魂で愛する-MARIA-

第10話 スタンドイン−合紋aimon−

# 67

 千重家に戻ると一寿は、善は急げとばかりに帰っていた旺介に話がある旨を伝えた。
 旺介はどう捉えたのか、伶介とすぐさま連絡を取り、一時間後には仕事を切りあげて帰ってくることになった。

 一寿は旺介とリビングに落ち着き、政治や経済の話をしている。LDKのキッチン側では家事ヘルパーが食事を準備し始めていて、あたしはその間、多香子の入浴に付き添って介護ヘルパーの補佐をした。
 介護ヘルパーは有吏一族から派遣されている人で、家事ヘルパーも以前いた人にやめてもらって同じく一族の人だから、あたしはわりと気楽に接している。ふたりとも朝起きる頃にやってきて、夕食の準備を整えたあとに帰っていく。

 入浴は介護ヘルパーの一日最後の仕事だ。多香子は、脊髄損傷で下半身不随となり、頭部外傷で言語障害があるものの自覚はある。だから、入浴のヘルパーは女性であるべきで、浴室は多香子の状態に合わせて改装はされているものの、人手はあったほうがいいだろう。そう思って手伝っている。
 千重アオイと同じく、入院しているときも何度もお見舞いに行っているから、親しい人ということでは合格していると思う。

「あ……り……が、と……」
 ヘルパーとあたしと、ゆっくりだったがどちらにも顔を向け、笑みを浮かべて多香子はうなずく。
「どういたしまして」
「気持ちよかった?」
「と、……ても」

 一年まえの夏の日、軽やかに歩き、友だちになれるといいわね、とそうなめらかに云いながらあたしを歓迎して笑った多香子を思うと、アオイの死と相まって生きることの儚さを知る。父も母もいなくなってわかっているはずなのに、いつの間にかあたしは忘れている。

 伶介が帰ったのは予定どおり一時間後で、一緒に帰った息子の史伸が伶介の車椅子を押してリビングに入ってきた。
 伶介は腰の骨を折り、妻と同じく下半身不随だ。入浴は史伸が手伝っていて、ヘルパーがつくことはない。会社ではもともと管理職だったが、蘇我のことでは率先して記者として動いていた伶介にとって、歩けなくなったというのは致命傷だろう。今年から会社に復帰して、春からは編集や論説の総責任者として主筆という立場になった。
 アオイの兄となる史伸は大学卒業後三年め、毎読新聞の販売局に勤めている。
 リビングには多香子も来て全員がそろった。

「まず、報告からさせてください」
 一寿が口火を切った。
「一年まえの銃撃事件について、犯人と名乗る男が出頭してきました」
 あたしも知らなかったことで、だれもが息を呑み、目を見開いた。一寿を見る目は、驚きだけではなく、本当かという疑惑の眼差しもある。
「名もないほどの暴力団の端くれですから、お察しのとおり、おそらくダミーです。公表がないのは警察もそこを疑っているからでしょう。蘇我によって情報は操作されることも間違いなく、犯人はその男に確定されます」
「理由はなんと云っておる」
 渋面で旺介が訊ねる。
「自分の名声をあげたい、と。主筆は裏社会についても容赦なく取りあげられていました。そのこと利用したようです」
 表情を動かさなかった伶介までもが顔を歪めた。

「どのような形になるかは今後の課題ですが、いずれ蘇我には解決させます。このことについてはですから、旺介会長、伶介主筆、そして史伸さん、くれぐれもこれ以上の刺激は堪(こら)えていただけませんか。もう千重家から犠牲者を出すわけにはいきません。命を返すことはだれにもできないんです。お願いします」

 一寿が手を膝に置いて深く頭を下げる。あたしは釣られるように一礼をした。
 だれも口をきかず、リビングは呼吸するのさえ緊張するほど沈黙に満ちた。

 銃撃事件後、その報道は長引くこともなく消えた。高速道路での出来事で、目撃者のみならず、自動車ナンバー自動読取装置(Nシステム)で手がかりはつかめたはずなのに警察は突きとめられなかった。蘇我は当然ながら、警察でもマスコミでも影の力を使っているということだ。
 それらは一寿だけではなく、千重家もわかっている。
 やがて、室内に伶介のため息が目立った。

「和久井、顔を上げなさい」
 一寿は伶介に応えて上体を起こす。
「いまは約束する気になれない。ただし、すぐどうこうということは考えない。それだけは云っておく」
「はい」

 旺介がうなずく傍らで、史伸は仏頂面をしたままでいた。
 和久井家を訪ねてきたときに一度、史伸の声だけ聞いた。そのときは顔が見えなくても快活だった気がするのに、少なくともあたしが千重家に入ってからの史伸は別人のように素っ気なくて冷たい。
 妹思いだったようだし、その妹と同じ名であたしが入りこんだことは、さらに史伸を傷つけたのかもしれない。

「話はもう一つあります。アオイのことです」
 一寿は唐突で、あたしは一斉に注目を浴びて目を伏せてしまう。自分が云いだしたことなのに、いざとなると反応が怖い。
「なんだね」
 旺介の声は穏やかだ。普段から、“おはよう”などのあいさつだけでなく、体調や住み心地を訊ねてくれたりして、けっして毛嫌いはされていないということを思いながら、あたしはとっさに顔を上げて一寿より早く口を開いた。

「自分のこと、あたしは何も話してなくて……外から見たらアオイさんでも、ここではアオイさんになることはできなくて、だから話しておかなくちゃと思って」
 自分でも支離滅裂になっていると思う。けれど。
「云いなさい。私も知りたい」
 伶介はうなずきながらあたしの加勢をしてくれた。
 千重アオイとしてのあたしとはぎこちなくしか振る舞えなくても、伶介もまたあたし自身のことを疎んじているわけではなかった。そうわかったことで打ち明ける不安も少し解消されて心強くなった。

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