魂で愛する-MARIA-

第4話 哀恋−あいれん−

# 20

 香ばしさが鼻をくすぐり、空腹感をいざない、あたしを眠りから浮上させる。ベーコンの香りだ。同時に、コーヒーの美味しそうな匂いもした。油をはねていそうなじゅうじゅうという音が立つ一方で、食器がかち合う音がする。

 なんとなく満ち足りて、あたしは深く息をついた。すると、頬の下で奏でられていたリズムがわずかに狂う。もう片方の頬をくるんでいた温かさが撫でるようにして落ちていき、ウエスト辺りでとどまった。
 あたしはゆっくりと目を開けるにしたがって状況を把握していった。
 顔を上向けると見下ろした吉村の目と合う。あのまま眠ったすえ、同じ姿勢でいたらしい。のけ反らせたのどをもとに戻して、隆起した胸に頬をすり寄せる。抱っこをねだるのは子供っぽいけれど、いまはそれだけの価値があるように思えた。

「吉村さん……ちゃんと眠りました?」
「おれのことは気にする必要ない」
 気になるから見ていたし、あたしのそうした気持ちを承知のくせに、吉村はできないことを云う。
「吉村さん……」
「なんだ?」
 その問いかけはおざなりではなく、本当に耳を傾けていそうに聞こえる。それは――
 吉村さんとあたしの間に母がいるせい?
 と、そんなことを訊きたくなる。
 母は京蔵のものになって、届かなくなったぶん、吉村はあたしを気にしている。昨日の会話は――カズはそう解釈していたんだと思う。
 これからのことも、知りたいことはたくさんあるのに、そのときがくるまで知らないほうがいい、と自分が自分を諭(さと)す。
 そんな迷いで何も云えないうちに戸がノックされた。

「失礼します」
 顔を上げて振り向くと、戸が開いて入ってきたのはカズだった。
「ここに置け」
「はい」
 カズは携えてきたトレイをベッドサイドのテーブルに置いた。ベーコンと目玉焼きにミニトマト、そしてトーストが二人分のっている。
「何を飲む? オレンジジュースかコーヒーかミネラルウォーター」
 その訊き方からあたしが問いかけられているのだと気づいた。カズから声をかけられたのははじめてで、あたしは砕けた調子に単純に少し驚いた。見上げると、カズは問うように首をひねった。やっぱり、吉村と同じ世界にいる人には見えなかった。
「……オレンジ」
「オーケー」
 カズは吉村には訊ねることなく部屋を出ていった。

 開けっ放しの戸の向こうに見えるのはダイニングとキッチンだ。あたしはまたそれで驚く。確かに料理の音も食器の音も近くに聞こえていたが、隣の部屋にあるとは思っていなかった。家の一部分ではなく、ここだけで生活できる、独立した部屋に見えた。
「ここはどこ?」
「昨日、同じことを訊いた。憶えてないのか? おまえの新しい家だ」
 しかめた声が答えた。
 あたしは、冷蔵庫を開けているカズの背中から吉村へと目を転じた。
「ここ、あの……大きな家じゃないの?」
「そう遠くないところにあるマンションだ」
「……お母さんは?」
「総長の家にいる。おまえたちを一緒に置いたら一緒に逃げる可能性がある。母親にとってはおまえが、おまえにとっては母親が人質だ」

 吉村はためらいもなく残酷なことを口にする。
 ただし、昨夜みたいなことが毎日あるわけではないのだという安堵を覚えた。それはまた、母のことを気遣っていないことの裏返しでもあり、あたしはそういうずるさを吉村に見られたくなくて目を伏せた。
 その視界にカズの脚が入ってくる。トレイにオレンジジュースとコーヒーが追加して置かれた。

「アオイ、今日から外に出るときはカズがつく。カズが都合悪ければアツシだ」
 あたしは顔を上げて、吉村、カズと見上げて、また吉村に目を戻した。
「よろしく、アオイ」
 混乱と呆然と、綯(な)い交ぜになり、何も云えないでいるうちにカズが手を差しだした。
 その手を取ってしまえば有無を云わさず従わせられそうで、あたしは握手には応じる気にはなれなかった。
 カズの手がだらりと下がると、なぜか悪いことをしたように感じさせられる。その気持ちを無駄にするつもりはなかったのに。

「……あたしはここに閉じこめられるの?」
「外では必ずカズが付き添う。それだけの話だ」
「……吉村さんは?」
「少し離れた家に住んでる」
「結婚はしてなくても、女の人がいるの?」
 吉村はすぐには答えず、じっとあたしを見たすえ――
「いる」
 と応じた。

 独身だと知ったとき無意識によかったと云いそうになったことを思えば、その答えはがっかりしてもおかしくない。けれどそうならないのは、それが嘘だと直感したからだろうか。母が愛人だったというほうがずっと衝撃に感じていた。

「あたしも吉村さんのところに置いて。昔の愛人が産んだ子供だって云えば……」
「アオイ、できない。おまえはここに独りで暮らす。いままでと……変わったのは住み処だけで、あとはこの一週間となんら変わりない」
 云い聞かせるような口調は、別のことも含んで聞こえた。
「あたし……吉村さんとは自由に会えないの?」
「話は食べてからだ。もう半日食べてない」
 それを合図にしたようにカズはベッドの脇から立ち去った。

「あたしはこれからどうなるの? 教えてくれないなら食べない。ずっと、何も食べない。飢え死にしても、だれにも関係ない。お母さんはセックスしてれば生きていけ……」
「おまえのためだ。母親にはああやっておまえを守る道しか見つけられなかった」
 云われなくてもわかっている。母は、父がいなくなって本当に途方にくれていたから。
 なぜ――母はあのとき、そう叫んだ。約束、逃げない、娘だけは、というキーワードを並べれば見当はつく。
「お母さんをかばうの? 好きだから?」

 “毬亜”は母親といても、アオイのなかのずっと奥底に沈んで、ずっと孤独だった。
 毬亜。そう吉村が呼んでくれたとき、やっと在処が見つかったのだ、そう思ったのに。
 毬亜。それは、ただあたしが聞きたがっていた、意識を失う寸前の幻聴にすぎないのだ。

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