魂で愛する-MARIA-

第9話 イロの条件

# 54

 一寿はまるで重力など存在しないかのように、軽々とあたしを抱えて部屋に連れてきた。はじめて抱かれたときも体重の負担などなさそうだったし、銃撃の痕が生々しく残るマンションから連れだしてくれたときもそうだった。
 背中に手をまわし肩に顎をのせているだけで、しがみついているわけでもないのに、不安定さは少しも感じられず、躰がそうだからだろうか、心底の揺らめきもだんだんと凪(な)いでいった。

 あたしをいったんベッドにおろして、下に行った一寿はシャンパンとコーヒーを携えて部屋に戻った。
 ミルクティーに桜を散りばめたような、いかにも女の子といったカラーのなか、一寿がそんな雰囲気に似合うとは云いがたい。

 ここに来たときは、同じ薄茶系でももっとクラシカルで大人っぽかった。あたしが時間を持て余しているのを見かねたらしく、一寿が模様替えをしたらどうかと提案して、イメージチェンジをしてみた。いくら結婚したからといっても莉里乃の部屋だからためらいはあったが、本人も莉子も気にしたふうではなく、思いきった結果、二十歳というよりは少女っぽくまとまっている。

 これまで、独り暮らしは長くても、望まれないだろうと思ってシンプルなまま部屋を着飾ったことはない。それ以上に、意思を持たないラブドールでしかなかったあたしは住処として愛着を持ちたくなかったのかもしれない。
 模様替えは楽しくて、いまはやっと自分の部屋だと思えている。
 一寿はこの部屋を最初に見たとき、わずかに顔をしかめたけれど、何も文句はつけなかった。

「一寿はお酒飲まないの?」
 シャンパンを注いだグラスを受けとりながら、あたしはベッドに腰かけて一寿を見上げた。
「飲まない」
 一寿はひと言だけですませ、ベッドとはテーブルを隔てた向こうにあるローソファーに座った。あたしのほうが見下ろす側なのはめずらしくて、見上げてくる目にちょっと戸惑った。
「全然?」
「飲んでるのを見たことあるか?」
 一寿は逆に問うてきた。
 これまでのことを思いめぐり、一寿だけでなく、寿直も一切お酒を口にしていないと気づく。
「ないみたい」
 肩をすくめると――
「こぼれるぞ」
 と、一寿はあたしの手もとを指差した。
「飲めないの?」
「飲まない」
 一寿はまたひと言ですませ、コーヒーの入ったマグカップを取って口をつけた。
 飲めないんじゃなくて飲まないのはなぜだろう。云い回しが限定されたことを考えれば、なんらかの理由が潜んでいる気がした。

「一月さんの周りはとりあえず落ち着いた。おまえが心配することはない」
 いきなり吉村の名前が出て、またあたしはびくっと反応する。それを見逃さない一寿はどう捉えているのだろう。

「……でも一寿とおじさまの話……おじさまは厄介なことになるかもって思ってる。真相って何?」
「おまえが話したことだ。スモークピンクのスーツケース。おまえも含めて、あの現場でそれがあるのを知っていたのは首竜の奴らだけだ」
「……え?」
「そいつらは迷いなく、スーツケースを指差したんだろ。おまえはそう云った」
 そうだった。侵入者が指を差したから、あたしも京蔵も客も、そこにスーツケースがあることを知ったのだ。あたしはうなずいた。

「京蔵はだれかに嵌められたんだ」
 あたしはあの日のことを考えるのを避けてきて、結果、重大なことまで葬り去ろうとしていた。
「……だれかって……だれ?」
「知ってどうする?」
「どうもしない。吉村さんのところに行けないことはわかってる。ただ、知りたいと思っただけ」
「必要以上に怖がることはない」
「怖がる、って。あたしにまた何かあるってこと?」
 問い返すと、一寿はどこへともなく目を背け、それはためらいのように見えた。

「あのとき、首竜の連中の会話はわかったか?」
 一寿は視線をもとに戻して云い、あたしは首を振った。
「中国語なんて習ったこともないし」
 一寿はうなずくと大きく息をついた。
「おれたちが侵入したとき、あいつらは、殺すのは後回しにして女を犯す相談をしてた。女はつまり、おまえのことだ」

 あたしはぞっとする以上に、やはり怖くてたまらなくなった。怖がるということは、まだ生きたがっているのだ。漠然とそんなことを感じながら、とっさにベッドをおりると、一寿のところに行き、その足もとに座った。

「あの場にいた首竜の奴らは、スーツケースを取り返すのが目的じゃない、皆殺しが任務だった。首竜は金で動く連中ばかりだ。それだけの金を動かせる奴がバックにいたってことになる」
「あたしが……生きてるってわかったら?」
「危険は背中合わせだ」
 死刑宣告を云い渡された気分で、あたしは一寿の言葉を受けとめた。

「おまえは自分の気持ちよりも一月さんを守ることを優先できる。おれが忠告するまでもなく、二十歳にならなくてもおまえは意思を持ってそうしてきたのかもしれない。その価値は尊重する。おれがついてる。そう云ったとおり、おれがおまえを危険な目に遭わせることはない。だから、予防策として行動制限することは受け入れろ」
 そんなふうに云われてだれが嫌だとはね除けられるだろう。あたしはうなずいた。

「一寿、あたしの誕生日、知ってたの?」
 一寿の言葉で、ふと疑問だったことを思いだして訊いてみた。
「はじめて会った日に云ってただろ」
 あたしは目を丸くした。

 はじめて一寿と会った日のことは、いろんなことがありすぎて忘れようとしても忘れられない日だ。そんなあたしが細部まで記憶しているとしてもおかしくはない。一方で、一寿にとっては、しがない一日であってもおかしくない。何があって、一寿にあたしと吉村の些細な会話を記憶させているのだろう。

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