魂で愛する-MARIA-

第3話 寵辱

# 19

「アツシ、今日は帰っていい」
 ぼんやりした頭のなかにそんな声が侵入した。

「若頭(かしら)……」
「この娘くらいならカズがいるだけで充分だ」
「……わかりやした」
「アツシ、嘘を吐く必要もなければ、よけいな事実を口にする必要もない」
「もちろんっす。失礼します」

 遠ざかる足音に紛れて、金属音がする。戸の閉まる音、何かがわずかに軋む音と深い吐息、そして煙草の香りが広がった。

「カズ、アオイのことをしばらくおまえに頼みたい。大学が休みの間だけでもいい」
「なぜご自分で面倒を見られないんですか?」
「事情がある」
「なるほど。本心としては――」
「おれはよけいな云い訳をしたようだな。こういった世界にいる大方の連中と違って、おまえが頭の切れる奴だってことを忘れていた」
「事実であろうと、よけいなことを口外してまわることはしませんから。ただ、この子はまだ十五ですよ。こういう目に遭う落ち度が彼女にあるとは思えませんが。父親の借金でしょう?」
「さすが、正統派の和久井組の後継者の意見だな」
「一般人には手を出さない。それがこの世界での暗黙の掟(おきて)だと認識していましたが」
「一般人に手を出したわけじゃない。色恋沙汰になった相手が一般人だったというだけの話だ」
「だれがだれを愛着してると?」
「総長が女に二年も執着していることはなかった」
「もともとは一月さんの愛人だったと聞いていますが」

 鼻先で笑ったような気配がする。

「よけいなことを垂れ流す奴がいるようだ」
「知っておかないと、それこそよけいなことを云う破目に陥りやすいんですよ」
「なるほど。一理ある」
「世間からすれば好き勝手にやってるように見えるんでしょうが、内情は上下関係の厳しい、ここは窮屈な世界ですね」
「……どういうことだ?」

 不自然な沈黙が二秒をカウントしただろうか、鷹揚な声が問い返した。

「一月さんにも逆らえない人がいるってことです」
「意気地がないと?」
「いえ。つらいだろうなと思ったんです」
「なんの話だ」
「だれがだれに愛着しているのか。逸らされた質問に戻って自分で答えを出してみました。僕は、一月さんは任侠を地でいく人だと見てます。この子はせめてって思っていたはずです」

 またふっと吐息が聞こえる。

「一月さんを尊敬する下っ端の独り言です。お気になさらず」
「戯れ言にいちいち目くじら立てるつもりはない。おまえはもう帰っていい」
「はい」

 二回めの戸の開閉音がすると、あたしはくっきりと目が覚めていった。
 夢うつつで聞いていたことは本当になされていた会話なのか、いまは声が皆無でうやむやになる。
 目を閉じたまま身動きをせず様子を窺っていると、自分じゃない、深い呼吸音が聞こえた。それだけ静かなのだ。
 踏切の遮断音や車の走る音、隣の部屋で流れるレゲエ。耳をすましてもそれらの日常音が少しも届かない。
 そもそも、いま何時なのか。
 ふとんのなかにいるけれど、ふわりとくるまれるような感触はあたしのものではなかった。

 ここはどこ? 知らないふとんのなかでなぜ眠っているの?
 ――と、思い巡ったとたん、何が起きたのか鮮明に甦ってきた。
 違う、あまりに突飛すぎて夢だったかもしれない。だとしたら、いつから夢見てるの? 見知らぬふとんのなかにいるいまも夢?
 知らず、あたしはむせぶように喘いだ。

 部屋の空気が静から動へと転じ、あたしのほうへと流れてくる。その気配におどおどした様で目を瞬(しばたた)きながらゆっくりと開いた。
 かわらず、笑顔が想像できない表情で吉村があたしを見下ろしている。吉村がいるということが悪夢などではなかったと示した。込みあげてきたものを吐きださないよう、口もとを両手で覆った。嗚咽はのどに痞え、火傷しそうな熱に変わる。

