魂で愛する-MARIA-

第9話 イロの条件

# 53

 寿直が云い終わるか否かのうちに一寿の目があたしに向いた。
「すぐ行く」
 寿直に向け云った一寿は立ちあがるとあたしのところにやってきた。

 吉村、と聞いただけであたしの思考はまっさらになって伝達の機能をなさない。腕を取られて引きあげられるまま機械的に立ち、一寿に引っ張られて休憩室に行った。
 ソファに座らされ、一寿は正面で低いテーブルに腰をおろすと、少し斜め上からあたしを見つめる。何か云うかと思えば、何も口にしないで、一寿はじっとあたしの目を捕らえている。

「だい……じょうぶ。ここで静かにしてる」
 頭がまわらないなかで、あたしは無自覚に口にしていた。

 一寿の手が持ちあがり、あたしの顔に近づいてくる。何をするつもりだったのか、手のひらは行き場を失ったように一寿の膝もとに落ちた。
「行ってくる」
 あたしがうなずくのを待って一寿は事務所に戻っていった。

「夜分、突然にすみません」
 こもった声は吉村に違いなかった。
 あたしは無意識に立ちあがると、玄関に近いドアのほうに行った。そうすれば、もっと近くで声を聞けるかのように、しゃがみこんで壁に耳をつけた。
「顔役、ご無沙汰しています」
 事務所は、吉村が訪れるまでよりは抑制気味だが変わらずわいわいとしている。けれど、それが気にならないくらい吉村の声は太く、壁越しにあたしの鼓膜を刺激した。

「ああ、風の便りに活躍は聞いている」
「はい、ご報告はじかにお伝えしたいと思い、参りました。此の程、如仁会の幹部会を経て、正式に丹破一家の跡目を継承することになりました」
「おめでとう」
「ありがとうございます。和久井組からご尽力いただいたおかげです」
「一月さん――いえ、吉村総長、おめでとうございます」
「おまえはこれまでどおり、一月でいい」
「そういうわけにはいきませんよ。暫定(ざんてい)期間が長かったので、如仁会の総裁のもとに行かれるのかと思っていました」
「物事には順序がある。首竜との手打ちの目途が立たなければまだ長引いていただろう。おまえのおかげだ」
「いえ。目途が立ったということは真相もつかめたんですか」

 真相?
 一寿の問いかけにあたしは眉をひそめた。答えを聞くべく、息も潜める。

「突き止めたところで失ったものは還ってこない」

 真相がなんのことについてなのか、見当もつけられないうちに吉村は答えた。けれど、それだけの応答をするまで不自然に時間が空いた気がした。そのうえ、つかめたのかどうかを濁している。
 ただ、そんなことよりも聞き逃せなかった言葉があった。

 失ったもの――それはあたしのこと?
 それなら、あたしはここにいる。
 出ていきたかった。抱きついて、抱きしめてほしかった。
 けれど、そうはできない。何があたしを引き止めているのだろう。
 あたしは立てた膝をしっかりと引き寄せた。

「そうですね」
 あーうー!
 一寿の言葉に被せるように泰司がひと際高く声をあげた。
「だれだ?」
 吉村が発した声は、まるで敵対する者が現れたかのように鋭い。赤ん坊が敵になるわけはなく、それなら吉村が反応したのは泰司の声ではないのだろうか。

「子供の声ですか? 妹の子供ですが……」
「確かめさせてくれ」
 吉村は急かすように一寿をさえぎった。
「なんです?」
「頼む」
 何を確かめるというのだろう、吉村は喰いさがる。
「どうぞ」

 やがて足音が二つ連なり、ドアの開く音、そして沈黙。数秒後、莉子とちょっとした近況報告をし合ったあと、失礼した、という吉村の言葉が聞こえた。期待したものはなかった。そんな落胆が声音から見える。

「失礼しました。日中に伺うべきところですが、会社に赴くには支障があるかと思った次第です。お休みのところ時間をいただき、ありがとうございました」
「吉村総長」
 帰る気配を見せた吉村を寿直が呼びとめた。
「はい」
「失ったものが何かは知らんが、還らぬものに情けを置くのはよい。強くもなろう。ただし、気を囚われてはならん。足を取られるぞ」
「はい。心に留めておきます。では失礼します」

 戸の開く音がする。
 行くぞ。そんな声がかすかに聞きとれた。

 飛びだしていきたい。その気持ちは心底で溺れもがいている。

 戸が閉まり、静けさに支配され、そして、あたしが感じとれるほどのため息が沈黙を破った。
「一寿、吉村は突きとめたと思うか」
「如仁会の――藤間(とうま)総裁側の仲介人が生きている以上、まだそうしていないとしても、いま見たかぎり、一月さんはいずれ突きとめる」
「厄介なことにならんといいが」
 それには答えがなく。
「アオイとおれは引きあげる」
「そうしろ」

 寿直のため息混じりのような声が聞こえ、それから足音が一対こっちに向かってきた。
 ドアが開き、二歩足を進めて止まる。一瞬の静止のあと、足の向きが変わった。

「よく出てこなかったな」
 一寿が目のまえにかがんで、褒めているわけでもなく淡々と云う。その表情は水のなかで見つめているようにはっきりしない。
「ここで静かにしてるって云ったから」
 そう答えてから、自分がなぜここに引き止められていたのかがわかった。

 一寿は、ここから出るなとも黙っていろとも云わなかった。あたしは、あたしに決定権をゆだねた一寿を裏切りたくなかったのだ。どんなに冷たく当たろうが、常にあたしを見て、考えてくれている。些細なことで云えば、さっき莉里乃が教えてくれたクラッカーのこと、見落とせないことであれば、あたしを無条件で信用したこと。

「どうする? 誕生祝いに戻るか、部屋で独りになりたいか」
「一寿も部屋にいて」
「わかった」

 一寿の手が近づいて、甲を向け、あたしの目の下に添う。水滴が一寿の指先にのり、そのかわりにあたしのぼやけた視界がくっきりと晴れる。
 膝を抱いた腕をとくと、そのままの恰好で一寿に抱きあげられた。

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