魂で愛する-MARIA-

第9話 イロの条件

# 58

 口を開けばよけいなことを云いそうで、あたしはそっとくちびるを咬んだ。
 一寿はあたしの背中を支えて方向を変える。
「行くぞ」
 仮面を剥がしたのか被ったのか、あたしに対する喋り方はいつもどおり素っ気ない。あるいは命令じみている。
 敷地内に引き返すと、一寿の車に乗って家を出た。

「あたしも習ったら車の運転できる?」
 一寿は運転しながらちらりとあたしに目を向ける。
「必要ない」
 にべもなく却下された。

 べつに本気で車の運転を習いたいと思ったわけではないけれど、やりたいことができるわけでもないことは立証され、今日の外出は単なるご機嫌とりにすぎない。あたしはたまに遊んでもらえる感情のないおもちゃと変わらず、常に面倒を見ることが必要なペット以下だ。
 あたしとの先約はいいから行けばいいのに。本心とは裏腹に、意地を張ったよけいな放言はどうにか口にしないでいられたのに、やっぱり云いたくなる。
 吉村をただ待っていたときも、いまも、少しも変わらない。あたしは宙ぶらりんで、だれもが傍にはいても違う方向を見ていて、独り取り残されている。

 普段から一寿に話しかけても会話は続くほうではないが、もうあたしも話したくない。車内は、ただあたしのふてくされた気配が充満して、一寿の感情は欠片も漏れていない。それだけ関心がないということなら、うだうだしているあたしはどこにも行き場がない。
 確かな場所を求めることは、あたしには贅沢すぎるのだろうか。

 遊園地に着いてフリーパスを手渡され、歓声が聞こえても、わくわくした気分はどこかに落としてきたようで――
「なんに乗りたい?」
 園内地図を見せながら訊ねられても選びようがなく、入場ゲートを通過したところであたしは立ち尽くした。
 うつむいたあたしのつむじに息がかかる。これ見よがしのため息に、あたしはくるりと一寿に背中を向けて駆けだした。

「アオイ」
 抑制した呼び声は鋭い。
 自分でもどうしたかったのかわからない。けれど、一寿の呼びかけでわかった。
 あたしは、アオイ、じゃない!
 約束したのだから、けっして云ってはいけない言葉だ。
 あたしは、アオイから解放されたがっているのかもしれない。

 ささやかな抵抗は、急に正面に現れた子供を避けようとした時点で呆気なく終わった。足をひねってバランスを崩し、転びそうになったところを、難なく追ってきていた一寿の腕が救う。

「歩きにくい靴を履いてるくせにおれが追いつけないとでも思っているのか。ただでさえ、走り慣れてないだろ」
「面倒なら、面倒みなきゃいいのに。家にいるよ、ずっと。閉じこめられるのは慣れてるし。アオイさんのかわりに何かやらなくちゃならないことがあるなら、そのときにちゃんとそうする」
「なんのことだ」
 目を細め、訊ねた一寿は慎重にあたしを窺っている。
「どうせ死んだことにされるなら毬亜でもよかったのに、少しもいいことがなかった名前をわざわざ名乗らせるなんて、そういう理由しか考えられない。千重アオイさんて、一寿の婚約者でしょ」
「こんなところでする話じゃない。来い」
 一寿は何かを振り払うように首を振ってあたしの腕を取った。

 一寿は携帯電話でだれかと連絡を取りながらすたすたと足早に歩き、あたしは足がもつれそうになりながらついていった。そうして、めいっぱい仰向かないと天辺が見えないほど巨大な観覧車のまえまで来た。一寿は、係員に名乗って話しかける。すると並んでいる人たちよりもさきに乗車場へと案内された。並んでいた一組を待って、一寿に促されるまま観覧車に乗った。

 向かい側に座った一寿はじっとあたしを見据える。
「母さんから聞いたのか」
 いきなり本題に戻った一寿は、婚約のことを否定しなかった。
 相性を確かめるまでもなく、一寿にはそんな気持ちが確定しているということかもしれない。千重アオイにしろ、父親の言葉、そして本人と母親の様子に鑑みれば、充分その気になっている。

