魂で愛する-MARIA-

第1話 堕ちる

# 01

 ねぇ、夏休み、うちはまた韓国だって。たまにはハワイとかにしてほしいんだけどなぁ。毬亜(まりあ)はどこか行く?
 そーいえば。駅の近くにステーショナリーのお店、土曜日にオープンするって。行かない? 毬亜も好きだよね!
 見て、これどう? わたし、似合うかな? 毬亜はいいな。なんでも似合うから。
 ここのラスク、美味しー! これ以上食べたら太っちゃいそう。毬亜は食べても太らない体質だよね。うらやましいなぁ。
 毬亜、聞いて! 告白されたんだけど! でも、中一で早くない? カレシいるってどう思う?

 毬亜、勉強ついていけてる? テストはどうだった?
 旅行は行く暇ないけど、映画でも観にいこっか。毬亜の好きな漫画が映画になってるでしょ? そのあとは服を買って、それからハンバーグ屋さんでどう?
 毬亜、お母さん、仕事に行ってくるから。戸締まりして、だれが来てもドアは開けちゃだめよ。


 ――毬亜。
 それは、きっとあたしの名前だ。
 記憶の奥底にあって、耳には残っていないほど――
 ずっと、ずっとまえのこと。



「アオイちゃん、顔だけ見ればまだ十五歳でも通りそうだね」
 五十歳をすぎた男に十五歳と二十歳の見分けがつくのかはわからないが、通りそうも何も、八月の誕生日がくるまであたしは十五歳だ。
 顔だけ、と限定されたことに気落ちしながら、にっこり笑った。躰つきは確かに、二十歳と見分けはつかない。
「ありがとうございます。このままでいられればいいんですけど」
「アオイちゃんはいつまでも他人行儀だな」
 酒臭いため息が向けられ、あたしはなんとか鼻を摘みたくなるのを堪えた。
「僕はこんなところで上下関係を強要するつもりはないよ。対等でいいって云ってるだろう」
 そう云いながらも太腿に置いた手は、自分は客だ、と暗に迫っている。
 どこかの会社の社長だというが、不健康にもこの男の躰全体を脂肪化しようと企むのはだれか、ついには指先までもがぶくぶくと腫れぼったい。あたしの腿をさすりながら、偶然を装い、短いフレアスカートの裾を捲(めく)りあげている。
 せめて他人行儀にしていなければ、この男はどこまでもずうずうしくなるだろう。この男に限らず、どの男だってそうだ。

 いつも不安と身の危険を感じていながら、ここから逃れる術(すべ)も選択権もあたしは持たない。
 十四歳になったばかりのとき、二十歳だと偽り、名も偽り、お酒を飲む男たちが集うこのクラブで働き始めた。酔っぱらう楽しみだけではなく、女に持ちあげられて気分がよくなるらしく、男たちはお金を惜しまず足繁く通いつめる。
 お酒を飲むのに破格のお金を払ったり、そのお金を払っているのだから当然とばかりに躰に触ってきたり、男には幻滅しか感じていない。
 そもそも男に幻滅する発端となったのは、蒼井太二(あおいたいじ)――父だった。
 二年まえまで、あたしは普通に生活していた。

 建設会社に勤めていた父は朝から晩まで忙しくしていて、母の加奈子(かなこ)は、時給が高く、昼間に学校に行くことがあっても休まなくてすむからと夜間の弁当工場に。そんなふうに働く両親がそろい、そして、友だちと買い物に行ったり遊びに行ったり、中学生だった独りっ子のあたしがいた。友だちみたいに毎年の夏休みの旅行先が韓国だというような贅沢はできなかったけれど、ごく普通の日常の羅列。
 けれど、それは母が取り繕(つくろ)っていただけの普通だった。

 母が弁当工場などではなくここで働いていたことは、中学二年になってまもなく知った。
 父は賭博(とばく)中毒者で、多額の――その具体的な金額は知らないが借金を抱え、母の給料と日々の節約では間に合わなくなった。
 残業をしていると思っていた父はどこかで賭け事に浸かり、地味な仕事をしていると思っていた母は派手な衣装で夫でもない男のお酒の相手をし――そんなある夜、乱暴な形(なり)をした男が二人、アパートにやってきた。
 ドアスコープを覗いたとたん、ドラマでしか見たことのない類(たぐい)の男たちだとわかった。
 どんどんとドアを叩く音、あるいは蹴る音。伴って、甲高いキーで張りあげられた声。
 鍵があのときほど頼りなく感じたことはない。とっさに飛びすさったあと、あたしは立ち尽くし、一方的な不服、もしくは脅迫を聞かされていた。

 貸した金を返せ――とそのひと言ですむことに、妻と子がどうなっても知らないぞ、と付随する。中学生であろうが、それが遠回しの警告だとは察せられる。いや、警告だとかそんな生ぬるいものではなく、はっきり脅しだった。
 二時間後に帰った父は泥酔して当てにならず、母が帰るまであたしは起きて待った。その実、どういうことか聞きたい気持ちよりも、怖くて眠れなかったのだ。
 夜中の三時にまだ起きていたあたしを見て母は驚き、そして、借金のことを知らされた。
 大丈夫だから。そんな安易な言葉でなだめられたけれど、いまになれば、それを信じたあたしは本当に子供だったと思う。脅しに来た時点でもう返せない状態にあることは歴然だったのに。

 それから返済を迫る男たちは、昼夜を問わずやってくるようになって、その対象は両親にとどまらず、中学校のまえにも現れてニヤニヤしながらあたしを無言で脅す。
 何が『大丈夫』なの?
 あたしが泣きじゃくりながら訊ねると、母はクラブでホステスをしていることを教えてくれた。それもどんな職業か、あたしはドラマを見て知っているくらいだが、給料がどこよりもいいと云う。
 大丈夫だと信じられたのは、結局わずかな日々だけだった。
 男たちが会社に押しかけたせいで父は仕事を辞めざるを得ず、どこを放浪しているのか家にいることも少なくなり、母も家を空ける。両親が逃げまわるなら、あたしを捕まえるのがいちばん確実だ。あたしは、学校に出回る噂と、男たちへの恐怖で学校には通えなくなった。

 あたしもお母さんのところで働かせて。
 中学生は許可がないとアルバイトをできないとか、夜間は働けないとか、そんな規則は知らなかった。手助けしようという献身的な気持ちからでもない。ただ、男たちに追いかけまわされるよりも、母の傍にいて少しでも恐怖から逃れたかった。
 渋々だったけれど、母も傍に置いておけば、と思ったのかもしれない。
 数日後、母は男たちと話を付けたと云って、あたしは独りだという不安からも追いかけられる不安からも逃れられた。

「アオイ」
 仕事が終わり、いつものように控え室で待っていると、毬亜、とは呼ばなくなった母が入ってきた。ドアの近くで立ち尽くして見えるのは、疲れのせいだろうか。
「お母さん、お疲れさま」
「お父さんがいなくなったの」
 母は放心し、途方にくれた声でつぶやいた。

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