魂で愛する-MARIA-
第8話 恋儚−コイハカナ−
# 46
悲鳴の残響は空気のなかに紛れて、もとから悲鳴などなかったように蒸発した。一寿が醸しだす冷ややかな沈黙は、肯定を示しているのか、あたしは怯えてその答えを待った。
「おまえはまだ一月さんが好きなんだな」
「……まだ?」
その云い方が嘲るようで、あたしは無意識に問い返していた。
「まだ、だろ。三年もほったらかしにされて、いまだに『吉村さん』だ」
「でも、もう少しだって、あの日に云ってくれたの。方をつけるって。ほったらかしじゃない。ちゃんと考えてくれてた!」
「残念だったな。おまえのかわりに自由になったのは京蔵の妻、艶子だ。それがどういうことかわかるか」
少しも残念そうじゃない声が続けた言葉は、あたしに現実を教えた。
「吉村さんと……艶子さんが?」
認められないけれど、そんな答えしか出ない。
「それが一月さんを救うことになる。もっとも、それは手っ取り早い一方法であって、一月さんが自分で身の潔白を証明できないほど能なしだとは思えない。もう少しだっていう、なんらかの根拠を持っていたんだろ。だからおれたちと入れ違いに駆けつけられた」
一寿は、あたしと吉村の未来を完全否定しながら、望みを繋いだ云い方をする。口を閉じた一寿は試すようにあたしを見つめた。
「どうする?」
あたしのほうからなんらかの答えを出すべきだったのか、一寿は待ちくたびれたようなため息を漏らして訊ねた。
これからの一生の生活をおれが保障する。そう云ったくせに、一寿はまだあたしに選択権を与えている。
「あたしは……吉村さんを守りたい」
あたしは結局、吉村に危険なことをさせている気がした。
あたしが助かったことが奇蹟であるように、一寿たちが傷一つ負わずにいられたこともきっと奇蹟にすぎない。
一寿は人を殺(あや)めたことを少しも気に病んでいる様子はない。そういう世界だからこそ、あたしはいま確実に吉村に会うことよりも、ずっといつだって会えると思っていられるほうがよかった。
「それでいい。一月さんもわかってる。京蔵がおまえのマンションで死んだということは、助かったからこそ当然ながらおまえは疑われる。だれかをつるしあげなければならないとしたときに、おまえが対象となることもあり得る」
一寿は巧妙だ。あたしがだれのせいにもしないよう、あたしに答えを出させた。そして。
「おまえは死んだことにする」
まるで、『病院、行くぞ』と云ったときのように、一寿は信じられないことを淡々と口にした。
「……どうして?」
「さっきの話の流れでわからないのか。あのマンションから消えたおまえは、追われてもおかしくない。おまえをさらった四人めの首竜が存在していることになってる。首竜としては、おまえは京蔵を全面的に悪者にするための証人だ。如仁会からすれば逆に、おまえがいないほうが都合がいい。丹破一家を裏切り、首竜に寝返ったすえ殺されたって汚名を着せられる」
「それなら……」
吉村と会えることは永遠にない。何がいいのかわからなくなってくる。
「“それなら”?」
一寿は促したが、あたしは首を振って答えなかった。
いまだけでも確実に会えることを選んだほうがいい。そう云いたかったけれど、それがだれかにばれてしまえば、あたしがあの事件の現場にいたからこそ、吉村がただですむとは思わなかった。
「足のタトゥーは一月さんも知ってるのか」
「見せたことはない。でも、如仁会がひいきしてる病院だからわかると思う。艶子さんは少なくとも知ってる。病院で会ったから」
一寿は怪訝そうに眉をひそめる。
「偶然か?」
「ううん」
「艶子はなんと云った」
「パパのこと、変わったことないかって」
「それで?」
「何も云ってない。でも、土曜日、何かあるかもってことは云った。吉村さんに伝えてほしかったから」
「何があるはずだった?」
「わからない。ただ……『吉村を殺る』って聞こえただけ」
一寿はうなずいてひとつ息をついた。
「結局は一月さんにとって、いいほうに転がったのかもしれない」
「吉村さんは大丈夫なの?」
「一月さんは自分の面倒くらい自分でみる。おまえは自分の心配をしろ」
一寿はあたしの腰もとに纏いつくふとんをはぐった。
「異常に出血してないか見てこい。トイレはそこのドアだ」
指さし案内をされて、あたしははじめてここが和久井家ではないと気づいた。
「ここ、病院?」
「ああ」
それにしては贅沢なつくりに思えた。あたしが知っている病室とはまったく違い、ホテルのような感じだ。
セミダブルのベッドが二つ並んでいて、あたしが使っていない側のベッドの枕が少し窪んでいる。部屋を見渡して、窓が目につけば、レース越しに明るんだ空が見えた。
「カズ」
「一寿、だ。おれをそう呼ぶのは丹破一家の連中と、“死ぬまえ”のおまえだけだ」
「……どうやって死んだことにするの?」
「おまえに似たかわりの死体を探す」
「あたしのために人殺しなんてしないで!」
「殺しはしない。おれは、死体を探す、と云った。裏の社会ではどんな職業もまかりとおってる。凡人が見てる世界は、こうあるべきだと思って見ている世界にすぎない」
一寿は難しいことを云う。ただ、丹破一家とはやはり云っていることがどこか違う。彼らは自分の主張を押し通すだけだが、一寿は受け入れてこなしている鷹揚さが見える。
「もうすぐ食事が来る。念のため、今日もここに泊まるんだ。おれは朝食とったらここは母さんと交代する。おとなしくできるな? 夜にはまた来る」
一寿がそう云って、あたしは云いかけてさえぎられていたことを思いだす。
「カズ……一寿、面倒かけてるのに泊まってくれてありがとう」
何かを期待していったわけではなく、ただ云いたかったから云った。
床に足をおろして立ちあがり、トイレだと指差されたほうに向かう。すると。
「アオイ」
呼びとめられた。
「これからさき、何があろうと、おれがついてる」