魂で愛する-MARIA-

第10話 スタンドイン−合紋aimon−

# 68

 隣を振り仰ぐと、一寿はわずかに首をひねる。あたしはうなずいて、そして正面に座る千重家の面々に向かった。
「あたしの本当の名は蒼井毬亜っていうの。でも戸籍はなくて、死んだことになってる」
 どこから話すべきか迷ったすえ、あたしが口にしたことは出し抜けだった。だれもが眼差しを鋭くして、顎をわずかに上げて大きな関心を示した。

「昨年の四月にあった丹破一家と首竜の抗争はご存じだと思います」
 一寿が口を挟むと、千重家の男たちは一様に眉をひそめ考えこむ。
「蒼井毬亜。あのとき、連れ去られたすえ殺されたという女性か? このアオイが?」
 いち早く口を開いた伶介は、信じられないとばかりに首を横に振りつつ一寿を問いただした。
「そうです。彼女は立場的に、生きていればどちらからも命を狙われる可能性がありました。私の判断で、身代わりを立て、蒼井毬亜は殺されたことにしました」
「丹破京蔵の愛人だったはずだ」
 ストレートな言葉はそのとおりであるのにも拘らず、人の口から呼ばれるとひどく堕落して聞こえた。

「はい。父が借金をして、母とあたしは……」
「それ以上は見当がつく。それでご両親は?」
 さえぎった伶介は、嫌悪感からそうしたのか、それとも純粋にあたしに云わせまいとしたのか、どっちだろう。
「わからなくて……ふたりともいなくなったから」
 望みはないとわかっていても、それを口にすることはためらった。あたしはまだ足掻いている。
 そうしてだれもが黙りこんでいるなか、結論を出すまでの考える時間を与えているのか、一寿も口を開く気配がない。

「ア……オイ」
 多香子が痞えながらあたしを呼ぶ。その微笑みはいつもと変わりなくて、あたしはうなずきながら少しほっとした。
 あたしが千重家にいることを多香子がどんなふうに感じているのか、もしかしたらあたしがいることで娘の悲劇を終始思いださせているんじゃないか、そう思うこともある。
「あたし、教養もないし、普通以下の生活しかしてきてないし、だから千重家には迷惑かけそうな気がして……」
「和久井さん」
 あたしに最後まで云わせず、今度さえぎったのは史伸だった。
「はい」
「ひどくないですか。千重の名を貸すことまではいい。和久井さんの一族本家の身代わりになるのは納得してない。けど、それらを除外して、彼女を犠牲にすることはどうやっても理解できない。彼女になんの得があるんだ」

 史伸があたしをかばうなんて思いがけなかった。
 あたしが千重家に入っていちばん不快にしているのは、もしくは、露骨に見せているのは史伸なのに、あたしのことを『彼女』とまだ距離を置きながらもこんなふうに考えるなど思ってもいない。
 多香子が退院してくるまで、史伸は無視することを心がけているような態度だったけれど、多香子とお喋りしたり、傍で本を読んだりテレビを見たり、なるべく一緒にいるうちに、史伸との壁はなくなっていった気がする。いま打ち明けることで、それもまた一からということになるかと思っていた。

「ひどい、それはおっしゃるとおりです」
 一寿はあっさりと認める。
「史伸さん、ありがとう。あたしはいいの。あたしは一寿から救ってもらって、だから役に立ちたいし」
 弁明しても史伸のしかめ面は一向になおる気配がない。
「だから、それがおかしいと云ってるんだ。考える順番が逆だろ。利用するために助けられたんじゃないのか」
「わかってる。でも、あたしは助けられるずっとまえから、この計画なんてまるで頭になかった頃から一寿を知ってるの。なんの得もないのにあたしのこと考えてくれてたし、それはいまもそう。利用するぶん、一寿はもっとあたしのこと考えてくれてるから」
 最後の言葉は確信も何もない、あたしの希望だ。
「責められるのはもっともです。云い訳もできません。千重アオイとしてここに存在することで毬亜はあの事件から守られます。毬亜とはこれからさき何時(なんどき)もともにする。その覚悟だけはしています」

 あたしは史伸がかばったことよりももっと驚いた。
 毬亜、と一寿から呼ばれることなど想像したこともない。吉村に呼ばれて以来で、そう呼んでくれるのは吉村だけでいいと思っていたのに、毬亜の名を語った一寿の声は、また呼んで、そう求めたくなるほど心底が潤った気がした。
 まして、あの事件からあたしを遠ざけようと、そんなことまで考えてのことだとは少しも知らなかった。ついでであっても、一寿はやっぱりカズのままで、あたしのことはちゃんと頭の片隅にあるのだ。
 隣に顔を向けると、一寿もちょうど見下ろしてきた。うれしいのが堪えられなくて、あたしのくちびるは勝手に笑みをつくる。一寿は呆れたふうに首をひねったけれど、その実、同志にになったような、ふたりだけに通じる気持ちの共有が垣間見えた。

「あたしは大丈夫。ただ、あたしはここにふさわしくないし、家にいない理由はつけられるからと思って」
「ふさわしいかふさわしくないか。それを決めるのは、アオイ、おまえではない」
 これまで、なんとなく話しかけられていると察して伶介との会話は成り立ってきた。いま伶介ははじめてあたしに向かって『アオイ』と呼びかけた。
「そぅ、よ。アオ、イ……マ、マ……と、呼ん……で」
 多香子が伶介に賛同し、いや、それ以上にあたしがここにいていいのかどうか、その答えをくれた。旺介も深くうなずく。
 史伸を見るとまだ気に喰わなそうにしている。けれど――
「兄さんと呼んでいいのは妹だけだ。それ以外ならなんでもいい」
 拒絶されたかと思えば、史伸はひねくれた云い回しで満場一致のゴーサインを出した。
「ありがとうございます」
 あたしより早く一寿が頭を下げる。慌ててあたしもそうした。

 千重家の人はやさしい。
 毎読新聞の創設者という、トップの位置にありながら、気取ることなくあたしを受け入れる余裕を持ち合わせている。それが二度の犠牲のせいなら――いや、きっとそれがあって彼らのやさしさはあるのだろう。
 悲しかった。
 さみしさしか知らないあたしはなんの力にもなれなくて、悲しかった。

「泣くな」
 そう云って、一寿が片側の目に触れるまであたしは泣いていることに気づかなかった。
「ちょっとうれしかったから」
 もう片方の涙を指先ですくいながら云い訳をすると、久しぶりに一寿の笑った顔が見られた。釣られたようにあたしも笑顔になってしまう。

「腹減った」
 史伸が云い――
「そうだな」
 と、応じた伶介は車椅子に乗せた足をゆっくりと床におろす。目を瞠っていると、下半身不随というのに伶介はなんなく自分の力で立ちあがった。
 どうだね? といった気配で伶介は首を傾ける。
 最初に応えたのは一寿の笑い声だった。
「私は騙されてたようですね」
 その言葉から一寿も知らなかったのだと確信した。千重家が入院していたのは有吏一族の分家、篤生家が経営している病院だった。一寿が知らないということはドクターも伶介の芝居を見抜いていないということだ。
「きみだけじゃない。私はこれからも欺き続けるつもりだ」
 伶介は云いきった。

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