魂で愛する-MARIA-

第5話 夜鷹(よたか)−裏切りの遊戯(ゆげ)

# 25

 遠くに聞こえていたベルの音がだんだんと近づいてきた。それが先週買ったばかりの、日替わりの目覚まし音だと夢うつつで思い至り、手探りでサイドテーブルに置いた時計を見つけるとボタンを押した。けれど、一向に鳴りやまず、それが着信音だと考え直すまで少し時間を要した。
 さらに、めったにならない音がだれのものか、思考回路に浸透してくるとあたしははっと顔を起こした。
 携帯電話を取って通話ボタンにタッチすると、横向きに寝転がったまま耳に当てた。

「吉村さん?」
 勢いこんだところで寝起きの声は通りが悪い。ふっと吐息が聞こえたが、それは笑ったのだろうか。
『まだ寝てたようだな』
 その言葉に時計を見ると、正午をすぎたところだった。いつもだったら起きていて、ごはんでも食べている頃だ。
「お母さんから電話があって、一度起こされたから」
『電話があったのか。いつ?』

 それは奇妙な問いかけだった。
 吉村からあたしのものだと云ってもらった携帯電話は、発信と着信の番号がそれぞれに制限をかけられていて、母に電話することはできないが母からの電話は繋がるようになっている。電話に限って、母とあたしが話していることは知られているし、特別なことではない。
 それなのに、まるで電話があってはいけないような驚きが込められている気がした。いつも感情が声にのることはないのに、いまの吉村の声には確かに何かが潜んでいる。

「うん、六時半くらい。また大丈夫かって訊いてくるから、毎日、自撮りして写真を送ってもいいか、吉村さんに訊いておくって云っておいた。いい?」
『……ああ』
 たったそれだけの相づちがくるまで、首をかしげそうになるくらい、不自然に長い沈黙があった。写真を送るとなればメールを使うことになるし、そうなればあたしからも母に連絡が取れることになる。だから迷っただけなのか。

『アオイでいるのはつらいか』
 何かを喋ればすぐに電話は切られそうで、吉村が何か云うのを待っていると、思いもしないことを問われた。
 つらいと訴えれば、ここから出られて、吉村といられるならそうする。けれど、そうじゃない。きっと、そうできるときは有無を云わさず吉村は連れだしてくれる。
「慣れたからつらくない。耐えているだけ」
 ふっとした笑みは、まるで吉村が傍にいて耳に息を吹きかけられたようだった。神経が隅々までざわめいて、背中がぞくっとふるう。そうして漏れてきた二つめの吐息は笑みとは程遠い気がした。

『おまえはどうあっても変わらないな』
「そう?」
『ああ。男を支配して惹きつけて踊らせる娼婦のくせに、けしてそうは見えない』

 吉村がどういうつもりで娼婦呼ばわりするのかわからない。あたしは自分の意志でやっているわけではないのに。
 何を確かめるためにそう云うのか、ともすれば、ほかの男に抱かれるあたしを遠ざけているようにも思えた。あたかも、あたしが大事にしている、あの吉村とのセックスの時間を、おれとは関係ないと、もしくは、おれも騙されたと突っぱねているようだ。

「踊らせてなんかない」
『無意識にそうしてるから変わらないんだろう。おれが云ったことは憶えているな?』
 今日の吉村は、電話してくることから始まって何でもかんでも唐突だ。
「たぶん」
『たぶん?』
「吉村さんと話したことは全部憶えてるつもりだから、吉村さんがなんのことを云ってるか一つに絞れないだけ」

 三度めの“ふっ”に抱きしめてもらいたくなる。すれ違ったり同席するだけではなく、ちゃんと会いたい。吉村のモノで、躰の最奥を突かれるという未知の快楽を教えてもらいたい。

『忘れているよりは救いがあるな』
 本当はすぐわかったし、それは吉村にも通じている。
 生き延びろ。
 その言葉だ。
 それをなぜいま口にするのか。ただ、わざわざ思いださせることで、吉村があたしを突っぱねているわけではないことははっきりした。

「吉村さんはつらいことない?」
 吉村は深々としたため息をつく。
『ある』
 ないと云うかと思っていたのに意外だった。
「よかった」
『何がだ』
 呆れた口調だ。
「アオイでいることは耐えられるけど、つらいことはやっぱりあるの。だから、吉村さんと一緒だと思って」
『……ああ、一緒だ』
 少し間が空いた返事は、あたしのつらいことが何か――その会いたいというつらさを吉村はたやすく見いだしたはずで、あたしは本当に一緒なのだと思った。

『毬亜』
 あたしは逝きそうになるくらい躰の奥底からふるえる。
『おまえが可愛い』
 何も返す間がないうちに電話は切れた。

 吉村とはあの日以来、ふたりきりどころか、まともに会うこともない。
 何かのついでに高級エステ“ラブドナー”に立ち寄った吉村に、口での奉仕を要求されたすえ客が放った精液塗れの顔を見られたときは最低の気分にさせられた。
 丹破家で通りすがりに見かけたときは、話しかけられもせず、不安にさせられた。
 そして、蔵田に買われたお尻を差しだす、ほぼ週一の宴に同席するときは、最も悲惨で怖くてやるせない。

 宴では、だれかもわからない男に本来のメスの孔を犯されることもある。苦痛だった。あの部屋はあたしに一種のトラウマをもたらして、心だけでなく躰もまったく応えない。京蔵が云っていたようにあたしの孔は狭いのか、それが気持ちいいらしくて、あまつさえ、前戯としてラブドナーで学んだ奉仕に満足しているようで、大金――それがどれくらいなのかは知らないが、男たちは常々大金を積んだ甲斐があると口にして勝手に逝く。
 吉村には慣れたと云ったけれど、そんなことはなくて、ただ耐えてやりすごしている。吉村もそれを見抜いているに違いなく、だから、つらいか、と訊くのだ。

 吉村から失神するほど追いつめられた日から半年がすぎて、季節は春に移行している。その間に快楽がどんなものか、あたしは忘れた。
 吉村に抱かれたい。
 吉村の声が鮮明に耳に居残っているいまなら、吉村が教えた快楽の果てを思いだせそうな気がする。
 あたしはふとんを剥いで仰向けになると膝を立てた。

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