魂で愛する-MARIA-

第12話 裸足のアイ

# 89

 猫に追いつめられたネズミみたいにすくんだ気分で艶子を見つめるしかできない。
 アツシと来た以上、レストランでごまかしたように惚けることはできない。
「死人に会ったのははじめてだわ。こんなことあるかしら」
 艶子は不気味なほどにっこり笑った。

 その姿を取り巻く部屋は奇妙だった。そう広くないと思うのにだだっ広いと感じる。艶子が座る背もたれつきの椅子と、その近くに置かれたスツールのほかに、部屋の空間を邪魔するものがない。スツールは腰かけるには少し高さがあるが、テーブルと云うには張り地がされていて実用的じゃない。
 なんとなく、デジャ・ヴを感じてしまう光景だった。

 あたしはすぐ後ろに立ったアツシを振り返った。
 アツシは裏切り者? それとも、吉村さんのためにあたしを騙して売った?
「吉村さんはどこ?」
 思わず訊ねてしまった。
 アツシは瞬きすらせずあたしを見下ろしている。敵地に簡単に連れこまれたあたしを嘲るでもなく無表情でいる。そんな反応のなさを、中立であると、もっと希望を云えば裏切りは見せかけだと、いいほうに解釈していいのか。

 アツシはあたしから視線を外すと艶子のほうを向いた。
「姐さん、総長のところに戻りますがかまいませんか。怪しまれたくないので。これでも精いっぱい都合をつけたんです」
 そう云いながら、アツシは腕時計をちらりと見た。
 そのしぐさに、あたしは腕時計のことを思いだした。

「いいわよ。知らせてくれてよかったわ」
「姐さんにはお世話になりましたから。アオイがあの事件現場にいて係わっている以上、前総長の死については白黒はっきりさせるべきだと思っています」
「亡くなった人にまで律儀ね」
「丹破一家には無理やり押しかけて、前総長にもお世話になりました。当然のことです」
「この子が生きてるってこと、一月には知らせてないわよね」
「知っていてこういうことをやっていたら、おれは制裁ものです。総長がアオイに執着していたことは知っていますから」

 アツシは嘘を吐いた。やっぱり裏切りは見せかけだ。ここにあたしがいることは、アツシによる、終わらせるためのセレモニープログラムの一つなんだろう。
 そうわかっていくらかほっとしたが、アツシの言葉を受けて、艶子の目はあたしへと向かってくる。睨めつける眼差しにはなんらかの意志、もしくは決心が宿って見えた。あたしに注がれているのだから、その対象はあたしに違いなく、たじろいで無意識に一歩後退した。

「執着、ね。あたしが気に入らないとわかっていてよく正直に云うわね」
 艶子はアツシに目を戻して、興じた様で首を横に振る。
「すみません」
「いいわ。そうだから信用できるってところあるし。それで、この子はどうしたらいいと思う?」
「もしも、前総長の死に手助けという意味で係わっていたとしたら、私刑は免れないと思いますが」
 心なしか、その発言の前半分がわずかに強調された気がした。
 艶子は首をかしげ、そして、声にこそ出さなかったが可笑しそうに笑った。
「そうね。じゃあ帰っていいわ。ありがとう。あとのことは気にしないでちょうだい」
「了解しました。悪かったな、アオイ。両一家のため、吉村さんと姐さんのためだ」
 一礼してアツシは部屋を出ていった。

 おそるおそるといった気分で艶子に目をやると、尖った顎が横柄な様でわずかに上向いた。
 緊張からくる息苦しさと独り残された怖さが同時に襲ってくる。無自覚に手を合わせたとき、腕時計のことをかろうじて思いだした。何気なく、もしくは、あたしが落ち着かないことは明け透けだろうからそれらしく見えるよう願いながら、右手を左の手首にずらし、スイッチを入れた。

「ここは艶子さんの家?」
「そう、藤間の家よ。丹破の家と違って住みやすいわ。古臭い和を気取った丹破家にはうんざりしてたわ。その持ち主にもね」
 艶子は鼻にしわを寄せながら、嫌悪感を丸出しにした。
「あたしはなぜここに呼ばれたんですか」
「“なぜ”? あなたが生きてるからよ。わたしがあなたを人違いするわけないじゃない。それに、あなたは自分にしるしをつけてるのよ。あいにく、それを見逃すほどのぼんやりさんじゃないわ」
「しるし?」
「足首のタトゥよ。タトゥもいまはめずらしくないけど、デザインが月だなんて偶然は、わたしには通用しない」
 莉子の言葉に乗って、タトゥは晒していることがあたりまえになっていた。リスクがあるなど考えていなかった。
 驚きに目を見開いたあたしを見て口を歪め、艶子は続けた。
「亡霊が一人いなくなったと思ったら、別の一人と合体した亡霊とまた一月を取り合いっこしなくちゃいけないなんて、どれだけうんざりしてたかわかる?」
「亡霊?」
「聞いてないのね」
 艶子は薄く笑った。

