魂で愛する-MARIA-

第12話 裸足のアイ

# 82

 五カ月まえ、一寿が実行証明すると云ったのは、あたしが汚くないということをそうしてくれたのだと思う。
 手放すことはない、とその言葉が、心底から泣き叫びたい気持ちにさせた。悲しいんじゃない。あたしの全部が受け入れられたように感じたから。
 それに応えようとしたのに、一寿、と呼びかけたとたん、躰を離すことのなく続けざまにやりこめられた。
 一寿はそうやってわざと答えさせなかったような気もしている。聞きたくない気持ちはなんだろう。

 旺介が起きているうちに帰るどころか、結局は帰らずに、ましてや浴室を出ると一寿の部屋に連れていかれた。入るのははじめてで、そしてその日だったことがよけいに、一寿のテリトリーへと両手を広げて歓迎されたようで、あたしを心強くした。
 それから一寿は、腰が砕けそうなほど、という誘惑を行使して、躰の隅々まで一体化したように満ち足りた。それ以来、ふたりの間には、セックスという言葉では片づけられない繋がりを感じている。
 いま、疲れた姿を晒してくれる一寿も、ひと言も口にしないのにあたしに何かがあったと察せる一寿も、あたしが生き延びていく力を与えてくれていた。

「今日、会ったの。会いたくなくて、会っちゃいけない人に」
 しつこく云っているうちに一寿は眉をひそめ、正面に突っ立ったままのあたしを見上げた。
「だれに会った?」
 その表情と問いかけからすれば、あたしが話すまでという約束どおり、旺介は黙っていてくれたようだ。

 一寿は護衛という立場にいながら、けっしてイエスマンではなく、護衛のためなら雇い主にも躊躇なく進言する。
 一寿に報告することなく史伸から連れだしてもらっていたことがばれたあと、それを知っていながら黙認していた旺介と伶介を、一寿は咎めた。露骨に責めたわけではなく、闘い方を知らない史伸が犠牲になってもいいんですか、と遠回しに諭したのだ。あたしが危険な目に遭うとは云わずに史伸を持ちだすのは、いかにも一寿がしたたかなことを示している。

 確かに、一寿は銃撃戦でさえ闘い方を知っている。和久井家の離れにある道場で、忍者のごとくアクロバット的な動きを交えた武道の鍛錬風景を見たことがある。そのとき、ずっとずっとまえ、吉村にやられたのはわざとだったかもしれないと思った。あたしが助けなくても、きっと互角に張り合えている。だから受け身ができて、ダメージが軽減されたのだ。

「毬亜」
 そう呼ぶことが、深刻なことと受けとめていることを示す。
「丹破……藤間艶子さんに声をかけられたの」
 出かけるのを許可するんじゃなかった。はっきり顔をしかめ、何かを振り払うように首をひねった一寿のしぐさからそんな後悔が見えた。
「それで」
「おじいちゃんが千重家の娘だって云ってくれたから……あたしも知らないふりしたから大丈夫だと思う」
「状況を詳しく説明しろ」
 一寿は云い聞かせるようで、あたしは憶えているかぎりでそのときの会話を再現した。

 閉じこめれば、あたしがまた黙って出かけるかもしれない。そういう危険を防ぐために、たまにだけれど、一寿が外出を許可してくれているのはわかっている。そんなふうに気を遣わせていた。
 話を終わっても一寿は口を開かない。思考をフル回転させているだろうことは察するにたやすい。一族に関する一大事が起きているのに、あたしのことまで背負わせているのだ。

「一寿、ごめんなさい。あたしここに閉じこもってる。せめて蘇我のことが落ち着くまで」
 一寿はわずかにうつむき、吐息混じりの空笑いを浮かべた。
「おまえといるとひどく無力になった気にさせられる」
 弱音以外のなんでもない言葉だった。
 あたしは思わずひざまずく。
「あたしがムチャやってるだけ。一寿がいろんなこと考えてくれてるのに」
 見下ろす立場から見上げる立場にかわると、一寿の顔に照明の影が差し、深刻な様を鮮明にした。

「なぐさめはいい。すべて報いだ」
「報い?」
 思いがけない言葉に目を丸くして問い返した。自嘲気味に一寿のくちびるが歪む。
「おれはおれを優先した。冷静さを欠いてはならない。それが非情であっても、真情に反することであっても、手段を選ばず護ることに徹底する。それができていなかった」
「あたしは大丈夫。千重家には簡単に入れないし。だから一寿は一族のことに集中するべき」
 一寿は呆れたように笑う。なんの保証もないのに大丈夫と発したことのせいか、あるいは自分自身に対してか。そして、大きく息をついた。

「できるなら連れて帰りたいくらいだ。千重家はおまえのことを含めて二重にリスクを負った。和久井にいるほうが遥かにおまえは安全だ」
「でもあたしは――」
「わかってる。この家になくてはならない存在になってることはわかってる」
 一寿はどんな意味を込めているのか、二度『わかってる』を繰り返した。もしかしたら自分に云い聞かせているのかもしれなかった。
「ありがとう、一寿」
「何が」
「一寿がそんなふうに云ってくれると、役に立ってるなって実感できる」
「役に立つ? おれはそんなふうに扱ってるつもりはない」
「そんなふうに大げさに取らないで。あたしは気を遣って喋らなくちゃならない?」
 ずっと抱いてと云った日に、抱きながら一寿が云ったことをそのまま返した。すると、そうした甲斐あって、空笑いでも嘲笑でもなく、“カズ”の笑みが戻った。

「一寿、だれかのために……それが大事な人だったらなおさら、役に立ってるとうれしいんだよ」
「ああ、そのとおりだ」
 断言した一寿は、ふいにあたしの顎をすくう。顔を傾け、急速に近づいた一寿はまたくちびるが触れる寸前で止める。
「ここじゃだめ!」
「まさか雇い主の家で淫行に及ぶつもりはない。おまえは快楽に弱すぎるからな。すぐばれる」
「ちょっとひどいかも」
「どうする?」
「キスだけなら……したい」
 目を伏せると、それが合図になって、一寿の口が惑わすように開いた。

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