「すぐ戻る」
 吉村は背中を向けた。目で追い、吉村が視界から消えると、寝たまま首を巡らして部屋を見渡した。
 あたしは驚くほど広いベッドに寝ていて、あとの家具といえばベッドサイドのテーブルとソファセットだけだった。閑散として、人が住んでいる雰囲気ではなく、ホテルみたいな宿泊施設でもなさそうだ。

 吉村は云ったとおり、まもなく戻ってきた。
 テーブルにコップと玉粒の入ったプラシートを置くと、吉村はあたしを抱き起こす。ベッドに腰かけ、プラシートから二つの粒を出すと残りをテーブルに放って、かわりにコップを取る。
「飲め」
 あたしは吉村の手のひらにのった、おそらくは錠剤を見つめて、首を横に振った。
「避妊薬だ。処女だろうがそうじゃなかろうが妊娠の可能性は一緒だ」

 とっさにあたしが取った行動は、空気がぴんと張った静寂を生んだ。肌を弾く音が響いたあとは、静かなあまり、錠剤が部屋のどこかに跳ね返って転がる音が妙にうるさい。うつむいたあたしは吉村の視線を頬に感じる。ぴりぴりと熱線を浴びているように感じた。
 吉村がテーブルにコップを戻すと、あたしは背中を丸めて首をすくめた。殴られるということも覚悟したのに、そうはならず、また錠剤を取りだす音がした。

「口を開けろ」
 錠剤を摘んだ指が口もとにくる。
「咬みついて喰いちぎるならそうしろ。ただし、これは飲め」
 あたしが口を開くまで、どれくらい時間がたったのか、吉村は痺れを切らすこともなく待っていた。

 二つとも飲んでしまうと、吉村は立ちあがって焦げ茶色のガウンを脱いだ。その下には何も身に着けていない。垂れた男根が見えると、嫌な記憶を揺さぶられてあたしはぱっと目を逸らした。
 さっき抱き起こされたとき、躰の中心に鈍い違和感はあったが、明らかな痛みはなくなっている。それがよけいに悲痛に感じた。躰は心を置き去りにして、このまま苦痛を忘れていくのだ。

 吉村はベッドに上がってくると、大きな枕を二つあたしの背後で重ねて、そこに背をもたらせた。そうして吉村はあたしを引き寄せる。膝の裏がすくわれて、吉村の脚の間にお尻がおさまり横向きで抱かれた。
 あたしも真っ裸で、肌と肌が触れ合う感覚は浴室でのことを思いださせる。
「何もしない。このまま眠れ」
 身ぶるいしたのを察したのだろう、吉村はそうなだめ、あたしの頭を抱きかかえるようにして自分に寄りかからせた。

「……何時?」
 やっと口を開いてみると、舌が上あごに貼りついたように詰まった。笑ったのか、いや、ため息だろう、頭上に吐息を感じる。
「夜中の一時だ」
「ここはどこ?」
「おまえの新しい住み処だ」
 その意味はなんとなくわかった。ぼろぼろの家から出られることが少しもうれしくない。今日の――正確には昨日の夜のようなことがこれから何度もあるのだ。

「汚い、の……」
「髪の毛から脚の爪先まで躰は洗ってる」
「違うっ」
 叫んだつもりがかぼそい声しか出ない。
「おまえがどうあろうと、ためらうことはないと云った」
「お母さんのこと好きなの?」
「おまえと母親は違う」
 どうとでも受けとれる、答えになっていない答えが返ってきた。
「いまは眠れ」
 手のひらが濡れていく頬を覆った。
「寒くないか?」
「ううん……ちょうどいい」

 吉村の呼吸に合わせ、頬の下で胸が上下する。それが鼓動と連動して、ふとんがわりに吉村の躰にくるまれているのが心地よくなっていく。あたしは愚かさを忘れて眠りについた。

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