魂で愛する-MARIA-

第1話 堕ちる

# 02

 日雇いでどこかの工事現場で働いている父と、夕方から仕事に出かけるあたしはすれ違うばかりだ。
 その日――
「毬亜、すまない」
 “おかえりなさい”と“いってきます”を相次いで云ったあと、父は突然そう呼びかけた。
 母は、仕事中に間違って呼ばないよう、毬亜とは云わなくなって、だからあたしは久しぶりにそれが自分の本当の名前だと認識した。驚いたのはそればかりではなく、謝罪されたこともそうだ。

 まじまじと見た父は、顔立ちは悪くないのに四十そこそこの年齢よりも老けて見えた。外で働いていて、しわのすき間まで日焼けしているせいだろうか。
 働くことをけっして放棄していない父がお金を賭けるなんていうゲームにのめりこむことさえなければ、いま頃あたしは高校に通っていて、カレシだってできていたかもしれない。
 母は賭け事を病気だと云った。けれど、病院に連れていく元手もなかった。
 もう泣いてわめいて訴えてもしかたがない。
 それが最後になるなんて思いもしないまま、あたしは父には応えずに出かけた。

 どういうことなの?
 母に問いただすと、信じられない愚行を知らされた。
 父は、あたしと母が懸命にお金を工面している間、借金相手の誘いを受けて賭け事でお金を返そうとしていたという。
 嵌められた。そんな父の云い分は、相手が卑劣であることを考慮しても、もはやまかり通るはずがない。
 挙げ句、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなるほど借金をふくらませて、果ては消えた。

 消えたと知らせに来たのは借金取りの男たちらしく、最初あたしは母の報告を否定した。
 夕方ちゃんと会ったんだから、どこかに出かけているだけかもしれない。
 父に謝罪されたことを思いだしたあたしは、母にそう向けつつも半ば自分に云い聞かせていた。
 その推測を母は首を振ってすぐさま退けた。
 母はなぜ男たちの話をたやすく信じてしまうのだろう。そのことは、消えた、という意味をわからなくさせた。
 ただ単に、あたしと母や男たちのまえから、というだけなのか、この世から、なのか。

 そして母は、おじいちゃんやおばあちゃんに迷惑をかけるわけにはいかないから――そう云って、話をしてくるから、とふたりでアパートに帰ったあとまた出かけていった。
 それから一週間、母は帰っていない。
 携帯電話は通じて話せるけれど、店に出てくることもない。
 母が疑いもせず確信したとおり、とにかく父は消えた。だから、母の声が聞けるだけでもいいとあたしは思うべきなのか。


「アオイちゃん、お金に困ってるんだってねぇ」
 パウダールームから出たとたん脂肪男の声がして、驚いたあたしはすぐ後ろのドアに背中をぶつけた。
「きみの気持ち次第で肩代わりしてあげるよ」
 なんの対処もできないうちに脂肪男は続け、逃げ場所のないあたしに迫ってくる。
「なんの話か、わたしにはわかりません。ごめんなさい」
 びくついた気持ちをなんとか抑制して惚けた。

 どこからそんな話を仕入れたのだろう。母はそんなお喋りをしない。たとえ、同僚にでも。あたしが母の娘であることさえ、店のなかで知っている者はいない。あたしと母の関係は、この業界ははじめてというまったくの新人と、それを手取り足取りで面倒をみる“ママ”、とだれもが思っていたはずだ。
 漠然と不安が集う。
 このところ、脂肪男のずうずうしさがひどくなっている。それが母、兼ママが店にいないせいなら、あたしはまだまだ現実を甘く見ていたということだ。

「わからない、ねぇ。どちらにしろ、僕はアオイちゃんに贅沢させてあげられるよ。こんな店もやめて……」
「おっと、蔵田(くらた)社長。いただけない話だなぁ、それは」
 あたしはさらに身をすくめた。
 脂肪男をさえぎったのは借金取りの男だった。蔵田がぎょっとして振り向く。

「ああ、吉村(よしむら)くん。金さえ払えばいいだろう?」
「そうはいかないんですよ。いろいろと“お気に入り”なんでね。約束をすぎてもらっちゃ困る。金を積んでできることには限界があるってことで頼みますよ。まあ、蔵田社長がどうしても仏さまに会いにいきてぇっていうんなら、押し通せばいい。見なかったことにしますが」
 吉村と呼ばれた借金取りの男は軽い調子だが、言葉の節々に脅しを込めている。このあたしがそう思うのだから、脂肪男がわからないはずはない。その蔵田は、吉村に手のひらを向けてなだめるようにひらひらさせた。
「酔った勢いだよ。三代目には内緒に頼む。約束で充分だ」
「合点(がてん)しました。では、のちほど、ということで」
「ああ、楽しみだ」
 蔵田は舌なめずりをしながら、舐めまわすようにあたしの全身を見渡すと、背中を向けて立ち去った。

 吉村と残されたあたしは、ぱんぱんに伸びたジャケットが貼りついている蔵田の背中から目が離せず、それが視界から消えてもその消えた場所から視線を逸らせなかった。
 吉村をいないものとして扱えればいいのに、動けないあたしは簡単に吉村の手中に握られている。

「行くぞ」
 どこに? そう訊ねるのが怖い。
「……まだ仕事は終わってません」
「もっとわりのいい仕事がある。来い。まずは母親のところに連れていく」
 あたしはぱっと吉村を見やった。
 痩せた躰つきに見合って吉村の目は細く、怖いというよりも冷酷な印象がある。
「お母さん?」
「ああ。会いてぇだろ。どうしようもねぇ親父と違って借金をちゃんと返すおまえへの褒美(ほうび)だ」
 あたしは何も考えず即座にうなずいた。
 これからどうなるのか、これからどうすればいいのか。あたしはそれを母に聞きたかった。
「嬢ちゃんは親孝行のいい子だな」
 吉村は薄いくちびるを歪めて鼻先で笑った。

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