魂で愛する-MARIA-

第8話 恋儚−コイハカナ−

# 45

 薄らとだったが、ふと意識が還る。動きまわるような気配とドアの開閉音が聞こえ、静かになる。無意識に耳をすますと、かすかに川のせせらぎのような音を捉えたが、神経を尖らせておくのも疲れて、聴力を通常に戻すと何も聞こえなくなった。
 そして、携帯電話の着信音だろうか、音楽が流れだして意識が目覚めると、また眠っていたと気づかされる。

「はい、一寿です」
 一寿が応じて相手が名乗ったのだろう、ほんの少し時間を空けたあと――
「一月さん、お久しぶりです」
 その言葉にあたしは自分の現状も思いだせないまま、ただパッと目を開けた。
 たったそれだけの動きを察したように、一寿がすぐ傍に来て、あたしを見下ろした。

「……ええ、僕も情報網は持っているつもりです。報道もされていたし、察せないほうがどうかしてます。それでアオイは? 見つかったんですか?」
 一寿はあたしのまえで平然と惚けた嘘を吐いた。その眼差しは、黙っていろ、と無言で脅している。
「……わかりました。こっちも全力で追ってみます。一月さんは大丈夫ですか。……はい、仲介人が必要であれば声をかけてください。首竜(しゅりゅう)はマフィアといっても構成員同士の繋がりが薄い。そのぶん、落とし前のつけ方もいろいろありますよ。知ってる奴もいますから。……はい、失礼します……」

 電話が切られる寸前にあたしはハッとしながら起きあがって、一寿の耳に手を伸ばした。
「よ――っ」
 一語さえまともに云わせてもらえず口をふさがれたすえ、一寿は耳から携帯電話を離すと無情に通話を遮断した。
 一寿の手が離れてもつかまれていた頬が痛む。
「もう二十歳になるのに相変わらず、何もわかってない」
 あたしの責めた眼差しに気づいてか、一寿は逆にあたしを責めた。
 ただ、その言葉で、このところ疑問に思っていたことの答えを見いだした。

「……カズ?」
 一寿はため息をつきながら一度だけ首を振った。
「いま頃になって気づいたのか」
「……三年もたってて、大学生のときとは恰好も雰囲気も違う。カズが人殺しができる人だなんて思ったこともなかった。それに、最初はカズもあたしがわからなかった」
「おれが?」
 一寿は目を細め、心外だといった声音で問い返した。
「あたしの名前訊いて……」
「血だらけの顔を見て、わかれというほうがどうかしている。九十九パーセント、おまえだってことは見当つけていても」

 一寿がカズかもしれないと疑い始めたのは、暴力団の抗争だというまさしくあたしが関与した事件のテレビの報道を見て、思いだしたくもない驚怖のシーンを思いださせられたときだ。
 一寿の口から『一月さん』という言葉が飛びだしたことを、あの怖さに塗れた思考のなかでも敏感に聞きとっていた。兄貴とか頭(かしら)とか、吉村のことをそう呼ぶ人はいても『一月さん』と呼ぶ人は一人しか知らなかった。
 一寿は二十五歳で、今年、二十六歳になるはずだ。見切れなかったのは最初に年齢を三十歳前後と判断したせいだ。

「……あそこにあたしがいるって知ってたの?」
 あたしはためらいがちに訊ねてみた。一寿の『見当をつけていた』という言葉は、訊けば話すといったきっかけをつくってくれたように思えた。
「当然、乗りこむまえに調査はする」
「吉村さんにも内緒で?」
「時間がなかった。情報が直前で取れたんだ。時間があれば、首竜の奴らが死ぬことはあっても京蔵が殺されることはなかった」
「首竜って?」
「密入国を主にしている中国系マフィアだ。おまえが助けられたのは運がよかったにすぎない」
「パパのお客だった二人は?」
「パパ? 京蔵はそう呼ばせてたのか」

 一寿は能面みたいに動かない表情をわずかに変化させた。もちろん笑うはずがないけれど、その意味を読みとれないあたしには穢らわしいと退けられたようにも感じた。が、そう思ってしまうのはいまさらで、一寿にとってはすでにあたしは軽蔑の対象になっている。
 おなかの子が京蔵の子供だったことは診察のときに打ち明けた。
 病院に来て、妊娠していることが確定し、同時に流産しかけていることもわかった。あたしは迷わなかった。
 京蔵のラブドールとして在ったあたしも、迷わずに、赤ちゃんはいらない、と云ったことも、一寿にはもう充分あたしに対する侮蔑の要素になる。

「京蔵さま、なんて云うよりずっとマシ」
 その言葉には自分でもびっくりした。あたしは思いのほか、母に対してなんらかのこだわりを抱いているのだ。
「そのくらいの気持ちを持って生きていけ。おまえは、もうどうやっても一月さんとは一緒にはなれない」
 一寿は怖いほどきっぱりと云いきった。

「なぜ?」
 呆然として声を失った気がしていたが、かすれた声がかろうじて一寿に問う。

「京蔵が死んだからだ。一月さんはほぼ自動的に丹破一家の総長になる。京蔵の客は首竜との密売仲介人だ。仲介人と共謀して薬物と銃をくすねたことになっている。汚点で世間を騒がせたことの責任は大きい。如仁会に対して、一月さんは代表者としての落とし前をつけなければならない。なお且つ、自分は係わっていないという証明も必要だ――」
「吉村さんは大丈夫なの? 殺されるの? だから一緒になれないの!?」
 一寿が云い終わらないうちに問いただしていく声はだんだんと甲高く、最後には悲鳴になった。

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