魂で愛する-MARIA-

第5話 夜鷹(よたか)−裏切りの遊戯(ゆげ)

# 24

 終わりがないという日々。
 それが幸せだったらそれでいいのだろう。転がり堕ちていく過程が、それまでに鑑みればあまりに非日常で強烈だったせいか、幸せという感覚はもう薄く、あたしにはよくわからない。
 忘れられない微笑。いまはそれが唯一の幸せとあたしの記憶から取りだせるものだ。けれど、終わるという以前の、一瞬という時の刻。
 きっと幸せが続くほど、その幸せは忘れ去られていく。だから人は幸せに気づかない。
 あたしは、忘れられない。
 あのときにそう断言したのは、それが一瞬とわかっていたからなのだ。

『おまえが可愛い』
 吉村の低い声はこの部屋にいつまでも残り、あたしの鼓膜をふるわせる。
「好き」
 それは耳からだけではなく自分のなかからも聞こえ、吉村にけっして云えない言葉を発してしまったことで、あたしは自分が夢を見ていると気づく。

 そして、着信音が鳴っているのに気づいた。
 母だ。
 曲からそう判断して、サイドテーブルに手を伸ばしながら、まぶたの重い目をなんとか瞬いて目を覚ました。まだ寝足りない感じがして、そのとおり時計を見ればまだ朝の六時半と、三時間くらいしか眠っていない。携帯電話を取ると、通話モードにしてから耳に当てた。
「もしもし、お母さん?」
 眠そうな声だと自分でも思ったが、電話越しにも伝わったようで、母のくすっとした笑い声がそよぐ。

 母とはあの日に会って以来――あれを会ったと云えるのかは疑問だが、この半年をすぎて一度も会えていない。丹破の家に何度も連れていかれたけれど、吉村に頼んでも会わせてもらえなかった。
 電話は定期的に母のほうからかかってくる。
 あの日から一日置いてかかってきた電話は、それだけ苦悩があったのだろうと、それがあからさまなほどためらいがちだった。おどおどしていたといってもいい。
 あたしはそのとき、何も変わったことはなかったと嘘を吐いた。もしも京蔵が、あるいはあの場にいただれかが母に漏らせばすぐにばれてしまうことだったが、母の心を弱らせたくなかった。
 母が自ら望んでそうなったとは思っていない。あたしのためと、そんな気持ちもあったことは充分わかっている。その結果、母が快楽に負けたとしても、あたし自身が吉村によってそうなったから、真っ向からは攻められない。
 その後、あたしがどんな目に遭ったのか、母が本当のことを知ったのかどうかはわからない。互いがあの日に触ることはなかった。

『おはよう。ごめんね、朝から』
「ううん。どうかした?」
『べつに用事はないんだけど。季節の変わりめだし、風邪ひいてないかと思って』
「大丈夫。あまり温度の変わらないところにいるから」
『そう。……あなたに変わったことがあれば吉村さんがちゃんと知らせてくれるって云うんだけど……』

 母は言葉尻を濁し、一方であたしは吉村という名が母の口から出たことに動揺してしまう。
 母との会話のなかで吉村の名は時折出てくる。あたしからは口にしないけれど、吉村がこんなふうにふたりの間に入ると、あたしは母が嫌いになる。同時に、そんな自分も嫌いになる。
 母は吉村の愛人になって間もなく、丹破一家が裏で取りしきるクラブのママとなったという。あたしがクラブで働くようになって、母があたしを守ってほしいと吉村に依頼していたことは、こうなってから知った。

「だから大丈夫だよ」
 おざなりに力づけたが、母は不自然に黙りこんでいる。
 吉村と母は、どんな表情でどんな声音で、そしてどんな眼差しで語り合うのだろう。母の声からも話し方からも、吉村に対する気持ちが見えたことはない。訊きたくて訊けない。そんなことを訊きたくなる。

「お母さん、吉村さんと……」
 気づいたときはそう訊きかけていて、あたしはとっさに口を閉じた。
「吉村さんに、毎日写真を撮ってお母さんに送っていいかって訊いておく」
 ごまかしたはずが。
『吉村さんのこと好きなの?』
 あたしは先を越され、母のほうからずばり核心を突いてきた。
「……お父さんみたいに思ってる。全然、本物とは違うけど」
 言葉に詰まったあと、母に訊かれたらそう云おうと思っていた云い訳をした。けれど、またもや母は黙りこむ。
 父のことを口にしたせいだろうか。父の行方は、もしくは結末はいまだにわかっていない。

『そうね。吉村さんは実力者のなかで唯一話が通じる人だから』
 ようやく口を開いた母は微笑んでいそうな声で応じた。
「お母さん、吉村さんを信用してるの?」
 あたしは言葉をかえて訊いてみた。
『あの人は立場があって、意に背くようなことを云ったりしたりすることもあるけど、裏切る人ではないと思ってるわ』

 あの人、とその言葉がひどく親密に聞こえた。
 意に背くようなこと、って例えばどんなこと?
 また訊ねたくなる。

『艶子さんには気をつけて。そうしたうえで吉村さんを頼るのよ』
 母はそう続けた。

 艶子は如仁会をまとめる総裁の娘だといい、だから丹破一家でも男たちに怯むことなく、それどころかほぼ対等に、あるいは目下に見た振る舞いがまかり通る。最初に予想したとおり、“あの女の娘”であるあたしへの風当たりは強い。
 ただ、扱いが冷たいというだけでほかに被害が及ぶわけでもない。母は何があると予期していて、あたしにどう気をつけろというのだろう。

「わかった」
『毬亜』

 母の口からも出ることがない。そんな名を母からいざ呼ばれるとあたしは戸惑う。あたしをそう呼んでいいのは特別な人だけ。そんな反抗心が集う。

「……うん」
『またね』
 笑っていそうな声でそれだけ云って電話は切れた。

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