魂で愛する-MARIA-

第8話 恋儚−コイハカナ−

# 43

「タツオは味噌汁、アオイはごはんよ」
「へい!」

 和久井家に来て十日、ここに慣れることもなく、環境が変わったことを受けとめることもできず、ただテレビのドラマを見ている感覚でこの家を眺めてきた。
 タツオは命じられるまま、さっそくお椀に味噌汁を注いでいる。
 タツオは和久井家と血の繋がりはないが、一緒に住んでいる。五分刈りの頭に、太って見えるほどの厳つい容姿を持ちながら、あたしにも低姿勢だ。アツシが吉村に対するように、タツオは和久井家のだれもに忠実なのだろう。

「アオイ! ぼんやりしないでさっさとおやり」
 迫力満点で容赦なく催促したのは、一寿の母親、和久井莉子(りこ)だ。
 あたしは背筋を伸ばして、はい、と返事をした。

 監禁場所からさらわれ、一寿に連れられてきたのは彼自身が住む家だった。木製の塀に囲まれ、木々が家を隠蔽して外からは全貌が窺えない。敷地内に入れば、丹破家と同じくらい広かった。その職業とは――職業とするには云いはばかってしまう存在だが、それとは不釣り合いな品格すら感じた。昔風だからそう見えるのか。

 敷地内には、見当をつけていたとおりの重々しい雰囲気があった。ところどころに見張りの男たちがいる。彼らは長年、あたしの周りを占めていた男たちとなんら変わらなかった。
 けっして助けられたわけではなく、囲い主が変わっただけかもしれない。また同じことが繰り返されるのだと思った。
 男たちは平気で品格を捨て、動物の本能に夢中になる。
 わかっていたのに、あたしは一瞬で一寿を信用して頼った。あのとき、自分で行動すれば手に入れられたかもしれない自由を自分で遠ざけたなんて、あたしは男より単純でばかだと泣きたくなった。

 けれど、いまのところ思いのほか、丁重な扱いを受けている。
 一寿には二つ下の莉里乃(りりの)という妹がいるが、すでに結婚をしてこの家にはいない。あたしはその莉里乃の部屋を使わせてもらっている。食事もこの家の住人だけですませるときは、莉子とタツオと三人で作って、そして同席して食べる。
 そんなふうに、客としてではなく、家族に近い扱いをされている。それが周囲にも次第に浸透しているのか、出入りする男たちは、会えば挨拶をしてくるという申し訳ないほどの丁寧ぶりだ。
 だから、居心地が悪いわけではなく、ただあたしには素直にそれらを受け入れられない理由があった。

「アオイ、ぼんやりするのって、まだよく眠れないせい?」
 しゃもじを手に取ると、莉子が唐突に訊ねた。
「少し寝付きが悪いくらいです」
 莉子は、形を整えた眉を跳ねあげ、それからため息を吐いた。

 艶子と同じで、莉子も見た目だけでは歳をうまく割りだせない、きれいと云った類いの容姿だ。実際は隠すことなく、五十歳だとあっさりと実年齢を告げた。初見の人は、莉子がこういった家業に属しているとは思わないだろう。美人という要素と、歯に衣(きぬ)着せぬ物云いを除けばごく平凡な主婦の雰囲気だ。性格はさばさばしすぎの嫌いがある。

 ここに来た翌日、いつまでもベッドにこもったあたしを強引に連れだしたのは莉子だった。家事の手伝いをさせられたが、吉村のことや妊娠のことから離れられるという効果をもたらした。

「残虐なシーンを見れば、そうなってもしかたないんだろうけど」
 そう云って肩をすくめると、莉子は漬け物をお皿に盛り始めた。
 一方であたしはジャーのふたを開けた。すると、炊きあがりの匂いがやけに鼻を突いて、めずらしく胃に不快感を覚えた。思わずふたを閉める。
「アオイ?」
 何を気取ったのか、莉子は首をかしげながらあたしを呼んだ。
「あ、ちょっと湯気が顔に当たって熱かっただけです」
「……そう?」
 莉子はわずかに首を傾け、しばらく応えを待っているようだったが、あたしは気づかないふりをしてやりすごした。


 朝食は今日のように、一寿とその両親、あたし、そしてタツオというメンバーが常だ。
 和久井組の顔役と呼ばれる代表の座につき、一寿の父である和久井寿直(ひさちか)は五十四歳だというが、貫禄充分だ。顔のパーツは繊細に整っているが、それらがすべてそろったとき、人をおののかせる雰囲気を醸しだすのだろうか。一寿は、その息子らしく、受け継いでいる。

 あたしがここに来たとき、無様で汚い恰好でも寿直は顔を背けるようなことはしなかった。
 名はなんという? そう訊かれて、一寿と約束したとおり、アオイです、と応えると、寿直は俄(にわか)に目を見開いた。
 なんだろう、と問うてもいないからその答えが返ってくるはずもなく、あたしは次の言葉を待った。
 寿直はちらりと一寿を見て眉を跳ねあげると、またあたしに視線を戻し――
『悪いようにはせん、怖がることはなんらない』
 と、あたしの気持ちをなだめた。
 丹破家とは少し様子が違う。

「一寿」
 食事のさなか、思いついたように、というよりはいつ話しかけるか、機会を狙っていたような雰囲気で莉子が呼びかけた。
「はい」
「わたし、アオイはショックで食べられないのかと思ってたけど」
 と、ひと息空けた莉子は――
「アオイはたぶん妊娠してるわ」
 と、あたしを脅かした。

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