魂で愛する-MARIA-

第7話 籠妾(ろうしょう)−capture−

# 42

 銃声の残響が消えてしまうと、死の世界に来たんじゃないかと思うほど静けさに支配される。
「ケガはないな」
 あたしは身を縮めたまま、崖の縁で背中を押されたみたいにびくっとおののいた。
 緊迫したシーンだったにもかかわらず、第一声には緊張の欠片も見えない。当然の結果を確認しているにすぎない感じだ。

「丹破総長におまえの銃を持たせて空撃(からう)ちしろ。こっちの仲介人はおまえのだ」
「ヤクと銃はどうされます?」
「ほっとけ。警察が抗争の理由づけに使う」
「如仁会と中国マフィアの全面戦争にならなきゃいいんですが」
「相打ちだ、丹破総長に責任を負わせればすむ。どちらにしろ、如仁会総裁のお気に入りを殺(や)ろうしたんだ。破門に値する」
「自業自得ですね」
「ああ。一月さんももう情報を得てるかもしれない。急ぐぞ」

 リーダーの男に、二人の従者という構図の会話は終わり、足音がしだした。そのうちの一つがだんだんと近づいてくる。
 第三者のこの男たちが何者かはわからない。けれど、中国人たちの声がしなくなったことを思うと彼らが殺したに違いなく、警察がそんなことをするはずがない。つまり、同類なのだ。
 声を聞いただけで顔など見ていないが、危険を冒したくないならあたしはやっぱり殺される。
 これ以上に小さくはなれないほど縮こまっていながら、さらに脚を引き寄せる腕に力を込めた。

 足音はすぐ正面で止まった。すぐそこで動く気配がする。
「名前は?」
 ほぼ同じ高さから声が聞こえ、男がかがんでいるとわかった。ひんやりとしているが、低く落とした声に脅すようなイントネーションはない。
 それでも動けずに膝に額をつけたままでいると、再び名を問われる。
 なんて答えよう。
 迷うのは、最後だから本当の名で終わりたいと思うせいか。
 あたしはゆっくりと顔を上げた。

 目のまえには、防護用なのかゴーグルをつけた男がいて、その向こうからじっとあたしを見ている。あたしが驚いているのと同じくらい、その目はかすかに見開かれている。男はゴーグルを緩めてそのまま首に引っかけた。
「ケガをしてるのか。どこだ?」
 詰め寄るように訊かれても訳がわからず、あたしは顔を引きながら首を振った。
「殺すつもりはない、助けようとしてる。どこを撃たれた?」
「……あたしは、撃たれて、ない」
 答えると、男は思考力を働かせているように眉をひそめた。

 撫でつけたような髪に切れ長の目、その瞳が全体のイメージを作っているかのように鋭さと冷たさを備えている。落ち着いた雰囲気は二十代後半か三十そこそこだろうと思わせた。
「男たちの血か」
 結論づけた声がして、あたしは顔や躰に飛び散った血が付着していることを思いだした。
 あたしがうなずくと、男はため息をついた。

「おれは和久井一寿(わくいかずひさ)だ」
「あたしは……アオイ……蒼井毬亜」

 あたしの声は自分でもわかるほどふるえている。
 和久井という男が何者かも本当に助けてくれるのかもわからない。本当の名を云ったのは、終わりが来るときのために、父と母とあたしを、千切れそうでも繋ぎとめておきたいからだった。
 あたしの名を聞いた和久井は、何かに気を取られたようにふと目を逸らし、ほぼ無という表情をわずかに崩した。

「アオイ――そうとしか名乗るな。そうしてくれるなら清算してやる。これからの一生の生活をおれが保障する」

 あたしの一生に、そうするまでのどんな価値があるのだろう。
 吉村を好きで、けれど、好きだからこそ不安になって疑ってしまう。いま、京蔵が死んだ傍で、京蔵の子を宿して生き延びているあたしを見たとき、吉村はどう思うのだろう。
 判断がつかなくて曖昧に首を振ったそのとき、また銃声がして、あたしは頭を抱えこんで顔を伏せた。

「違う、怖がる必要はない。辻褄を合わせるための空撃ちだ。それより、どうする?」
 押しつけがましくはない。むしろ選択はすべてあたしにゆだねているような雰囲気に感じた。
 そのことが和久井を嘘吐きには見せなくて、ためらったすえ、あたしはうなずいた。

 アオイとしか名乗れない。それは毬亜が否定されたようなものなのに、いまの窮屈さから抜けだして、自分で考えられる時間がほしかった。
 そうしたら吉村と一緒にいられる自信も確信も芽生えるかもしれない。
――とそんなことを思うあたしはきっといまも正常に考えられていない。

 和久井は立ちあがると、部屋を出ていき、すぐに戻ってきた。
「立て」
 そう云いながらあたしの腕をつかんだ。引きあげられるまま、よろよろと立ちあがる。
 裸体にタオルケットが巻かれ――
「つかまれ」
 と、抱きかかえられた。
 和久井がそうしたのはあたしに惨状を見せないためなのか、死体を見ることもなく外に連れだされた。ドアの脇にも従者が配置されていたようで、部屋にいた二人が和久井を先導し、後ろをドアのところにいた二人がついてくる。終始、周りの様子を気にしながら、エレベーターは使わすに非常階段をおりていった。

 マンションの裏手におり立ったそのとき、エントランスのほうで車が急停車したのだろう、タイヤの擦れる音が聞こえた。

『急げ、八階だ』

 夜のせいか、くっきりと声が通ってきた。
「吉村さん」
 気づいたときはつぶやいていた。

 同時に、あたしを抱く腕がこわばった気がした。
 これまで何人もの男に抱かれてきた。そのなかで、嫌悪も不安もない腕を二つ知っている。いま、あたしを抱きあげる腕にも不快さは感じなかった。

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