魂で愛する-MARIA-

第12話 裸足のアイ

# 87

 アツシはもちろん、あたし自らに艶子のところへ赴(おもむ)けと云ったわけではなく、接触するようなことがあったら、の話だとフォローした。腕時計は、スイッチを入れれば録音だけではなく盗聴もできるらしく、危険な場合は助けられるとも云った。
 それはいいとして、できるかと訊ねられてすぐに返事ができなかったのは、あの首竜との抗争を艶子が仕掛けたと聞かされて、驚愕していたからだ。

 あの日のことを思いだしてみた。
 いつもと違うことと云えば、病院で吉村と会ったこと、ラブドールとして客の相手をさせられたこと、その二つしか思い浮かばない。
 あの日に限らずもっと時間を引き延ばせば、艶子が病院に現れたこと、だ。
 吉村だけでなく、艶子も何かが起きることだけはわかっているふうだった。
 あのとき艶子は何を云っただろう――と考えているうちに思いだした。
 京蔵がいつあのマンションに来るのか、艶子は明確に知りたがっていた。

 あの日、艶子は京蔵が来ることを知っていた。首竜の男たちがピンポイントで、あの日に、あの時間帯に限って来たこと、京蔵、もしくは客の男たちを尾行していたとするなら、あれほどためらいなく銃撃したのに侵入するまでに随分と時間がたっていること、それらは不自然といえば不自然だった。
 京蔵とその客がマンションに来たことを確認して、艶子は首竜に情報を流したのかもしれない。

 あ、と思わず声に出てしまうほど、突然、あたしは重要なことに思い至った。
 だれが持ちこんだかわからないままになっている、スモークピンクのスーツケース。
 だれかはわからなくても、いつ運びこまれたのかはある程度まで限定できる。
 あの宴の部屋が使われることはわかっていたから、朝のうちに掃除はしていた。そのときは確かになかった。京蔵でも、あの男たちも持ちこんでいない。見知らぬだれかが運びこむには、あたしが病院にいる間を狙うしかない。それが艶子だとしたら、可能性はあった。

「着いたぞ」
 ふと一寿の声が脳内に届き、あたしはぱっと目を開けた。

 外を見れば、夜の暗闇のなか、外灯に照らされてぽっかりと浮かんだ千重家が目に飛びこんでくる。眠っていたのか、ただ目をつむっていただけなのか、自分のことなのにそんな区別さえつかないのは一寿に手ひどくやられたせいだ。
 あたしからばかり始まっていたセックスが逆転したのは今年の初めだ。和久井家に帰るのは――帰る、と無意識に云ってしまうのは、いつ行っても違和感がなくすぐさま解けこめるせいだろう――週に一回か二回くらいで、そのときに、あたしから始めるのと一寿が始めるのでは終わり方が違う。
 なんの衝動に駆られたのかと思うほど、一寿から始まるときはとことん追いつめられる。逆のときは、拍子抜けするくらいあっさりと切りあがるのに。

 背もたれから躰を起こして、あたしは大きく息をついた。その傍らで、一寿が車のドアに手をかける。
「一寿」
 とっさに呼ぶと、一寿はドアを開きかけていた手を止めた。
 振り向いたあたしと助手席に向かってきた一寿の目が合う。
「なんだ」
「一年まえの丹破一家の事件。解決した?」
「如仁会系の内輪揉めで犯人は捕まってる」
「そうじゃなくて。それは千重家の銃撃と一緒でうわべの解決でしょ? ダミーじゃなくて本物の話」
 云い返すと、一寿は口を噤んだ。迷いなのか、思考回路がフル稼働中なのか、しばらく黙っていた。

「急になんだ。何を勘繰ってる」
「丹破と藤間があまりいい関係じゃないって、おじいちゃんたちから聞いてたから」
「一年まえの事件報道のときには知ってたのか」
 顔を険しくした一寿は明らかに不機嫌になった。
「一寿は教えてくれなかった。だから知ってるって云えなかったの」
「おれはあえて触れる必要はないと判断して云わなかったんだ。わざわざよけいなことを考えさせたり、不安にさせたりすることはないだろ」
 そう云い訳をされると反発できない。逆に――
「なんでいま頃そんなことを気にする?」
 と、眼差しを鋭くして追い詰めるような質問を受けた。

「……まだ外出制限あるから。蘇我は問題ないんでしょ? だから、あと出られない理由はそれに関係したことかなってしか思いつかない。艶子さんとあたしが会ったことで何か起きそう?」
「艶子には監視をつけてるし、丹破と藤間もいまは落ち着いている。万が一のことを未然に防ぐ努力をしてる。おまえをここに閉じこめてるのはそのせいだ」
 一寿はちゃんと予防線を張っていて、それにほっとする反面、あたしが艶子から聞きだす機会はない。是が非でもやれと云われているわけではないし、アツシだってあたしを見張っているのなら、あの時点で自由じゃないことは気づいていたはずだ。きっと気負うことはない。無論、危なかったり怖かったり、そんな目に遭いたくなどない。
「うん、わかった」

 車を降りると、太陽はすっかり沈んでいるのにすぐにも汗ばんでしまう。八月に入ったのだからこれがあたりまえだけれど、やはり快適な温度のなかでほぼ時間をすごしているあたしには少しきつい。
 助手席にまわってきた一寿が背中に手を当てて歩くよう促し、玄関まで付き添う。
 千重家の場合は前方に危険要素がないからだろう、一寿は隣じゃなく背後をついてくる。そうするのは第二の一族狩りのときからで、いま千重家の警備はもとに戻ったし、車に乗るのだってあたしの席は後部座席じゃなく助手席に変わった。けれど、この一寿の習慣だけは直らない。何かあれば盾になるつもりでいてくれるのは安心できるけれど、対立して一寿に危険が及ぶという、あたしにとっては最大のリスクを伴う。

「ほかには?」
「え?」
 唐突な問いかけに後ろを振り仰ぐ。その拍子に少しよろけて、一寿がすかさず腕を取った。
「ほかにおれに云えてないことはないのか」
 一寿は抜かりない。そんな質問がくるとは思わず、視線が泳ぐ。そうしたことすら怪しいと思うだろうし、あたしはいかにも考えこんでいたという様で首をかしげた。
「何を?」
「だから、何か、というのはおまえにしかわからない」
「んーっと……だったらない」
 探してみたものの見当たらない。そんなふりを装うと――
「おまえは……」
 と、一寿は云いかけて切った。迷っているように見えるのは、外灯という曖昧な照明がもたらした、あたしの勘違いだろうか。
「何?」
 促してみると一寿はじっとあたしを見つめ、それから視線を逸らしてため息をつき、また目を戻した。
「一月さんと会いたいか」

 一寿がそれをどういう意味で云っているのか、あたしにはわからなかった。
 もしかしたら一寿は知っているのかもしれない。あたしが生きていることを吉村が知っている、ということを。そして、それをまたあたしが知っている、ということを。
 答え方によっては、あたしと一寿の間を決定的にする。そんな気がした。

「会えなくなってすぐの頃は会えないと思ってきたし、いまはもうわからない」
 本当にわからなかった。自分が吉村に会いたいのか会いたくないのか。
「ずるい質問か」
 一寿は嘲った笑い方をする。あたしにではなく自分に向けているように見えた。
「ずるい?」
「後回しにしてきたツケだ。結着はつけるべきなんだろう」
 一寿にしかわからない、まるで独り言だ。
「一寿?」
「旺介氏の小言を聞かされるまえに行くぞ」
 一寿は露骨に話を逸らした。

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