「一月には忘れられない女がいる。若いときの話よ。一月はその女と付き合っていたとき、やくざの娘だとは知らなかったみたいだけど、その女はわたしみたいに好きでもない男と結婚しなくちゃらなかった。結婚相手の組長に一月はこてんぱんにやられたらしいわ。一月は当然、裏切られたと思ってたらしいけど、その女は結婚してから自殺したのよ。無理やりの結婚だったことがわかって一月がどう感じるか、わかるでしょ、一月を知ってるなら。女は一月のなかに住みつくことに成功したってわけ。付き合っていた頃の女の歳が、丹破に来たときのあなたの歳と同じ。一月は女とあなたを重ねたんじゃないかしら。そして、あなたもまた犠牲者として一月のなかに住んでる」

 アツシがじかに吉村に聞けばいいと云ったことは、艶子が話したことで事情が呑みこめた気がする。吉村はあたしを通して、その彼女を見ていたんだろうか。

「あたしに……どうしてほしいんですか」
「そのまえに。どうやって逃げたのかしら」
「……ほんとに死ぬことになるかもしれないからって守ってくれた人がいるんです」
「隠さなくてもいいんじゃない? あなたを助けたのがカズだってことはもう見当がついてるわ。あなたは銃弾一つ受けずにあそこを抜けだせたの?」
「襲ってきた男たちはあたしを犯そうって相談してて……だからその隙に」
「カズが来たってわけ? 一月に頼まれて? ううん、そんなわけはないわよね。そうだったら、あなたが助かったって知ってるだろうし、だから一月が怒るはずないんだから」
 艶子は自分で自分に応えながら顔をしかめた。
「殺されるなんてばかな男たち。女なんてどこでだって調達できるのに」

 艶子の言葉はどこか引っかかる。まるで男たちを知っているような云い方だ。アツシ曰く首謀者だという艶子だからこその発言かもしれなかった。そして、不満が潜む言葉からあることが見えてくる。あたしがここに呼ばれた理由もきっとそれと同じだ。

「でも……あたしは逃げただけで、丹破総長が殺される手助けをしたわけではありません。カズもそうです。丹破総長を殺したのは中国人でした」
「そうね。無様な死に方よ。情事の最中に真っ裸で殺されるんだから。でも、ベストなタイミングでしょ。ざまあみろって思わない?」
「……どういうことですか」
 艶子のくちびるが薄気味悪く弧を描いた。

「わたしとあなたの共通点は、無理やり自分の女にしたあのひとが嫌いだったこと。あのひとはね、中国マフィア――首竜を使って一月を殺そうとしてた。だからそれを逆手に取ったの。あなたもブローカーとの密談を聞いたんでしょ。如仁会は首竜との係わりなんて望んでないわ。種族が違うから。あのひとは裏切り者。そのうえ、内紛を目論むなんて言語道断。制裁は当然だわ。わたしは批難されることなんて何一つしてない」
「スーツケースは艶子さんが?」
「そう。理由が必要でしょ。あの頃、藤間一家の縄張りを荒らしてくる首竜の下っ端がいたの。首竜は諍(いさか)いを起こしたいわけじゃない。お金さえ儲ければいい集団だし、個人主義だし、だから首竜のドンは藤間を怒らせるって頭痛めてたみたいね。それを許容するかわりに父は情報を提供してもらった。おかげで、取引物は下っ端にくすねさせたんだけど簡単だったわ。そして、頃合い見て首竜に情報を流したの」
「殺し合いになるとわかってて?」
「あのひとには裏切り者として失脚してもらうことでも充分だったんだけど、それも想定のうちには入ってたわ」

 艶子には三人もの男たちを死に至らしめたという後悔は見られない。無論、一寿にもないが、艶子の場合と違って必要悪だった。否、艶子にしろ、一月を守るためと考えれば必要悪かもしれない。
 そして、想定のなかにあたしが殺されることも入っている。

「じゃあ……あたしが手助けしてないってわかってるなら、呼ばれる理由はなんですか」
「いま難しいことになってるの。助けてくれたらうれしいんだけど」
「あたしが助ける?」
「そう。閉じこめられていたあなたに何かが企めるはずない。でも、一つ可能性があるのよ」
「可能性?」
「去年、丹破一家の男が一人殺されたわ。あなたがあのマンションにいる間、食事を運んでた男のなかの一人。そのとき、通じ合うことはできるわね」
「話したことなんてありません」
「だから、可能性の話をしてるのよ。もちろん、頭の悪い下っ端があんな大それたことを独りでやれるはずがない。だとしたら、もっと実力のあるだれかが首謀者としている。丹破一家は……一月は藤間一家を疑ってるわ。殺された男が、藤間に引き抜かれるってペラペラ喋ってたみたいだから。その誤解を解くのにももう一人は必要だわね」
「もう一人?」
「そう。可能性の話で、適任はだれかしら」

 艶子は挑戦的な面持ちであたしをじっと見すえた。そして、吉村に抱かれた艶子が見せたのと同じ妖艶な微笑が浮かんだ。と、そのとき背後でドアが開いた。
 振り向くと同時に、ドアから室内へと人の躰が飛ばされてきた。その姿にあたしは再び驚怖した。
 口の端から血をこぼし、顔には殴られた痕跡がくっきりと見える。それは、アツシだった。

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