魂で愛する-MARIA-
第5話 夜鷹−裏切りの遊戯−
# 27
あたしはすぐさまふとんに手を伸ばして引き寄せ、頭から被る。
「黙って見てるなんてひどい」
「アオイにプライヴェートな時間はない」
煽る、という発言にそぐわず、カズはいつものとおり至って冷静な声であたしの抗議を退けた。
「だとしても、ノックくらいしてもいいよね!?」
責めた声もふとんの下でくぐもり、勢いに欠けている。
「昨日も風呂入って得意の幽体離脱やったんだろ。この戸は開けっ放しだった」
「得意じゃないし、見なくてもいいと思う」
「だれかが入ってくる可能性をわかりきっててやってるほうが悪い。入ってきたのがおれでよかったと思え。襲われてもおかしくない状況だ」
反論はしてみるものの、全部カズの云うとおりだ。
目のまえに性的対象が存在して欲情しない男はめったにいないし、抑制が効く男もめったにいない。ラブドナーの特別客も、丹破家に集う男も、それなりに地位や経歴を持っているはずが、彼らはそれを簡単に放棄してしまう。
「こんな時間にだれかが来るとは思わなかっただけだし、こういうこと、いつもしてるわけじゃなくて、はじめてだから」
カズには何もかも見られて、あるいは聞かれていて、いまさらあたしが気取っていられることは何もない。カズも、たぶんあたしには知性も貞操も気品も求めていない。それでも弁解した。
「アオイが最低限で躰を守ってることは知ってる。だから幽体離脱なんてことをする。一月さんと電話で話して独り盛りあがったってとこか」
カズの推察にけちを付ける部分はない。あまつさえ、男たちに穢されても躰を許しているわけではないことを理解してくれているのだ。
妙に安堵して、あたしはふとんを剥ぐって頭を出した。ベッドの上に起きあがると、相変わらず何を考えているかわからない冷めた眼差しとかち合う。
「今日の時間、早くなったの?」
今夜は丹破家の宴の日だ。予定では七時に行けばよく、カズの迎えももっと遅いはずだった。
「今日は中止だ」
「中止……って?」
それははじめてのことで、あたしは中止という意味を把握するのに戸惑った。
「中止って中止だろ。ごはん、食べたのか」
「ううん」
「何が食べたい?」
「……カズは食べた?」
「まだだ。一緒に食おうと思って来た」
「じゃあ、ステーキのコース! 外食でもいいよね?」
「だめだ」
たまにカズを伴ってショッピングを許されるときがある。時間はあるし、期待したのにカズは検討もしないで却下した。
「今日はだめだ。おれが気分じゃない」
さっきから何かがおかしい。いや、おかしいことばかりだ。
吉村との電話の内容がどこかいびつであれば、予定外の時間に来たカズの云い分も唐突でちぐはぐだ。
中止と伝えるのにわざわざ出てこなくても電話ですむし、電話をかけてきた吉村は、宴が中止なら当然そう知っていたはずがそのことには触れなかった。
そして、今日、あたしはたまたま寝坊した。普通、いまの時間は食事をすませているという、あたしの習慣を知り尽くしているカズが一緒にごはんを食べたければ、あたしが起きるまえに、来るから待ってろ、などというメールをしておくべきだし、そんな手抜かりをカズはやらない。
一緒に食事をしようと云うわりに外食が気分じゃないとか、とても理由にはならない云い訳だ。
「出前をやってくれる美味い店を知ってる。そこに頼む。着替えろ」
カズは云い渡すと、ラフなかつらぎジャケットの胸に手をやり、ポケットから携帯電話を取りだしながら背中を向けた。
着替えろと云いながらカズは戸も閉めていかない。
カズにとってあたしには魅力がないのか、吉村とのセックスというあられもない姿を見たあとも、まったく冷静だ。無論、吉村ないし京蔵の圧力があれば手を出せないだろうが、きっとそれ以前に関心がない。カズは少なくとも外見上はモテそうだし、女に不自由はしていないはずだ。もとい、あたしの自慰シーンに遭遇しようと、あたしは興奮の対象外になるほど不潔なのだ。
あたしのカズに対するイメージは、優雅に気流に乗って舞う鳶(とび)だ。身近でありながら、けっして届かない場所にいる。この世界にいる人じゃない――つまり、住む世界がまったく違っている気がしている。
服を着てリビングに行くと、こっちだ、とダイニングテーブルのほうに手招きされた。近づいていくと、テーブルに重ねられている本があたしの興味を引く。何かと覗きこめば、中学生の参考書だった。
「これ何?」
「時間あるだろ。中学の課程くらい、すませておくのはどうなんだ?」
「……勉強って、友だちがいて学校でするからやっていけてたけど、独りでなんて無理」
「おれがいる間は教えてもいい」
普段ならそんな提案に軽く乗ってみるはずが、あたしは言葉の一つに引っかかってしまった。
「いる間、って? どういう意味?」
すると、カズは舌打ちしそうな気配で、わずかに眉間にしわを寄せた。
「大学を卒業したら家業を継ぐことになる。だから丹破一家の世話になるのもあと三週間だ。それまで……」
「たった三週間で知識が身につくわけないよ」
あたしはカズをさえぎった。
カズがいなくなるなんて考えたこともなかった。あたしがかまえなくていい相手は吉村とカズだけだ。それなのに、吉村はあたしの傍にいられなくて、カズはあたしのまえから消える。
「だから、三週間のうちに勉強する習慣をつければ、あとは独りでもやっていけるだろう」
「無理。第一、クラブで働いているときは歴史のこととか話題にするのに役に立ったけど、セックスの相手するのには社会も数学もなんの役にも立たない」
「一生、セックスの道具としてここにとどまっているつもりか?」
あたしは信じられないといった気持ちを込めて目を見開いた。
「あたしの意志では何も決められないし、自由もない。閉じこめられて、救ってくれる人もいないのにどうやって出られるの? カズは知ってるのに!」
「救う奴がいるなら出たいと思ってるのか」
救ってほしいのは一人だけ。ほかのだれにもそれを求めてはいない。
「カズ、吉村さんの立場って何?」
「立場?」
「あたしが吉村さんと一緒にいられない理由」