「同じ名前でも全然違う。本当の名前は捨てて、あたしは、お母さんもお父さんも友だちもいなくて、だから、あたしがいなくなってもだれも悲しまなくて、あたしがいたことを憶えてる人もいない」
「おれの云ったことは何もなってないな。おまえは和久井家の一員であり一族の一員だ。少なくともおれはずっと憶えてる」
「一寿のずっとなんて当てにならない。あたしは一寿のものじゃないし、一寿は千重アオイさんのものだから……」
「わざわざ云われなくても、おまえは一月さんのものだってことはわかってる」

 一寿は最後まで云い終えないうちに、ぶっきらぼうにさえぎった。あたしはそんな言葉が返ってくるとは思わなくて、すっと息を呑みながら気圧されたように顎を引いた。

「おまえは誕生日に一月さんが来たことを忘れたのか? 一月さんはおまえが死んだとわかったあとでも、おまえのことを調べていた。如仁会の傘下にある病院で妊娠について相談しただろ。計算すればあり得ないとすぐにわかることなのに、泰司が泣いたとき、一月さんはおそらく、泣いているのはおまえの子供で、そしておまえがいるんじゃないかって疑ったんだ。一月さんは少しもおまえを忘れてないし、声をあげて泣くことだけが悲しいということでもない。おれは、一月さんがわざわざおまえの誕生日にうちに来たことだって疑っている」

「何を?」
「おまえが生きてるっていう望みを一月さんが捨てていないことだ」
 あたしは思いもしなかったことで、目を見開いて一寿を見つめた。

「……でも……」
「おまえは一月さんがわかってないな。四十半ばで大した組のトップになり如仁会の幹部になる人だ。一月さんは頭を使う。だからこそ、おまえのことは慎重に事を運んでた。可能性をゼロにする人じゃない。逆に百に近づけようとする」
「……でも……あたしのことは百にならない……」
「そうだ。だから、おまえはおれといるしかない。おれはおまえに、何があろうとおれがついてると云った。おれがおまえにアオイでいろと云ったのは、千重アオイさんのためじゃない」
「じゃあ……だれのため?」
「おれはだれのものにもなれない。だれのためにって質問は愚問だ。おれには、おれ自身のことよりも優先事項があることを話したはずだ」
 そんな気持ちは、一寿も一寿と結婚する人も不幸にするような気がした。

「それでもアオイさんと結婚するの? アオイさんはそれをわかってるの?」
「一族は大抵が政略的な結婚をする。許嫁としていることもあれば見合いのときもあり、そして自然を装って成立することもある。千重アオイさんとは許嫁でもなければ見合いもしていないし、決まったわけでもない」

 千重アオイが一寿を好きなのは、見ていれば感づける。裏に策略があることを思えば、そうした気持ちを抱くことは気の毒なことかもしれない。けれど、主(あるじ)に忠実すぎる一寿が、主に支障ない程度ではあっても結婚相手に対しても忠実であろうとするのは想像するにたやすく、千重アオイが疑いさえしなければそれはそれで幸せなのではないかと思えた。

 一寿から目を背け、見渡すと景色は遥か遠くまで見渡せる。あたしはたった一日さきのことも見えない。
 横顔にずっと一寿の視線が注がれているのはわかったけれど、目を戻す気にはなれなかった。何も見ることなく、ただ受け入れているほうがらくで、あたしはそうしてしか生きる方法を知らない。

「アオイ、おれはだれとも――」
 一寿が云いかけた矢先、着信音が鳴った。
 思わず目を向けると、わずかに顔をしかめた一寿は首をひねったあと、携帯電話を操作して耳につけた。

「一寿だ」
 そう応じたあと、一寿は見たことのない表情を浮かべる。驚きと後悔と歯痒さ、あるいは悔恨。それらの負の感情ばかりが入れ替わる。無表情なことのほうが多いことを思えば、あたしでも感じとれるほど一寿はひどく動揺している。
 電話が終わったあと、携帯電話は一寿の腿の上で握りつぶされるのではないかと思った。

「一寿? 何かあったの?」
「おりたら帰る。千重家の車が事故に遭った」

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