魂で愛する-MARIA-

第8話 恋儚−コイハカナ−

# 49

 可愛いっすね。
 二十歳になるってぇのにまだ子供って感じだな。
 タケ、あんただって勉強は睡眠導入剤だったでしょ。鉛筆が目に突き刺さりかけたことが何回あったかしら?
 兄貴、おれと一緒っすね。
 一緒にすんな。姐さん、十年もまえの話はナシっす。タツオの手前もあるし、頼みますよ。
 忍び笑いが聞こえ――
 タツオ!
 バシッと音がして――
 兄貴、痛いっすよぉ。
 ばかやろー、おれだからこんくらいですむってぇ憶えとけ。

 可笑しそうな笑い声がしたかと思うと、次には長いため息に変わった。
 普通にない経験をしてるのに、よく耐えられてる。それでも無邪気に見えるのは、本当にそのとおりか悪女か……。
 アオイさんは悪女じゃないっす。
 お嬢は悪女と違いますよ。
 あらあら。わかってるわよ。この子は強い。影のある笑い方はするけど、めそめそはしない。アオイの名前を聞いたときはびっくりしたけど。……どうにかならないかしらね。
 どうにか、ってなんっすか、それ。
 ああ、いまのはわたしの独り言。気にしないでちょうだい。
 アオイさん、あさっては酔っぱらってうっ憤、晴らしてくれるといいっすけどね。
 ほら。内緒。
 あ、すんません。

 言葉遣いも手も荒いけれど、平和という言葉が似合う会話がひとしきり飛び交っていた。

 おまえが可愛い。その言葉にどんな気持ちが込められていたのか。
 耐えて生き延びろ。その言葉にどんな願いが込められていたのか。
 吉村はだんだんとあたしから遠ざかっているような気がする。
 一寿に打ち明けたとおり、何をしていいか、あたしは生きていくための理由を見失っていて、さみしくて心細い。

「眠り被ってないで頭と手を動かせ」
 いきなり太い声がして、命令口調に被せるように何かを叩きつける音がした。
 手に伝わる振動を感じながら、あたしはハッと目が覚めた。
 ほぼ目のまえに英語の辞書を持った手が見え、それをたどって顔を上げていくと一寿が立っていた。
 呆けて間抜けな顔をしているかもしれない。莉子たちがこっそり笑っているのを目の隅に捉えた。

「ちょっと休憩してたの。けっこう……」
 と云いながら見た手もとは、一ページもすんでいない。
「けっこう……がんばってる」
「おまえの“がんばる”は簡単だな」
 遠慮がちに云ったことをすかさず一寿は抉(えぐ)ってくる。
「一寿が一緒にやってくれたらもっと進むかも」
「できるかぎり付き合ってる。怠けてそれを無駄にしてるのはおまえだ」
 一寿は容赦ない。そのとおりだというのは情けない。
 何もすることがないから、一寿がずっとまえ付き合いかけてくれた勉強をしてみたいと云ってしまったのが運の尽きだ。ますます退屈になった。
 アオイはうつむいてため息をつくと、ペンシルを握り直した。

「ちゃんとやる。今日はもう仕事は終わり?」
 日曜日でもやっぱり一寿は仕事だと云って朝から出ていった。もう、と云ってしまったとおり、まだ四時で、いつもより帰宅が早い。
「ああ」
「じゃあ、あと一時間は集中して英訳する」
「じゃあ、じゃない。黙ってやれ。タツオ、タケ、もういい」
「はいっ」
 ふたりは敬礼しそうな勢いで返事をするとリビングから出ていった。
 同時に一寿も背を向ける。着替えに行くのだろうと思ったとおり、五分もたたずにラフな恰好で一寿は戻ってきた。

 辞書を開いているあたしを一瞥すると、携帯電話をテーブルに置いたあとキッチンに行って冷蔵庫を開けている。夏物とはいえ、こんな暑いなかでもスーツというのは見ただけで汗を掻きそうだ。水分補給もしたくなるだろう。
 一寿はペットボトルを手にしてやってくると、監督をやる気満々だとばかりにあたしの目のまえに座った。

 ここに来てからの大きな変化といえば一つある。
 家にいたタツオは七月になって急に一寿の会社で勤め始めた。そのかわりに、二十三歳のタツオより二つ上のタケが昼間、家に常駐するようになった。ほかにももちろんうろうろしている人はいるけれど、一寿の忠臣の代表格らしい二人はいつも莉子と近いところにいる。莉子と一緒にいることが多いあたしは、必然的に二人がいちばん親しい。

 和久井組も丹破一家も、長は絶対的な存在としてあがめられているけれど、微妙に雰囲気が違う。
 京蔵は、怖さがあるゆえに触れてはいけないという存在だった。対して、寿直は、この人が云うのなら間違いないというような信頼感がもとになった絶対者だ。やくざで、やってはいけないことを平気でやっているのに高貴さが窺える。
 偏見だろうが、やくざと教養は相容れないと思うのに、一寿は大学まで行った。そのくせ、人を殺す。
 あたしのことで、間違いなくいかがわしい手段で死体を手配し、一方では警察をも動かしている。
 それらを考え合わせれば、和久井組はあらゆる方面に働きかける権力を持っているのだ。そうなると、莉子が云っていた“一族”という言葉が自ずと引っかかる。和久井組はその一族に属している。つまり、一族というのが巨大であることは察せられた。

「若頭、千重(せんじゅう)アオイさんが見えてますが」
 唐突に声がしたことよりも、あたしは同じ名前にぴくっと耳を立て、顔を上げた。
 タツオの声に重なるように一寿の携帯電話が着信音を流す。携帯電話を取りあげながらあたしを見る一寿の目と目が合った。
 すぐに視線は逸れて、一寿は立ちあがりながら携帯電話を操作する。

「一寿です。聞きましたよ、すぐ行きます」

 あたしにはけっして向けない丁寧さと穏やかな声は、なぜかあたしにショックをもたらした。

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