんだから」
 艶子は平然と告げ、あたしの正面にやってきた。輪っかの引き上げが同時に止まる。背中が反れて、スツールにのった下腹部で上体を支えた恰好にさせられた。裸で胸を突きだし、それを艶子に見られるだけでゾッとするくらいの屈辱に感じた。
 艶子が手を伸ばしてきたかと思うと、親指と人差し指を丸め、バネが弾けたように指を開き、乳首を弾く。痛みに喘ぐあたしを見て、艶子が嘲笑う。
「これだけで乳首が立つんだから」
 それはただの生理的反応だと同じ女性ならわかるはずなのに、わざと指摘して男たちを煽っている。案の定、卑しい笑い声があがる。
「やめ――うっ」
 アツシが叫びかけたとたん、何をされたのかそれは呻き声に変わる。
「両親のもとに送ってあげればいいわ。そうしたいでしょ?」
 わかっていたこととはいえ、いまでも信じたくないと足掻いてしまう。一寿に聞けばわかることだとわかっていながら聞かなかった。それなのに。
 目を見開いたあたしを見て艶子はおもしろがっていた。

「一月から加奈子を奪った時点で、京蔵はあなたの父親を葬ったのよ。魚の餌にでもなってるかしら。加奈子は京蔵の子を妊娠して、わたしの財産を奪おうとした。流産させてやったわ。それでもまた妊娠て可能性はなくならないし、あなたをめちゃくちゃにしてやるって云ったら自分が身代わりになったみたい。でも、なんにもならなかったわね。京蔵はあなたに子供を産ませようってしたんだから。無理やり結婚させてそれはないと思わない? 京蔵の財産はすべてわたしへの慰謝料よ」

「だったら、もう手に入れてるだろ。アオイを放せっ」
 あまりの衝撃にまともに考えられない。そんなあたしのかわりに叫んだアツシの声が漠然と耳に届く。
 艶子は、あんたたち早くやりなさい、と男たちを嗾(けしか)けたあとアツシのほうを向いた。
「残念ね。この子が生きてると、わたしがばったり会ったように一月がいつ会うかもわからないじゃない」
 男たちの手が伸び、突きだした胸がつかまれた。脚が広げられて、膣口から指が無理やり入れられた。京蔵から監禁されていた時間を越え、もうずっと一寿しか知らない。おぞましい感覚しかなかった。

「イヤっ」
「やめろと云ってる! 吉村総長は藤間を疑っている。姐さんのものにはならない」
「だから、それはいま払拭されたわ。ここに証拠が入ってる」
「残念だな。姐さんの告白も残ってる。おれとアオイが死んだところで、藤間への疑惑は晴れない。それどころか確定した」

「どういうこと?」
 艶子の声音は明らかにこわばり――
「どういうことだ」
 すぐさま同じことを藤間総長が問うた。その険しい声に、あたしを陵辱しかけていた男たちの手も止まる。

「おれもバカじゃないってことですよ。それに、吉村総長はアオイが生きていることを知ってる。おれがいま云ったことをはったりだと思うならそう思っておけばいい」
「艶子、おまえは最後まで儂を悩ますな」
 唸るような藤間総長の声が艶子に向かった。
「お父さま! どうにかなるでしょ!?」
「吉村が知っているのなら、吉村を殺るしかない。こいつも殺れ」
 非情な声は本気でそう云っているのか。
 本気だと証明するように、蹴るような、あるいは殴るような音が聞こえた次にはアツシの呻き声があがった。

「やめて! 藤間を疑ってるのは吉村さんだけじゃない! 一寿だってわかってる。もう藤間一家は逃げられない! 一寿はどうやったってここに来るから。裏にいるくせに和久井組の力を知らないなんて――」
「なんだ!」
 叫び続けるあたしの声は、藤間総長の怒鳴り声によって唐突にさえぎられた。

 その声の残響の合間に、ドアの向こうで騒々しい雑音と、だんだんと近づいてくる足音がいくつも聞こえる。
 ドアが激しい音を立てて開かれた。

「動くな」

 叫ぶでもなく怒鳴るでもなく、ただ静かに、すべての音をつんざくように響いた。

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