魂で愛する-MARIA-

第12話 裸足のアイ

# 80

「ママ、疲れてない?」
「だ……ぃじょ、ぶ。たのし……わ」
 隣に座る多香子はあたしの質問に応え、何度もうなずく素振りを見せて笑った。
「あたし、こういうとこ、いつまでたっても慣れないの。でも美味しいのだけはわかるよ」

 複合施設のなかにある高級レストランは、平日の昼間だというのにそこそこ満杯だ。いや、平日だからこそセレブが多いのか。
 あたしがお金に不自由していたのは、母が犠牲になって秘密にしていたぶん、実質二年ほどだ。それ以前は普通の暮らしをしていたし、その後は、お金はなくても軟禁状態にあるなか不自由はしていない。反面、お金を惜しげもなく使うことも知らず、こんな畏まった席は苦手だ。
 けれど、千重アオイとしてはお金持ちの振る舞いをしなければならない。ずいぶんと身についてきたとは思うけれど、史伸は喋り方がなっていないと叱る。

 例えばいまのセリフであれば――わたし、こういうところはいつまでたっても慣れないわ。でも、美味しいってことだけはわかるの――だろうか。
 大して変わらないけれど、あたしの云い方では少しがさつに聞こえるらしい。
 注意するのは史伸だけだが、ほかの本音はどうだろう。ただ、隣にいる多香子も、正面に座る旺介も眉をひそめたり嘆息したり、そんな咎めるような雰囲気はない。

「おまえのフレンチトーストは焼きたてのパンと同じくらい美味しい」
 旺介はその焼きたてのパンをちぎりながら云った。
「おじいちゃん、ありがとう」
 あたしは多香子と顔を見合わせて笑う。

 この頃になって多香子はようやく大衆の場にも出かけるようになった。躰が麻痺しているだけで、意識は事故のまえと変わりない。だから、人目が気になってしまうのだろう、春まえまでは出かけたがらなかった。
 今日は、服を見立ててほしいというのを口実に多香子を誘ってみた。ゴールデンウィークの最終日から翌日の新聞休刊日に家族みんなで別荘地に行くのだが、あたしは別荘などはじめてで、そのときに着るのはどんな服がいいのか、本当に判断がつかない。あたしが試着するのを見て、多香子は言葉どおり楽しそうにしていたし、食事もそうだ。五月になった今日、すごしやすい気候も手伝っているのだろうか、心なしか、躰の状態が改善したようにも見えた。
 無理を押したすえ、いままた若さを取り戻している多香子を見ると、本当によかったと思う。

「ママ、じゃあ次は白身のお魚ね」
 多香子のまえにあるプレートに手を伸ばし、ナイフとフォークをつかみかけると着信音が鳴りだした。毬亜の携帯電話で、ちょっと待ってね、と多香子に声をかけてバッグから取りだした。
 確かめるまでもなく一寿の設定音だ。

「もしもし」
『アオイ、大丈夫か』
「え?」
『毬亜』
「うん、大丈夫」
 もちろん、一寿が名乗る必要はないが、それにしてもせっかちだった。毬亜、と呼んで深刻さ、もしくは急用性をアピールするのは最近の常套手段になっている。
『旺介氏も伶介夫人も?』
「うん」
『タケに変わってくれ』

 それなら直接タケに電話すればよかったのに、と思いながらレストランの入り口を見渡した。待機しているタケと目が合い、あたしは手招きした。
 タケはボディガード然として、黒いスーツ姿でレストラン内に入ってきた。
 タケは厳密に云えば、和瀬ガードの従業員ではない。そうしていないのは敢えて自由が利くようにという。今日も、一寿がここまで送ってくれたのだが、そのあとはタケと交代した。迎えにまた一寿がくる。
 一寿自体、いまはだれかガードにつくよりも会社にいることのほうが多い。時間は空いているようだが、それはいつでも出動可能にするためらしい。それだけ一族になんらかの動きがあるということを示し、それが波及して、蘇我一族を警戒しての慎重な対応だろう。

 二言、三言交わしただけでタケは携帯電話を返すと、部屋を取る、と云って持ち場に戻った。
 部屋?
 そう疑問にしながら、携帯電話を再び耳に当てた。

「どうかした?」
『誘拐被害が短時間のうちに何件か発生している。和瀬の顧客だ。おれが行くまで、タケが手配する部屋から一歩も外に出るな。夫人も旺介氏も、だ。事情はあとで説明に行くと伝えてくれ』
「わかった」
『毬亜』
 あたしを毬亜と呼ぶとき、一寿はいつもひっ迫したような気配を漂わせる。
「わかってる」
『頼む』

 一方的な電話に眉をひそめたけれど、それだけの緊急事態が起こったには違いない。一件ではなく、何件か、と一寿は云った。
 旺介と多香子に状況を伝えると、少なくとも旺介はプライヴェートの時間を楽しむ気分から一気に顔つきは冷めてしまった。
「そろそろ……いや、もう動いたのは確かだな」
 つぶやくと、旺介は残りの料理に手をつける。
「ママのは、部屋に持っていけない? 急がせたくないんだけど」
 この商業施設は上階にホテルもある。レストランと連携しているかどうかはわからないけれど、一応訊ねてみた。

「ホテルであらためて注文すればい――」
 旺介が喋るさなか。
「少しお邪魔していいかしら」
 という女性の声がした。

 多香子ではなく、もちろんあたしでもない。
 そして、その声には聞き覚えがあった。
 あたしはゆっくりと顔を上げる。
 そこには変わらず華やかさを保った艶子がいた。

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