魂で愛する-MARIA-

第8話 恋儚−コイハカナ−

# 50

 一寿は、なぜかリビングから玄関へと出る側ではなく、キッチン側の階段に近いほうから出ていった。
「二重人格もいいところだわ。仕事だって云われればそれまでだけど」
 莉子は呆れた様でつぶやき、キッチンから出てくるとできたてのコーヒーを三つテーブルに置いた。
「莉子姐さん、せんじゅうあおいさん、て?」
「一寿の婚約者よ」

 あまりにさり気ないひと言で、一瞬あたしは婚約者と友だちが同義語かと思った。
 莉子は目を丸くしたあたしを見て、気になる? と首をかしげる。からかっているよりは様子を窺うようだ。

「気になります。そういう人いるって思わなかったから」
 隠すには正直に云うほうがいい。そうしてみると、ごまかすことに成功したのか、莉子はおどけた顔を見せ、ほっとした。
 考えてみれば、婚約者とは云わないまでも一寿にはカノジョがいてなんらおかしくはない。大学生だった頃でさえ、女に不自由しているふうではなかった。隙はどれだけでもあったのに、あたしを一度しか抱く気にならなかったのが証拠だ。

「一寿があなたを連れてきたとき、アオイって云うからびっくりしたのよ。毎読(まいどく)新聞は知ってるわね? 千重アオイさんはそこのオーナーの孫娘よ。アオイと……あなたと同い年。正確に云えば、婚約者じゃなくて、婚約者になる人ね。いまは相性を確かめてる」

 婚約者になるために相性を確かめている?
 それはいびつに感じた。

「喋りすぎたかしら」
「あたし、トイレいってきます」
 唐突なぶんあたしの意図は露骨だろう。
「はい、いってらっしゃい」
 莉子はおもしろがってあたしを送りやった。

 玄関に近いほうのドアを出ると、ちょうど階段口のほうから一寿が出てきた。その背中をこっそりと追う。玄関口へと出る曲がり角であたしは足を止めた。
「史伸(しのぶ)さん、こんばんは。ご足労かけました」
「いいえ、こんばんは」
 和久井がいちばんに声をかけた、しのぶ、というのはだれだろう。若い男の声が挨拶に応じた。
「和久井さん、すごくここって物騒じゃない?」
 次に聞こえた、物騒というわりにおもしろがった声は、オレンジの香りがする砂糖菓子みたいに糖度高めで甘酸っぱい雰囲気だ。

「怖がらせましたか。そうであれば注意しておきます」
「ううん。いちおう聞いてはいたし、だから、おもしろいと思って」
「さすがにオーナーの孫ですね。怖がるより好奇心が強い」
「見直してもらえました?」
「最初からアオイさんにマイナス面があるとは感じてませんよ」
「ありがとう」
 そう云った声には笑みが滲んでいた。

「これは明日でよかったんだと思っていました。電話では……」
「ピアスはほんとに明日でよかったの。わたしが和久井さんに無理やり預けてたんだから。それに、片方なくなってるからもうすることはないし。ただ、せっかく車の免許を取ったから、ドライヴの口実にしただけ。危ないってだれかが助手席に乗らないと運転させてもらえなくて、運良くお兄ちゃんがいたから」
「おれにとっては、運が悪い、だ。二度、死にそうになった」
「そんなことない!」
「ああ、三度だ」
「ひどい!」

 会話のなかで、アオイと史伸が兄妹だとつかんだ。あたしも好奇心は強い。そんなちょっとした対抗心を覚えながら、あたしはその場にかがみ、壁の端に躰を寄せて頭をわずかに傾けた。
 一寿の背中が見え、おそらく史伸の躰がその向こうにある。そして、斜め前にカノジョはいた。
 肩より少し長めの髪は毛先がカールして浮き、色も茶色みが強く軽やかに見える。顔ははっきり見えるわけではないが、その声のとおり可愛い印象を受けた。

 そして、あたしが何より驚いたのは、一寿の笑い声だった。それ以上に、衝撃だった。一寿がこんなふうに声をあげて笑うなんて見たことがない。そうするほど、彼女には気を許しているということなら――。
 さみしい。
 そんな言葉が漏れた。
 自覚している以上に、あたしはきっとショックを受けている。
 おれがついてる。そんな言葉を鵜呑みにして、いつのまにか当てにしていたんだろう。あたしをいちばんにしてくれる人がいるわけがない。
 上品そうな出で立ちが似合う彼女とあたしが対等になれるはずもなかった。

「僕でよければ付き合いますよ」
「ほんと!? うれしい」
「和久井さん、寝た子を起こしてますよ」
「よけいなお世話でしたか」
「全然よけいじゃない。来月は大学も休みに入るし、和久井さんの都合に合わせます!」
「承知しました。では、これを」
「ありがとう。もう片方のピアスを収集するのは趣味みたいになってるから」
「いい趣味だとは云わないでおきます。車まで送りましょう」
「はい」

 玄関の開閉音がして遠ざかる足音は、そのままあたしから一寿もまた去っていくんだと実感させた。
 和久井家に来て三カ月、ここの生活に慣れて安穏としていたけれど、あたしはここにいていいんだろうか、と、そう思ってしまった。
 けれど、名前をなくしたあたしには、未来なんてものはなく、自分で生活していくための働くということすら難しいかもしれなかった。

「ここで何してる」
 あたしはぼんやりしていたらしい。急に一寿の声が降ってきて、慌てて立ちあがった。それでも見上げなければならないほど一寿は近くにいる。
 あたしは一拍置いて、なんとかかわす言葉を見いだした。

「同じ名前の人だから興味があった」
「いくらだっている」
「うん、たぶんね。でもここを訪ねてくる人はそういないよ。同じなのは偶然?」
「じゃなくてなんだって云うんだ?」

 一寿はいつもの冷たい云い方に変わった。それがあたしの価値のように思えた。

「偶然て残酷」
 あたしは精いっぱいで反抗心をぶつけた。

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