最愛−優恋歌−

章−最愛− first


 きみがこの手を求めてくれるなら、おれはその手に愛してると伝える。
 その手が離れるとするなら、刹那、さらってしまうだろう。
 きみを失うことよりも、きみが遠ざかることよりも。
 おれが怖いのは壊して壊れてしまうこと。
 何よりも怖れているのは、きみを恋う、この心かもしれない。



 十二月も中盤を過ぎた二十日、匠は正午過ぎに出勤すると、各部門に顔を出して、それから営業部企画課の課長室に入った。本部長室と比べれば質素ながらも、殺風景なビジネス部屋ではなく、どこか温かみがあって品よく備品がそろっている。昼休みの時間、課長も秘書もどこかに出かけているらしくだれもいない。
 匠はダレスバッグをデスクの脇に置いた。習慣で手が伸び、写真立てを起こしてから、窓際に寄ってブラインドを全開にした。ビルの三階から見る景色は壮観とは云い難いが、窓越しに見渡すと薄い青色をした空が広がり、気分はいい。陽が差しこむなら暖房さえ不要なほど暖かい日だ。
 見慣れた景色がいつもと違って長閑に感じるのは、やっと落ち着いたからかもしれない。匠はデスクの端に腰かけて写真を見下ろした。
「邪魔するよ」
 軽いノックに続いてドアが開く。匠は写真立てを伏せて立ちあがった。
「お疲れさまです」
 匠の(ねぎら)いに淳介は可笑しそうにうなずき、奥まで進んで窓際に立った。
「そのまま返すよ。イラクの油田はいよいよだな」
「資源開発機構が落札できれば日本初ですし、連合している以上、業平は一役も二役も買うことになります。設備だけでなく資源部門の参入も確保できますから」
「業平にとっては社歴に残るビッグビジネスだ」
「はい。業平が持っている情報は提供し尽くしていますし、あとはまもなくの結果待ちです」
「楽しみだ、忙しくはなるが。優歌はどんな様子だ?」
 淳介は表情のみならず口調をも緩めて、だしぬけに話題を私事に変えた。淳介は匠の出社を逸早(いちはや)く聞きつけてやって来たはずで、仕事の話より私事が目的であることは歴然としている。

「早起きしたわりに気分が(たか)ぶっていて眠れないようですよ。ぐったりはしてますが、いまのところ躰に問題はありません」
 匠もまた肩の力を抜き、いままでの上司と部下という立場より柔軟な声音に変えた。
「どうだね。父親になった感想は」
 そう訊かれて匠はつと返事に詰まった。答えるまでの間に夜中からついさっきまでの出来事が走馬灯のようによぎる。
「わかりませんよ。とにかく無事にすんでよかったというのでいっぱいいっぱいです」
 匠は投げやりともとれるような口調で首をひねり、淳介はその様子を見て高笑いした。
飄々(ひょうひょう)として異例のスピード出世しているきみでも、参ることがあるらしいな」
「どういう意味ですか。もとをいえばお義父さんのせいですよ。そうでしょう? 引き受けたからには責任がありますから」
「私はせっついたにすぎない。佐織もいずれはこうなったと云っている」
「どういうことですか」
 匠は眉をひそめて訊ねると、淳介はにやりとしてデスクを指差した。その先には伏せた写真立てがある。
「吸血鬼は修道女に恋をして、そのうち、そこに子供も加わるんだろうな」
「……。見たんですか」
「中国の支社長が自分の娘との縁談を持ちかけるつもりが叶わなかったと嘆いてね。ついつい好奇心が湧いた。中国では気が緩んでいたらしいな」
 匠は顔をそむけるように少しうつむいて短く笑った。
「いまとなっては自分で動かなかったことは不甲斐ないと思ってます」
「きみらしい後悔だ。優歌の性格をかみ合わせれば、そうできなかっただけの気持ちがあったんだろうと私は解釈している。そう思わなければ、結婚話を持ちかけることはなかった。優歌が弱いだけに、それなりの保証が不可欠だったんだ。親ばかだな。だが、その保証は間違いなかった」
「おれの気持ちがなくなることはありませんが、それが保証になるかというのは疑問です、とだけ忠告しておきます」
「心しておこう。私も仕事帰りに寄るつもりだ。初孫の顔が早く見たいな」
 淳介は愉快そうに笑いながら出ていった。

 匠はため息をつくと同時に独り笑った。
 伏せた写真立てを起こすと、優歌が笑って匠を見返す。二カ月ちょっと前の気候的にすごしやすくなった九月、遠出した公園で撮った写真だ。ふわりとしたワンピースは体系を隠しているが、よく見ると腹部がふくらんでいるのがわかる。
 家族が増えたいま、淳介が云ったように、もう少ししたらこのワンシーンにふたりの子供――息子が加わるだろう。
 匠が、 いや、優歌とふたり、ここに至った事の発端。すべては“写真立て”に始まった。



