魂で愛する-MARIA-

第9話 イロの条件

# 59

 千重家はただ事故に遭っただけではない。それは直感でも思考の結果でもなく、感情が漏れだしてしまうほど千重アオイのことを案じている一寿を認めたくなかったからかもしれない。あたしは躰だけでなく心も汚い。
 観覧車をおりるまでも帰路のさなかも、無事なの? とそんなことさえ訊けなかった。

 家に着いても敷地内には入らず門先に駐車したのは、それほど緊急を要することだと裏づけていた。車から降りるとあたしは独りさっさと家に向かった。
 おかえりなさい、と番人が迎えるなか、ただいま、と応じていると一寿がすぐに追いついてついてくる。
「また別の日に連れていく」
「……うん。大丈夫」

 云いそうになった、もういいという意地を張った言葉はすんでのところで呑みこんだ。
 それを云ったら、子供っぽい以上に本当に無神経な人間に成り下がってしまう。堕ちるだけ堕ちて這いあがれるなどとは思っていないけれど、けっして底にいるわけではなく、それどころか底無しに堕ちていく選択は、いつの間にかというほど簡単なのだと気づいた。
 それに、千重アオイのことを心配していながら、一寿はあたしのことまで気遣っている。それで充分だという気持ちにはなれないが、不謹慎にも少しだけうれしい気にさせた。

 一寿はあたしの返事を聞いても即座には車に引き返さず、玄関までついてきた。
「一寿」
 あたしが玄関に入るのを見届けてから身をひるがえした一寿を呼びとめる。
「あとでどうだったか教えてくれる?」
「ああ」
 関係ないと一蹴される覚悟をしていたのに、意外にも一寿はあっさりうなずく。
 振り返ってあたしに向けた眼差しがじっととどまったのはどこか不自然で、なんらかがあたしに係わっていると感じさせた。


 一寿はその日、帰ることはなく、とりあえず帰ってきた寿直のほうは口を開かないし、タツオに訊いても自分もまだ詳細は知らないという一点張りで埒が明かない。
 結局は、夜のニュースで第一報が報じられ、千重家の車が銃弾を受けたこと、乗っていた三人ともが重傷だという、無関係の人が知ったことと同じことしか状況はつかめていない。
 帰ってこないというのは深刻なのだろうし、当然、銃弾となれば穏やかではなく通常にない事態だ。

 会って話をして、たった一時間後に一変した環境。それに似た状況はこれまで何度も自分自身に降りかかってきて、あたしはそんな怖さよりも、またかという傍観者でいられる自分が怖いと感じた。

 翌日になっても、夜遅くに帰ってきた一寿とちょっと顔を見合わせるくらいで話す暇もなく、一寿は寿直とふたり書斎にこもり、あたしが眠るまえには出てこなかった。
 報道も、犯人が捕まったとは云わないし、千重家の人が無事でいるのか、病状は集中治療室を出ていないという漠然とした報道がなされるばかりでよくわからない。
 そんな翌々日、ベッドに入ったとき、一寿が部屋に訪れた。

 前日と同じように一寿は書斎にこもっていたが、そのとき部屋のまえの廊下を歩く足音がした。自分の部屋に戻ったのだろう、隣からかすかに物音がする。しばらくしてからあたしの部屋のドアからノック音が立った。
 はい、とベッドから起きあがりかけているさなかに、一寿は部屋に入ってきて後ろ手にドアを閉めた。ベッドに近寄ってくると、ソファよりも近いテーブルに腰をおろす。
 一寿は顔を見に寄っただけでなく、ちゃんと話があって来たのだ。あたしはベッドから足をおろして一寿と向かい合った。
 一寿は特段やつれた様子も疲れた様子もなく、以前と変わらないように見えた。

「千重家の人たちは大丈夫なの?」
 あたしの質問を受け、一寿はひと息ついてから首をかすかに横に振った。
「伶介部長は全身打撲で腰の骨を折る重傷、夫人は脊髄損傷と頭部傷害で意識はあったりなかったりだ」
「アオイさんは?」
「銃弾を頭に受けて意識不明の重体だ」

 急かした質問の答えは、なぐさめようにも安易に受けとられそうで言葉をかけにくくさせた。一寿からはいま、観覧車のときの動揺は感じられない。ただ、後悔として一寿が思っていることはわかっている気がする。

「ついていけばよかった、って思ってる?」
 一寿は意外な質問だと感じたのか眉をひそめる。
「後悔しても始まらない。これからどうするか、だ」
「何があったの?」
「高速道路で追い越し車線を走っていた車から、伶介さんの車が銃撃された。弾(たま)は二発。一発は前輪のタイヤを撃ち抜いて、もう一発は助手席のヘッドレストを貫通してアオイさんの頭を撃った」
「狙われたの?」
「日本で銃撃はめずらしい。狙っての犯行だと判断はつく」
「だれを狙って?」

 一寿は、答えるまでもないだろうといった雰囲気で肩をそびやかした。
 無論、あたしならともかく、伶介夫人にもアオイにも銃で暗殺されるようなことは考えられなかった。

「なぜ狙われたの?」
「伶介は社会部の部長でありながら、ある取材を自ら内密に進めていた。取材は時として危険と隣り合わせだ」
「犯人は? わかってるの?」
「まだ何もわかっていない」
「この事件は後を引くことなの?」
「いまの時点ではなんとも云えない」
 定例句みたいな返答ばかりが帰ってきて、一寿の気持ちは少しも漏れてこない。焦りすら覗けず、それならただ濁しているだけで、割りだしまではできていなくても見当はついているのではないかと思った。

「……このまえ話してくれたことと……蘇我一族? それと関係してる?」
「どうしてそう思う?」
「警察に任せておけることじゃないんでしょ? だからおじさまも帰るの遅かったし、昨日も今日もふたりで書斎にこもってる。こんなことなかった」
「こんなことがいままでなかったからだろ」
「ううん。観覧車のなかで電話してるとき、一寿が深刻そうにしてたから。そうなるのはアオイさんのことがすごく好きだから。そうじゃなければ、主に関することだから。どっちかじゃなくて、そのどっちもってこともある」
 どう? と問うように首をかしげた。
 しばらくじっとあたしを見ていた一寿はひと息つくと、くちびるに笑みを形づくった。大して可笑しくもなさそうで、何かをごまかすようだ。

「アオイ、おまえに頼みたいことがある」
 ごく真剣な口調は頼み事が歓迎できるものではないと暗示して聞こえた。
「……あたしにできること?」
「おまえしか考えられない」
「……そう? ……い――」
 いいよ、と、ためらいながらもあたしが続けようとした言葉は――
「返事は頼み事を聞いてからにしろ」
 と、云いだした一寿自身がさえぎった。

「……うん。何?」
「千重アオイの身代わりになってほしい」
「え……?」
「有吏と蘇我は和解を図っている。そのしるしに行われるのが交換婚だ。おまえには千重アオイの身代わりとして、蘇我家に嫁いでほしい」

 その頼み事の半分もあたしが理解できたかどうか怪しい。ただ、汚くてなんの利点も見いだせないのに、清算という言葉をぶらさげて救われ、あたしの一生に価値をつけられた理由がわかった気がした。

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