魂で愛する-MARIA-

第11話 哀執aisyu

# 73

 叶多と戒斗、崇、そして陽とにぎやかにしているなかに孔明は向かっていく。
 正確に云えば、にぎやかにしているのは崇で、叶多は困惑、戒斗と陽は張り合っている。工房に集まる男たちは、だれもが叶多が好きみたいだ。戒斗はそれを知っていて、不機嫌さを漂わせているのが常だ。
 無条件で愛されて、そんな愛する人が傍にいる。それは叶多が恥じることなくきれいだから叶うことなんだろう。
 何が違ってあたしはここにいるんだろう。一寿のためだったら何でもする。それは嘘ではないのに、いまそんな迷いが生じている。

「戒、ちょっと相談があるんだが」
 孔明が叶多たちに加わると、貴仁が彼らのもとに行くのに伴ってあたしもそうした。
「なんだ」
「ああ……その……父上がせっかくいらっしゃることだ。有吏リミテッドカンパニーで研修させてもらえないかと思っている。それで、できれば戒に口添えを頼みたい」

 孔明がめったになくためらいがちに口にしたとたん、じわじわと地を這いながら侵略されるような沈黙が工房内にはびこった。
 いまここで事情を知っている人がどれくらいいるのか。違う、事情を知らないのは蘇我本家の兄妹ふたりのみかもしれなかった。だからこそ、沈黙は奇妙に空気を侵している。

「どういうことだ?」
 怪訝そうに問い返す戒斗には早くも拒絶する雰囲気が窺えた。
「いや、蘇我を継ぐかどうかは別の話で、本気で仕事がしたいということだ。その点、有吏リミテッドカンパニーなら経営に関してはプロ中のプロだし、とにかく即戦力を身につけたいと思っている。報酬に関しては要求するつもりはない。あくまで研修ということで、勉強させてもらえば充分だ」
「コンサルティングは企業秘密を知ることになる。簡単に考えてもらうのは心外だ。継ぐ継がないは関係ない。蘇我は複合企業で、ほとんどの企業と利害が絡む。その後継者となる可能性が一パーセントでもあるという以上、おまえを雇うのは会社にとってリスクになる」
「軽く考えているわけじゃない。無理を承知のうえで頼んでいる。純粋に経済についての基礎を実践で学びたい。それには父上の会社ほど最適な場は思いつかない。秘密保持は命に替えても厳守する」

 孔明の自立心は意外に固かったようだ。戒斗はかすかに首を振ってお手上げといったため息を吐いた。
「考えてみよう」
 当然、無理な依頼事だ。そう思っていたのに、戒斗にかわって応じたのは隼斗だった。
「ありがとうございます。いい返事をお聞かせ願えれば欣快(きんかい)の至りです」
 孔明は好機は逃さないと云わんばかりに即座に礼を云う。
「戒斗が云ったように判断は簡単なことじゃない。添えない可能性のほうが高い」
 隼斗は断りを入れたが、その実、考えてみると云ったからには、ほぼイエスの返事だろう。ゼロに近い可能性で隼斗が期待させるようなことを云うとは思えない。
「無論です」
「よかったな、孔明」
 貴仁が声をかけ、孔明は吐息を漏らし、一つ山を乗り越えたような安堵を見せた。


 和久井家と千重家が有事に備えている間にも、有吏と蘇我の間で着実に変化していることはあると感じた。
 普通とは云えないけれど、どこか素朴さを感じさせる孔明。
 首領という立場で、蘇我一族の、しかも本家の人間であり約定婚の本人であるというのに、分け隔てなく接している隼斗。
 そして、戒斗は、蘇我がいるとわかっていながら、過保護であるくせに叶多にたか工房に来る自由を許している。それはつまり、全面的に叶多を信頼している証しでもある。延いては、ここにいるだれもを見切り、父親と同じように偏見を無にできる度量を持ち合わせているのだ。

 悪いことにはならない。そう思うのはあたしがただ楽観しているだけか。
 けれど、あたしがその結果をここで見届けることはできないかもしれない。
 千重家の人には蘇我と会っているなど云えないし、もとい、ここにもう一つの一族もいるのだとは悟らせるわけにはいかない。史伸に送ってもらうときは、叶多を幼い頃からの友だちに仕立てている。史伸は一寿に対して、ちょっとした対抗心を持っているようで、だから叶多と会えているどころか、あたしが出かけていることさえ漏れていないけれど、こうやって戒斗にも近づいた以上、まもなく知られるだろう。

 一寿が怒る以上に、一寿に裏切りだと思われるのが怖い。
 悪いことにはならないほうがいいのに、そうなったときあたしの役目は終わって、果たしてあたしはどこにいられるのだろうという心細さもある。
 一寿に逆らうような無謀なことをしなければ、もう少し長く、生き延びる理由が確かなものとしてあったはずなのに、丹破一家の揉め事を知って落ち着かなくなった。
 裏の世界にばかりいて、自分が何者かわからなくなる不安。毬亜と呼んでくれる人がいない不安。
 蒼井毬亜。叶多にそう名乗ったのは、アオイでも千重アオイでもなく、蒼井毬亜として生きたいと、それがあたしの本心だからかもしれない。

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