 業平商事に入社後、三週間の研修から本社営業部企画課の小売部門、通販事業班に配属された。さすがに業平の本社営業部となるとエリート社員ばかりだが、社員間で角立った様子はなく、むしろいい意味で刺激になっているようだ。
 半年がたつと仕事の流れも把握できて、匠も自分の判断で動けるようになった。
 そんな十月の初め、慣例となっている営業本部長の新人呼びだしを受けた。
 感想、不安、不満、希望、そしてそれらに伴う改善策など、新人の目線を通じて得る見解は会社の鈍化を回避し、つまりは時勢に遅れを取ることなく、時にその利点を上回るような斬新なアイデアが提案される。
 そういう目論見(もくろみ)のもと、匠ははじめて本部長室を訪ねた。秘書に通されたものの本部長の水辺淳介は電話中だ。匠が引き返そうとすると、淳介は相手と話しながら手招きした。
 待つ間に匠はデスクに近づき、それとなく部屋を見回した。営業部フロアのど真ん中にある本部長室は家具調の備品で統一され、焦げ茶色の木目が格調高く見せている。
 そのなかで、デスクの上にある、ビジネスとはおよそそぐわない写真立てが目立った。

 目を留めた匠に気づいて、淳介は電話中ながらも相手が保留しているのか、写っている妻子を、三人娘だ、と冗談めかして写真立てを差しだした。匠は別に見なくてもよかったのだが、上司からそうされてけっこうですとも断れずに受け取った。
 淳介はよく部下を家に呼びつけることがあるという。それは一種のステータス化していて、もしそういう機会があるのなら顔を見知っておくのもいい。写真立てをデスクに飾るという習慣の意味がよくわからないまま、匠は写真を眺めた。
 なんでも淳介は社内争奪戦のすえ、成就して結婚したらしい。その的になった“三人娘の長女”はなるほど華やかで明るさを感じさせる美人だ。“次女”は“長女”をそっくり若くした感じで、それからいちばん小さい“三女”に視線を落とした。
 中学生だろうか、二人とは対照的にひっそりとしている。躰の細さと幼さのせいで全体的なラインが儚く、支えていないと倒れそうな頼りなさを感じた。おそらくは父親である淳介が写真を撮ったのだろうに、はにかんだ笑顔がその儚さを裏付けている。
「美人だろう?」
 電話が終わると淳介は立ちあがり、冗談めかして訊ねた。遠回しに返してくれと云われた気がして、匠は同意しながら淳介に写真立てを返した。
 思いのほか、匠は写真に見入っていたようだ。
 優歌。
 淳介が口にした名は、その意味のとおりに優雅に音を奏でた。

 (ひら)の立場で本部長室に出向くのはごく(まれ)だ。その稀少な機会がある都度、余程最初のことが頭に残っているのか、淳介は匠に写真を見せた。逆に考えれば、それだけ自分の行動が奇怪だったということになる。
 当惑しながら、勧められるまでもなく匠は衝動に負けた。
 あのとき、匠は見入っていたということを気にも留めなかったのだが、やがて気づいた。それが病の始まりであることに。勝つとか負けるとか、そう思った時点で病は深く浸透していたのかもしれない。
 馬鹿げている。
 年を考えろ。
 未経験の病を疑いつつ、何度、自分を嘲ったのか。
 入社三年目で班長という役を与えられ、淳介からは家に来ないかと誘われるようになった。匠は何かと理由をつくってはそれに(かこつ)けて拒んだ。出世に響くかもしれないと考えるよりも、衝動に負けるよりも、自分への怖れのほうが勝った。
 その間、成長が際立つ過程にいる彼女は、だんだんと写真の中でただ幼いという時代から抜けだしていく。それでも変わることのない無防備な雰囲気。
 写真を見るたびに淳介から聞かされる娘たちの成長報告に加えて、今度は金城たちの口からも名前が出るようになった。
 こういうのをなんて云うんだ? 蛇の生殺しか、生き地獄か。
 肉体的欲求不満かもしれない。そう理由をこじつけて大学のときの素行を繰り返そうとしたが、まったくその気になれない。
 第一、自分の性に合わないと身に沁みたはずだ。相手との間に意味を見いだせないままやっても欲求を解消できるどころか、恥を曝した後味の悪さと虚しさだけしか得られず、残ったのは汚点だけだ。

 匠は自分の病が手に負えず、苦しさすら感じた。
 まるで無駄に足掻いていた最中、思いがけなく彼女と会う破目になったのは、発病してから三年半がたつ頃だ。
 職場見学に来るとは聞いていたが、へんな気分で迎えたその日、淳介に不意の来客があって急きょ案内を頼まれた。
 よりによって自分が指名されるとはどういうことだ?
 そう考えて、匠は“へんな気分”の意味がわかった。
 期待だ。“生きて”いる彼女を目にすることができるということ、“現実”にいる彼女を知って熱が醒めるかもしれないということ。その対立した二つの期待。

