魂で愛する-MARIA-

第9話 イロの条件

# 51

 遅くても七時にはお呼びがかかる夕食が、今日はやけに遅い。七時十五分になって莉子は様子を見てくるとリビングを出ていったけれど、行ったきり帰ってこない。
 おなかが鳴って胃が痛くなるほどのピークがくると、あたしは我慢できなくなってリビングを出た。
 すると、家のなかは異様にしんとしている。

 息を詰めてみると、自分の呼吸音が消えて静けさが際立つ。空腹感を忘れるほど心細くなった。
 あたしの傍にはいま常にだれかがいて、部屋に引きあげないかぎり独りになることはない。部屋に引きあげても眠っている間も、出張ではないかぎり一寿が隣の部屋にいることはわかっている。だから、すっかり独りぼっちという感覚を忘れていた。
 父が蒸発して母が家に帰らなくなったときの感覚が甦る。あれから独りには慣れているつもりだったのに、それはけっして独り立ちしていることではなかったと示された。

 息苦しくなって、ため息混じりに呼吸を再開する。
 直後に足音を聞きとった。静かゆえにあたしは怖くなった。玄関のほうから折れてきた足先が見えたとたん、あたしは身をすくめた。
「アオイちゃん、こんばんは」
「……莉里乃さん! こんばんは」
 一瞬、悲鳴をあげそうになっていたが、あたしは息を呑んでどうにか堪え、次には気が抜けたように挨拶言葉を返した。
 莉里乃がこっちまで来るより早く、あたしは駆け寄った。

「どうしたの? アオイちゃん、お化けに会ったみたいな顔してる。確かにここは昭和の古い感じが残ってる部分もあるけど、二十二年間、わたしは幽霊とかお目にかかったことないわよ」
 あたしより背の高い莉里乃は、からかうように首を傾けた。
「だれもいないみたいだったから、急に足音がしてちょっとびっくりして」
 あたしは首をすくめると、莉里乃の腕のなかを覗きこむ。
「泰司(たいじ)くん、またおっきくなってる」
 まもなく生後六カ月になる泰司は見るたびに丸々と大きくなっていく。泰司は称賛だとわかったかのように、あたしを見上げて笑った。

「でしょう。もう暑いし重たいしでたいへんなの」
 うんざりしたように云っても、莉里乃がはじめての子育てに少しずつ自信を覚えていって、なお且つ楽しみも得られているのが見て取れる。
「でも子育ては憧れる」
 好きな人の子供なら。あたしは内心で密かに付け加えた。同時に罪悪感が頭をもたげる。よほどその憂いがあたしの顔に出ていたのか――
「あら、アオイちゃん、二十歳だし……あ……まだ手遅れって嘆くには早いでしょ」
 莉里乃は慌てたふうになぐさめた。

「嘆いてるんじゃなくて、莉里乃さんがうらやましいと思って」
「わたしが? わたしは、子育てはもっとさきでよかったかなって思ってるかも。すぐ妊娠しちゃってふたりきりの新婚生活ってあまり経験できなかったから」
「莉里乃さんは結婚早いですよね。亮司(りょうじ)さんとふたりとも大学を卒業してすぐだし」

 亮司は、和瀬ガードのパートナーである瀬尾家の次男だ。でれでれしたところはないけれど、ふたりからは、愛し合ってます、という雰囲気がにじみでている。それを本人は気づいているのか、莉里乃はおどけたように首をかしげた。

「亮司とは同級生だし幼馴染みだし、どうせ決まってることだからそれなら延ばすより、すぐのほうがいいってなったの」
「……決まってること?」
 訊きたかったことは、莉里乃のほうからきっかけを与えてくれた。
 莉里乃は、あ、と口を開き、しまったという表情を見せる。
「一寿にも婚約者になる人がいるって、莉子姐さんから教えてもらったの。だから、莉里乃さんが決まっててもおかしくない」
 そう云うと、莉里乃は降参だというふうに首を横に振った。

「そう、決まってたこと。最初は啓司くんとどっちかって云われたけど、啓司くんはなんとなく怖かったし、気を遣わなくていいのは亮司だし……」
 啓司は瀬尾家の長男だ。怖いと莉里乃が持つイメージと、あたしのウィットに富んだとっつきやすい人というイメージはまったく正反対で不思議だ。
「好きなのも亮司さんですよね」
 ためらいがちにした莉里乃のあとをあたしが引き継いだ。笑い声が廊下に通る。
「結婚してるんだから照れることないんだけどね」
「……やっぱり……」
「やっぱり?」
「ううん、なんでもないです」
 やっぱりうらやましい。そう云えば、妊娠中絶したことを除外して莉里乃はあたしの事情を知っているだけに困らせそうな気がして、あたしは云わなかった。

「あ、行きましょ。アオイちゃんを呼びにきたんだったわ」
「呼びにきた?」
「ごはんよ。おなかすいてるでしょ」
 すっかり忘れていた。
「そうでした。だから出てきたんだけどだれもいない感じ」
「みんな事務所にいるわよ。行きましょ」
 そうは云いつつもやはり静かで、訝しく感じながら莉里乃について事務所のほうに向かった。

 “よろず屋・和久”と小さな看板のあがった事務所は玄関の横にある。
 和久井家に来た当初、よろず屋が何か訊ねたら、なんでも屋だと教えられたけれど、いまだにあたしそどんな仕事をやっているのかがよくわからない。つい最近、一寿にそう云ったら、だからなんでも屋だろ、と一蹴された。

 家のなかから行けるドアを開くと、まずは事務所専用の休憩所を兼ねたLDKの部屋がある。ちょっと湿った空気やら匂いやら、料理をした気配は感じとれるのに、そこはもぬけの殻だった。

「だれもいないけど……」
「事務所のほうよ」
 部屋を横切り、莉里乃に促されて事務所に出るドアを開けた。すると、暗がりで何も見えない――と思ったとたん、パッと照明がついた。そして――
「アオイ、二十歳の誕生日おめでとう」
「お嬢、誕生日おめでとうございます!」
 そんな言葉に迎えられた。

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