魂で愛する-MARIA-

第9話 イロの条件

# 57

 一寿は千重アオイを目のまえにして、仮面を取り換えたかのように一瞬で簡単に雰囲気を変えた。
 それは、この人だから?
 近くで見ると、彼女は本当にお嬢さまという言葉が似合う。可愛い雰囲気は間近にしても変わらないが、遠目ではわからなかった、賢さとか自信とか、そんなものまでが滲みでている。
 背の高さも年齢も同じくらいだと思うのに、価値を比べたらあたしはきっと下(げ)の下だ。犯罪を犯していないぶん、下の中くらいには格上げできるだろうか。――違う、あたしは命を一つ殺したから、やっぱり下の下だ。

 家族旅行だと云いながら、彼女は何をしに和久井家にやってきたのだろう。
 逃げたくなったそのとき、やっと一寿の傍にいるあたしに気づいたように彼女の目が向かってきた。だれ? と、問うように彼女は首をかしげる。
 暗に促され、自己紹介しようにもあたしはどう云えばいいのかわからない。一寿を当てにして見上げるさなか、少し遅れて五十前後と思(おぼ)しき男性と、男性よりはもっと若い感じの女性が、庭を眺めつつそろって歩いてくるのが見えた。
 一寿は丁寧に頭を下げてふたりを迎えた。

「伶介部長、奥さま、こんにちは。わざわざ、こちらまで?」
「和久井さん、こんにちは。アオイがね、ここの庭が素晴らしいって云うから一度見てみたいと思ってお邪魔したの。ごめんなさいね、急に」
「いいえ。驚かれたのでなければいいんですが」
「驚く? そうね、多少のためらいは感じたけれど、触れることのない世界ですもの、屈強な番人たちに多大なときめきは感じたかしら」
「それはよかった、と云ってよろしいんでしょうか、伶介さま」
 アオイの話から男女は彼女の両親に違いなく、一寿はおどけた様で女性から男性へと矛先を変えた。

「どうだろうな。私の感想としては、不思議だな、とだけ云っておく」
「不思議、ですか?」
「ああ。その話はじっくりしたいものだな。いつの日か」
「ええ。そうしたいと私も思っています」
 ふたりに通じる会話という雰囲気で、アオイと母親は顔を見合わせて肩をすくませ、あたしはといえば傍観者に徹していた。

「この庭は見事だな。枯山水に露地に回遊式と顔の違う庭園がしっくりと融合している。タイムスリップしたような古き良き時代を感じる」
「ありがとうございます。ここは暑いですし、なかへ……」
「社長はご在宅か?」
「いえ、出ております」
「社長がご在宅であれば挨拶もしたいが、不在ならいい。出かける途中なんでね。混雑を避けていまの時間に出発している」
「では、お見送りを」
「ああ」
 相づちを打ったアオイの父親がふっとあたしに目を向けた。

 なんとなく一歩下がろうとしたのは気後れしているせいか、けれど、そうするまえに一寿の手があたしの背中に添った。
「紹介します」
 そう云って一寿は少しだけあたしをまえに押しだした。
「訳があって預かっている、一族の娘です。アオイと云います」
 あたしはとっさに頭を下げ、アオイです、とあらためて名乗った。顔を上げると、驚いた眼差し三対があたしに集中している。

「同じ名前! ほんとに?」
 アオイの目はまん丸になってあたしを見つめている。返事はうなずくことで返した。
「わたしもすごくときめいたかも。わたしは千重アオイ。二十歳になるの」
「あ、あたしは今月、二十歳になりました」
「ほんとに!? すごい偶然。なんだか縁を感じちゃうけど、和久井さん、どう思う?」
 どういう意味なのか、アオイは興じつつ、どこか期待を込めた眼差しを一寿に向けている。
「どうでしょうか。めったにないことではありますね」

 一寿は白々しく応じる様子を見ながら、あたしはアオイの『縁』という言葉に引っかかった。アオイとしか名乗るな、と云われたことが鮮明に甦り、それを『縁』と結びつけるのなら偶然などではなく、なんらかの必然がある。そんなふうに思った。

「本当に偶然だな。私はアオイの父親で伶介(れいすけ)という」
「毎読新聞の役員、兼、編集局社会部の部長を担われている」
 一寿が伶介のすぐあとを次いで、あたしは、はじめまして、と軽く一礼した。
「わたしは母親の多香子(たかこ)。アオイ同士、お友だちになれるといいわね」

 友だち。あたしには長らくいない存在だ。ましてや、毬亜は死んだことになっていて、外出もままならないなか、友だちなんてできるはずもない。
 アオイとあたしは仲良くできるだろうか。一抹の不安を覚える。ただ、今日の様子を見るかぎり、アオイはこれからも訊ねてきそうな気配だ。それなら仲良くしておかないと、とそう思いながら多香子の言葉に釣られてアオイを見やり、あたしは引きつっていないようにと願いつつ愛想笑いを浮かべた。アオイからは屈託のない笑顔が向けられる。

「ありがとうございます」
 あたしは多香子に目を戻し、お礼を云った。どういたしまして、というかわりに、多香子はにっこりと微笑む。千重家の母親は、優雅ながらも気取っているふうでもなく、感じのいい人だ。一方で父親は何かを抱えていそうな雰囲気を持ち、常に眉間にしわを寄せて厳しそうな印象も受ける。ただ、偉ぶってはいない。
 申し分のない両親で、アオイはやっぱりあたしとは雲泥の差で、環境に恵まれている。うらやましくて虚しくなってしまった。

「では見送りましょうか」
「そうしてくれ」
 一寿が先頭に立ち、あたしは最後尾で伴いながら門へ向かった。ともすれば止まりそうな足をなんとか進めていく。
 三人は車に乗りこみ、助手席に乗ったアオイが窓をおろした。
「じゃあ、アオイさん、またね。それから和久井さんも」
「私はついでですか」
 一寿がからかうと、運転席に座った伶介が助手席のほうへ身を乗りだした。
「和久井、今日の庭の見物は口実だよ。娘はきみを一緒にどうかと誘いたかったらしい」
「パパ!」
 アオイは悲鳴をあげるが、もう伶介が口にしてしまった以上、取り返しはきかない。多香子のくすくす笑いと一寿がふっと笑みを漏らすのが重なった。

「私も、きみとじっくり話すのは今日でもいいと思っていたが」
 と、伶介の眼差しは一寿からあたしに転じられる。邪魔だという遠回しの表現かもしれないと思い、あたしはちょっとたじろいだ。
「すみません。先約があるので」
「わかってるよ、きみがいろいろと忙しいのは。また今度だ」
「はい」
 そうして車は発進した。
 例えば、最愛の人のお料理がひどくまずかったときにどう対処すべきか悩んでしまう、そんな奇妙な沈黙がふたりの間にはびこった。
 それがかえって、あたしがアオイであることの必然性を裏づけた。

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