魂で愛する-MARIA-

第12話 裸足のアイ

# 86

 それから三日後、ゴールデンウィークの最終日に有吏一族は決断を下した。
 一寿に連絡が入ったのは正午間際、もうすぐ昼食というときだった。
 予定されていたことではなく、明らかに緊急事態で、携帯電話とタブレットを放さず、イヤホンから絶えず情報を取りながら、千重家のあたしの部屋で独りで喋っていた。
 その後、千重家に事の次第を告げた一寿は、蘇我本家に向かう、と旺介と伶介を連れて外出した。
 蘇我本家で何があったのかは、あとから一寿が教えてくれた。

 大まかにいえば、有吏一族は暗の一族として蘇我のまえに名乗り出たこと、商社を筆頭にした蘇我グループを包囲し、有吏一族が蘇我一族最大の財源を掌握したすえ、有吏一族のほうから一歩譲り、双方で共存していく道を模索していくという合意に至ったこと、その二つだ。
 急展開で丸くおさまった背景には、有吏一族の長が四世代を越え、策略というよりは試しの場が置かれていた、ということがあった。結果、ひどく人間関係が複雑になったものの、それが和に導いたという。
 一寿から相関図を説明されても一度ではぴんとこなくて頭がこんがらがる。

 その場に立ち会った旺介と伶介は、すべてを納得したわけではないが、ひとまず最大の望み、真実を知ることにおいては叶ったわけで、千重家の報道という報復の手段は保留されている。
 少しでもおかしな動きをするのなら、迷いなく報復に出る。それは蘇我に対するものだけでなく、蘇我の謀反を許すなという有吏への警告でもあるのかもしれなかった。
 千重家もまた、保留したことで世間に対して責任を負っている。
 そうやってバランスは保たれていた。

 一寿も一つ肩の荷がおりたのだろう、気配が多少穏やかになりつつある。
 多少というのは、もしかしたらあたしの希望的観測だ。
 一寿は何も云わないけれど、おそらくは艶子のことを気にしている。
 その証拠に、蘇我のことが落ち着いてから二カ月たったいま、あたしはまだ自由に出かけられる許可がおりていない。

 黒鳶色のスーツを着た男のことは、一寿に伝える機会をすっかり逃してしまった。
 あの日から、二階の自分の部屋から眺めてみるものの、姿を見かけることはない。その日は陽が沈む頃だったし、光の加減で、黒やら緑やらの濃色がそう見えたのかもしれない。
 たった一度ということが、幻想と片づけられてもしかたがないと思うほど、記憶をあやふやにしている。

「ママ、願い事は自分で書く?」
 七夕の日の今日、近くの公園では町内の七夕イベントが行われていた。恒例らしいが、あたしはあまり出かけなかったせいか、今年、ポストに投入されていたチラシを偶然見てはじめて知った。多香子に訊ねてみると、千重アオイが十代だった頃はよく参加したという。
 行ってみたいな。そのあたしの発言は多香子を乗り気にさせた。
「書……くわ」
「うん。タケはどうする?」
 そう訊いてみると、必要ない、とタケはため息をつきそうな気配で断った。

 用意された台の上で書いている間に、多香子がゆっくりと取りかかっていくのを見守った。できることは、緩慢でもやらせるほうがいい。それがリハビリになっているかもしれず、去年に比べれば、やはりどこか反応が違う。
 恥ずかしがらずに――そうする必要はまったくないのだから――できることをやろうとする多香子を見て、なんとなくうれしくなりながらあたしは笹に結びつける順番を待った。

 七夕イベントは一端のお祭りになっている。小さなステージも設けられていて、いまは子供たち向けのクイズ中だ。はしゃぐ声が公園を明るくにぎやかにしている。いくつか並んだ屋台も大勢の人だかりができて盛況だ。
 そうして何気なく見まわした屋台のところに、見覚えのある姿を捉えた。そう広い公園ではなく、この場合、あいにくと、だろうか、視力はいい。あたしははっきりとその人物がだれかを把握した。彼はあたしを見つめたままうなずいた。来い、ということだ。
 当然、独りで、ということだろう。タケがいる以上、難しいが――。

「タケ、待っている間に人形焼き買ってきていい?」
「おれが……」
「ううん、すぐそこだし、心配なら見てて。こういうの屋台で買うのって小学校以来かも、だからいいでしょ?」
「……わかった」
「ありがと! それで、お金を貸してくれる? 持ってきてないの」
 そう云うと、渋々だった笑い方がおもしろがった様に変わる。タケはポケットに入れた財布を取りだして千円札を三枚渡してくれた。
「ありがと!」
 もう一回お礼を云うと、短冊をタケに預けてあたしは屋台を目指した。
 いつもみたいにスーツではなく、人だかりに紛れるようにして背中を向けた姿に近づくと、あたしは何気なく隣に立った。

「久しぶりだな」
「人違いとは思わないの?」
「ゾンビだって云われたほうがしっくりくるかもな。けど、おまえはゾンビじゃない」
 互いに顔を合わせることなく、まっすぐ正面を向いたまま小声で言葉を交わした。
「アツシ、あたしのこと、吉村さんも知ってるの?」
「でなければ、おれはここにいない」

 あの男の人は吉村だった可能性がぐんと伸びる。
 いつから? 何をするため?
 いざ吉村が、あたしが生きていることを知っているとわかると、何も考えられない。あたしは呆然とする。

「いまおれがここにいるのは、総長――吉村総長の命令だ。ただし、アオイを護衛するというだけで、こうやって近づくことも話すことも許されていない」
「……じゃあなんのためにいまあたしを呼んだの?」
「単刀直入に云う。もと姐さん――艶子がおまえを狙ってるかもしれない」
「……どういうこと?」
「会っただろ。三年まえと同じことだ。艶子はおまえがいちゃ困るんだ」
「困る?」
「いま艶子は、総長がおまえが生きていることを最初から知っていたと思いこんでるかもしれない。総長と一緒になれない理由をおまえのせいにして、あの抗争をネタにつるしあげる、あるいは脅迫材料にするつもりだろう。だからおまえにしてほしいことがある」
「何?」
「三年まえの事実を……艶子が首謀者だという告白を引きだしてくれ。それをこれに録音する」

 あたしは思わずアツシを振り返りそうになった。アツシがポケットを探る気配に気を逸らされて、なんとかとどまれたが。
 何を取りだすかと思えば、アツシは女性用の時計を手のひらにのせた。まだ引き受けてもいないのに、スイッチを示してやり方を説明した。

「おまえのためでもあるし、吉村総長のためでもある。できるか?」
「……わかった」

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