魂で愛する-MARIA-

第1話 堕ちる

# 03

 吉村は父と同じ年くらいだと思う。一重(ひとえ)だろう細い目に、くっきりと出っ張った鼻と厚めのくちびるは意外に相性よくおさまり、顔立ちが悪いわけではない。頬が痩(こ)けていなければ少しは近づきやすいだろうに、何着持っているのだろうという黒鳶(くろとび)色のスーツはいつもピシッとして、手で触れることさえ拒む気配がある。クラブにも何度か顔を出し、母やほかのホステスたちといるのを見てきた。終始くちびるには笑みらしきものが浮かんでいるが、撫でつけた髪が乱れないのと同じようにその眼差しが和らぐことはなく、捉(とら)え所のない男だ。

 なんとなく目に留めてしまい、そんなふうにあたしが観察しているのを知っているのか、ふと目が合うことがある。すると、にこりともしない冷ややかさをたたえる。あたしの視線を追い払いたがっているのか、結局、あたしはぱっと目を背ける。
 吉村は借金取りの男というよりは、借金取りの男たちを束ねるボスだろう。手下がいつも控えている。
 実際、学校まで付き纏っていた男たちを、そのへんにしとけ、と連れ去っていたのは吉村だった。

 控え室からバッグを取ってくると、やっぱり吉村には若い男が付き添っていた。
 はじめて見る男だ。あたしを見てわずかに眉をひそめた。
 あたしも同じ表情をしたかもしれない。
 若い男には、いままで男に見いだしたことのない上品さみたいなものを感じた。吉村の節榑立(ふしくれだ)った部分を寸分の狂いもなく整えたような顔貌(がんぼう)で、吉村とは違った世界に住んでいそうなのに、どこか堂々として見える。吉村が顎をしゃくって無言の命令を下しても蔵田のように少しも怯んでいない。

 若い男は手のひらを向けてすっと腕を流し、あたしを招いて先導すると、吉村があとをついてくる。三階にある店を出て階段をおり、外に出たとたん、むっとした夏の匂いに襲われる。歩道に横付けした黒塗りの車が目に入った。
 運転席にいた男が車を降りてフロントをまわってくると、後部座席のドアが開けられた。あたしは促されるまま乗りこんで奥に詰め、吉村が隣に乗り、若い男は助手席におさまった。

 怖くないと云ったらまったくの嘘になる。
 借金取りの男たちが、ただの借金取りでないことはわかりきっていた。息をつくことさえ緊張してふるえてしまう。持っているのがバッグだけというのも心細い。あたしは縋るようにショルダーストラップをぎゅっと握りしめた。
 車が発進してまもなく、すぐ隣で小さな金属音が聞こえた。、車内に小さく明かりがともる。影ができたかと思うとまた金属音がして、直後、むせるような煙草の香りが広がった。
 吉村は静寂を好むのか、まえにいる男たちは一切口をきかず車のなかはしんとしている。

 息が詰まりそうな気配のなか。
「アオイ、いくつになった?」
 唐突に吉村が問いかけ、名前で――ホステス名だが――呼ばれたのははじめてだったこともあり、あたしは一瞬、簡単な質問の意味も把握できなかった。
「……十五……一週間したら十六になります」
 なんとなく、たった一つでも上に見られたくて付け加えた。いや、年を上に見られることよりもあたしは早く大人になりたいのだ。子供だから何一つまともに考えられないで対処もできない。
「五日か?」
「はい」
「二年まえはただ痩せ細ったガキだったけどな。まだガキには変わりねぇが女の変貌ぶりには驚かされる」

 ふっと吐息が聞こえて、あたしは無意識に隣に目を向けた。
 それを待っていたかのように吉村は腕を上げ、あたしの首根っこをつかんだ。吉村を向いたまま頭を固定され、その吉村は背中を起こしながらあたしを引き寄せる。
 驚いてハッと口を開いたとたん、煙草臭さが口のなかに広がった。
 んっ。
 吉村の細い目を間近に意識してあたしはとっさに目をつむる。口のなかを軟体動物が這うような感覚は何がなんだかわからず、されるがまま受けとめるしかなかった。呼吸が難しく、呻き声が口のなかでこもる。酸素不足のせいか、のぼせたように顔が上気していった。
 舌を引きずられ含まれたかと思うと吸いつかれて、慣れない感覚に舌が痙攣する。あたしの躰が脱力すると、見計らったように吉村はくちびるも手も放した。吉村の腿に倒れこみそうになって、その寸前、あたしは喘ぎながらなんとか手をついて自分を支えた。

「はじめてか?」
 吉村はあたしと違って息も切らさず平然とした声で訊ねた。
 何が? いまのは何? 何をされたの?
 あたしの頭はうまく回転せず、そんな疑問を抱く。
 吉村はあたしの答えを待つことなく、すでに答えはわかっているとばかりに薄く笑った。そしてそっぽを向く。
「どう変わるか、楽しみだな」
 独り言みたいな言葉が表す意味とは裏腹に、窓の外を見やる横顔は筋張っていて、少しも愉快そうには聞こえなかった。

 そうして車内は静けさを守り、やがて車は大きく構えられた瓦屋根の門をくぐった。
 高い木の塀で囲まれた敷地内は、個人の住まいとは思えなかった。五台ほど似たような車が並ぶ横につけてエンジンが止まる。
「口紅を貸せ」
 不意打ちの要求はあたしを戸惑わせる。吉村はいつもこんなふうだろうか。口紅という意味がわかるまでに数秒、あたしは慌ててバッグを開いた。
 なかのポーチからリップスティックを差しだすと、吉村は黒っぽいハンカチで自分の口を拭っていた。ハンカチをジャケットのポケットにしまい、吉村は受けとったリップスティックのふたを取った。片方の手があたしの顎をわずかに持ちあげると、クレヨン型のリップがくちびるをたどった。
 わざわざ身だしなみを整えるということの意味がよくわからないまま、すぐに戻されたリップスティックをバッグにしまった。

「行くぞ」
 その言葉に反応したときには運転手と若い男が、はい、と答え終わり、吉村はあたしに背中を向け、すでに開けられていたドアから出るところだった。
 ついていくさきに見える和風の建物は、やはり家というには大きすぎる気がした。玄関の両端には屈強な男たちが待機していて、近づくと吉村に対してだろう、無言で頭を下げる。木製の引き戸が開けられ入ってみると、どこまであるのかという広い廊下しか見えない。家のなかは静かだが、隅に並んだ靴が無人ではないことを示している。

 廊下を二つほど曲がり、奥まったところで吉村は足を止めた。
「お待ちを」
 運転手の男があたしを引き止め、一方で吉村は戸のまえで正座する。
「吉村です。お待たせしました」
「入れ」
 一拍置いて太い声が飛んできた。
 唸(うな)るように轟(とどろ)いて、あたしはますます緊張する。
 吉村は戸を開け、相手の顔を見たか否かのうちに両手を床につき、頭を下げた。
「失礼いたします」

 ボスだと思っていた吉村よりも力を振るうだれかがそこにいるのだ。いまになって漠然とそう知り、緊張が怯えに変わった。
 お母さんとほんとに会えるの?
 呆然とそう思ったとき、あたしの耳に女性の悲鳴が飛びこんできた。足がすくむ。
 吉村が立ちあがる間に運転手の男があたしの背中を押す。運転手から引き継いで吉村の手が背中を支え、あたしをなかに招いた。
 すると、畳に敷かれたふとんの上で四つん這いになった裸の女性が目に飛びこんできた。
 その光景がなんなのか。
 あたしにはやっぱりすぐには理解できなかった。

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