 預かっていた携帯が鳴る。
『お父さん? いま……』
 卑怯だ。
 ふんわりと響く声を聞いた瞬間に匠は内心でつぶやいた。
「ああ、悪いけどいま――」
 動揺に耐え、匠が答えている途中で予告もなく、電話は無下に切られた。
 写真の印象と(たが)わず、おとなしいとは聞いている。いまの反応はその性格が()したことなのか。それならこっちから電話という手段よりも、迎えにいったほうがいいんだろう。
 そう判断して下におりる間にまた携帯音が鳴った。それを無視して、業平のビルを出るとすぐ先の歩道に女子高生が二人見えた。

 見分けるまでもなく認識したとたんに、醒めるかも、という期待のほうは木っ端微塵(こっぱみじん)に散り、怖れは現実化した。
 匠は心臓をわしづかみにされたような気分で近づいた。
 長年の友人からも固いと云われる自分が、初対面で相手にどういう印象を与えるかは知っている。傍に立つと、その瞳は怯えたように匠を見上げた。
 それが彼女にとっても自分にとっても本物の恐怖に変わらないようにと願いつつ、匠は自戒した。

「驚かせて悪い。優歌ちゃん?」
 はじめて音にした名はすんなりと響く。

 長い髪はいつもおろして写っている写真と違い、耳の後ろで二つに結んでいる。そのぶん顔立ちがくっきりと見えた。
 おずおずとした瞳と小さく尖った鼻先、そして写真でいつも笑みを浮かべているくちびるはいま、戸惑うように緩く結んで震えている。写真には映らない肌の透明感が余計に繊細さを浮き彫りにした。

 匠の問いかけに、はい、と彼女がかぼそく答える。

 大丈夫だ。
 思わずそう云ってやりたくなった。云えなかったのは病へのささやかな抵抗なのかもしれない。
 その抵抗とは真逆に、心細くした瞳が気になって、不必要にも営業部のフロアを出た彼女を追いかけた。その挙げ句、匠は具合が悪いのだからという体裁をつけて彼女に触れた。
 そして、最後まで彼女の怯えが無くなることはなく、緊張しすぎたと云う彼女の言葉に衝撃を感じるという、抵抗が空しくなるほどの矛盾。
 おれはどうしたいんだ?
 自分で自分を問い質しても答えは見つからない。
 そのうえ、かまいたくなる衝動。
 それは自分がおかしいんじゃないかと思うほど強く、もう会わないほうがいいと考えた。
 未練がましいのは名刺を渡してしまったことだ。
 その無様(ぶざま)な行為が一カ月後、匠と彼女を繋いだ。

 電話を取って不自然な間のあと、声を聞いたとたん、匠の中で初対面のときの感覚が繰り返される。会社の前の歩道という、同じ場所で見た彼女はやっぱり怯えた目を向けた。
 (ひそ)めているつもりでも、抑えきれていない 衝動が彼女には感じ取れているのだろうか。
 そう疑って、顔色が悪くないか? と遠回しに訊ねてみた。それが匠に限ったことではなく、おとなしさそのままの極度の緊張性からくるとわかって、衝撃が解消されたのもつかの間、彼女は逃げだした。

 やっぱりだめだ。
 制御不能に陥りそうな感覚が匠を(おのの)かせ、いまだに後悔を引きずっている下劣な素行が自分と彼女の距離を知らしめる。
 そうわかっていて尚も迷うおれってなんだ?
 疑問も消えなければ、答えも出ないなか、匠はついに淳介の誘いに折れた。違う。淳介の誘いというのは云い訳にすぎない。匠は自分自身の誘惑に敵わなかった。

 淳介の家を訪ねて、三回目に会った彼女の瞳がおどおどしているのはすぐに見て取れた。そのすぐあとに、金城と喋る彼女が見せたのは写真に写った笑顔だ。
 匠は苛立つ。苛立ったすえ、余計なことをして彼女を困らせた。うつむいた彼女を見て後悔した。自分が苛立ちではなく(うらや)んだことを知る。いや、それでは生温(なまぬる)い。匠は()いたのだ。
 こんなことをしに来たわけではない。大人気ない自分に呆れかえってため息をついた。

 それから抑制しようとすればするほどぶっきらぼうに接してしまい、距離が近くなることはなく、逆に避けられるようになった。
 それなのに、会えればいいのか、声が聞ければいいのか、その根本さえ定かでないまま病は重症化して欲求を止められない。
 ますます嫌われるだけだとわかって通うのは愚かとしか云い様がなく、彼女がだれかと平気で話しているのを見ると不快さと闘わなければならない。
 自虐的だがそれでもかまわない。むしろ、そういう彼女自身が匠の衝動を抑制する(たが)になり、ちょうどいいと思った。

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