魂で愛する-MARIA-

第8話 恋儚−コイハカナ−

# 44

 斜め前に座る一寿の視線が、硬直したあたしの顔に注がれる。受けとめる自信がなくて、ご飯をつつくお箸に目を落としたまま顔を上げられない。

「そうだとしても、ここで云うことじゃない」
「ここだから云ったんじゃない? 違ったらそれはそれでいいし、違わなかったら、遠慮して秘密にしたまま手遅れにならなくてすむ。いまは気まずいかもしれないけど、長い目で見たらアオイは安心できる」
 莉子が云いきると、だれもがお箸を止めていた食事の席はしんと静まった。

「莉子の云うとおりだ。経緯は承知している。アオイが気に病むことはない」
 沈黙を破ったのは寿直だった。
 思わず顔を上げ、長の位置に座った寿直に目を向けると、あたしに向かってうなずいて見せた。寿直が何気なく口にお箸を運ぶのを見ると、本当に大したことがないのだと思わせられる。
 正面に座ったタツオは同意するように、隣に座った莉子は当然だといったようにうなずいた。
 あとは一寿だ、と見れば、まったく表情が窺えない。むしろ、面倒くさがっているように感じた。

「わかった。篤生会(とくせいかい)に予約を入れる。付き添いは頼みます」
 一寿はため息を吐いて応じた。


 やくざがどういう人となりをしているか、それはわかっている。けれど、長年、その長の傍にいたにもかかわらず、隔離されていたせいで彼らが昼間に何をしているかというのはよく知らない。和久井家に来てはじめて、普通に仕事をしている人もいるのだとわかったくらいだ。
 彼らなりの役割分担があるようで、組員がどれほどいるのかは知らないが、昼間の和久井家は、タツオとあとは通いで数人が常に待機しているくらいだ。朝に挨拶を兼ねて寿直の外出を見守る者もいれば、夜に立ち寄る人もいる。
 一寿は父親と同じ仕事場のようだ。ほぼ一緒に出ていく。
 “――のようだ”と推測になってしまうのは、あたしがだれにも訊けていないせいだ。

 今朝の朝食で莉子も寿直もあたしの存在を認めてくれたけれど、あたしの立場はやっぱり曖昧だ。
 毎日、何もすることがないから、広いお屋敷の掃除に勤しんでいる。あたしの自由は和久井家の敷地内にとどまる。一寿から一切ここから出ることを許されていなかった。

 莉子が、わたしが一緒なんだから買い物するくらいいいんじゃない? と云っても一寿は聞く耳を持たない。莉子があたしの服を買いに連れていくと云いだしたときはわくわくした気分を久しぶりに味わえたけれど、呆気なくしぼんだ。
 莉子が莉里乃を連れて選んでくれた服は充分気に入った。それ以上を望むのは、あたしにはきっと分不相応なのだ。
 躰を要求されないだけで、監禁されているのは変わらない。それでもあたしはもう慣れてしまっていて、外に出られるぶんだけ解放感は得られていた。玄関先とその裏側と、それぞれに庭があって、太陽の光をまともに浴びれば、栄養を得たような気分になれる。

 けれど、今日はそうしても沈んだ気分が晴れない。
 篤生会というのが病院だというのはあとで莉子が教えてくれた。病院に行けば、妊娠が断定されてしまう。そうしたら、覚悟と決断をしなければならない。
 迷うまでもない。だからこそ、罪悪感が一生ついてまわる。すでに、その重みを背負っているかのように下腹部にはあの日から鈍い違和感がある。体内に自分とは別個の生命体がいるのだから、つわりも同様、ちょっとした拒絶反応みたいなものかもしれない。

 夜の食事は、タツオほか男たちが準備してくれる。寿直も一寿も帰る時間がまちまちで、守衛係の組員たちはふたりのいずれかが帰るまで待つため、必然的に夕ごはんを和久井家で食べることになる。
 彼らが一塊(ひとかたまり)になって食べるさなか、あたしは莉子とふたりで食事を終えた。入浴をすませると、二階にある部屋に引きあげた。
 莉里乃の部屋は、キッチンが今時の仕様であることを除けば、この家で唯一の洋室だ。広い部屋なのに、どこかこぢんまりと見せるほど馴染みやすい。あたしがここを使っていると知っても莉里乃は少しも嫌がることはなく、それがますます居心地のいい空間にしている。

 ベッドの上に腰をおろし、そのまま横になったとき、急におなかが重くなって腰にさすりたくなるような痛みを覚えた。一瞬にしてそれは消え、けれど、躰の中心から何かこぼれるような感触がした。慌てて起きあがると、確かめてみた。量はわずかだが出血していた。
 莉子に云うべきか、あたしは判断するのをためらった。結局は、病院も診察時間は終わっているし、和久井家を大騒ぎさせたくないという気持ちがあって云わなかった。単純に月のものが始まっただけかもしれない。そうであることを望んでいる。


 一寿が仕事から帰ってあたしの部屋を訊ねてきたのは十時をすぎていた。一日の終わりに一寿が顔を合わせに訪れることは日課で、ノックなしでドアが開いても、いつものことで驚かない。

「明後日予約を取ってる」
 まだ着替えもせずスーツのまま入ってきた一寿はいきなり予定を告げた。あたしはベッドの上に起きあがって、傍にそびえた一寿を見上げた。
「なぜ云わない?」
「はっきりわからなかったし……どうしていいか……わからなかったから」
「どうしていいかわからないなら訊け」
 一寿は吐き捨てるように云った。冷たく聞こえても、一寿の云い分はもっともだ。
 あたしはおずおずとうなずいた。

「受動的体質が身についてるな。だれの子だ。それともわからないか」
 軽蔑してこそなのか、一寿は残酷な質問を平気で口にした。
「わからなくはない。でも……」
「なんだ」
「少しだけど出血してる。生理かもしれない」
 そう打ち明けてみると、一寿はつかの間、凝り固まったような気配を纏い、そしてジャケットのポケットから携帯電話を取りだした。操作後、耳に当てながら空いた手であたしの腕を取る。
「病院、行くぞ」

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